TAR ターのレビュー・感想・評価
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DVD初見。 尤もらしいが。 大物のスキャンダルを今風に捻っただけ...
DVD初見。
尤もらしいが。
大物のスキャンダルを今風に捻っただけの凡庸。
大女優の毎度の激演も、肝心の指揮動作が指揮っぽいでしょ?感丸出しで見てられぬ。
演り損。
Wの悲劇三田佳子の風格尊大繊細に軍配。
オチの据わりも悪い。
要するにツマラン。
にしても3時間
ケイト・ウィンスレット自身最高の演技、みたいに囃されてたから若干楽しみな気持ちもありながら鑑賞したが正直複雑だった。
ただ彼女の演技にだけ関して言うと、ワンカットが長かったり、セリフや立ち振る舞いも凄みを感じるものがあってなるほどな、と思えた。
ストーリー自体は複雑で難解な印象を抱いた。
出てくるワードが馴染みのないものばかりだったからか、登場人物の顔と名前が一致しないからか、とにかく分かりづらかった。
私の集中力不足ということも充分考えられるので、考察サイトを読んで細かい描写の意味する所に追いついたが、にしても3時間もかけて鑑賞した末に辿り着いたのがこんな感じかーという感じ。
部屋のインテリアや建物の内装、服装や車といった映画の世界観を彩る部分に関しては綺麗なものばかりでいいなと思った。
未来からのメッセージ
Q:姉さん、もしこれがヘテロの白人男性を主人公にしていたらどうだったでせうね?
A:たぶんヘビーではあるけどフツー、だったはず。
それを性的少数者の女性(しかし白人)にしたところにひねりがあって企画として目新しいし、権力もってる人間の暴力性に性別や性志向の差はない、って視点の徹底ぶりは「多様性」ガチ勢の考えた企画という印象。
冒頭からだいぶ長い時間、意図がわからないままただ映像を眺めるしかないシーンが続くので集中力が必要だし、会話で出てきた名前が何個かシーンを跨いで出てきたりするので記憶力も求められるのでつかれる。でもずっとジョーカーが出てるダークナイトみたいに、ケイト・ブランシェットから目が離せない。
しかし早い。早すぎる。人類にはまだ早すぎる。
よくエンタメは時代の半歩先くらいが丁度いいとか言われるけど、その点これは余裕で2歩先くらい先を行っていた。
旧世界の人間としては我が身を振り返ってほんのりと(かつての価値観に迎合して生きてきた)後ろめたさと同時に過渡期を生きるつらみを感じたりもした。冒頭のシーンとかなー、つい気持ちはわかる。ってなるもんなー。。
今このネタをやるんなら、180度逆のオチだったらもっとわかりやすかったんじゃないのかな、と思う。
でもきっと、こちとらそんな半端な覚悟じゃねぇ!って気合の入った人たちが作ってるんでせうね。
だからこれは目先のエンタメに満足しない未来からのメッセージで、今よりも5年、10年寝かした方がもっと良くなるんじゃないのかな。
ちなみに私はエンタメ映画が好きなんですねー(反省の色なし)。
正直、お腹のちょーしが悪く終始ゴロゴロしてたのもあり、割とがまん比べではあった。でも音の鋭敏さや画面の緊張感など、没入度は高いし劇場で見るべき作品なのは間違いない。
ラストは観客に委ねる系エンドかもですが、仮に「サンセット大通り」みたいな意図だとしたら、あれだけではちょっとわかりにくかったかな。。
選択肢が多すぎても困る
楽団で指揮者として活躍からのミステリー作品。
まず、序盤は鑑賞者に催眠術の耐久レースを仕掛けてくる。
無事突破すれば話は進んでゆき、不穏、そして最後は明後日の方向に飛んで行く。
メッセージ性などもあるので、
内容がよく分からない場合は解説サイトを見ることを勧める。
★評価+1くらいはされるかもしれない。
良い点
・楽団と話の掛け合わせ
・程々に怖い
悪い点
・眠い
・長い
ケイト・ブランシェットの演技はすごいけど……
ケイト・ブランシェットが凄い演技をしているようなのは分かるのだけど、自分はノリ切れなかった(^^;
物語としては、頂点を極めつつある指揮者リディア・ター(ケイト・ブランシェット)が世界最高峰のベルリンフェスで指揮するのだが、子供いじめ被害から始まって、副指揮者の馘切り問題、チェロ奏者のエコひいき⇒オーケストラとの不調和、若手指揮者の自殺⇒告発などなど様々な事が起こって精神崩壊状態となっていく感じなのだが、過去映画の『ブラックスワン』などと同系統の作品に見えたが、本作はやっぱり入り込めない感が強かった😥
なぜノリ切れなかったかを思うと、やはり登場人物の関係性が序盤で明確に把握できなかったことではないだろうか?
また、時々、リディアのドイツ語会話が字幕なしとなるのも、「アメリカ人が観ているのと同じ環境にするため日本語字幕を付けなかったのだろう」が良く分からない。
あと、尺が長めの割に[ツボ]らしいエピソードが無い……など不満が沢山出て来る。
自分に合わなかった映画であった…とするしかない感じであり、本作について今後いろいろ調べたりしてもう一回観よう…などという気は起こらない(^^;
なんだこれは
わからない。何かを暗示させることが次々と起きるが、はっきりした事件が起きるわけではない。マエストロと言われる世界的な指揮者で、他者を寄せ付けず、圧倒的な力を誇示する女性が崩壊していく様を淡々と描いていく。だが、決して短いとはいえない映画なのに、中弛みはしない。
それというのも、ケイト・ブランシェットだ。彼女の演技が凄まじい。監督の手腕もあるだろうが、彼女の演技から片時も目を離すことができないのだ。
ラストシーンを観たあと、思わず「なんだこれは」と呟いてしまった。やはり、わからない。でも凄いものを観たという気がする。
ラストが拙速では?
出だしはとても緻密で素晴らしい。特にジュリアードでのレッスンのシーン。本筋に入るまで少し冗長な気もするが、綿密さに免じて問題なし。でも問題が発覚して転落していくところから、その綿密さが崩れていく感じがする。特にラスト20分ぐらいはB級映画のような展開では?(私がしっかり理解できていないのかもしれないが)
ただ、この映画はクラシック音楽好きにはたまらないディテール(というかスキャンダル)で満たされている。登場人物からしてカプラン(ギルバート・カプランですよね?マラ2専門の実業家アマチュア指揮者、故人)、アバド、カラヤン、(早世した女性チェリストの)デュプレ、(その元旦那の)バレンボイム、それにレバインやデュトワのセクハラ話も出てきて、カラヤンがザビーネ・マイヤーを入団させようとした事件も題材になってる!ここまであけすけにクラシック音楽業界の暗部?を描いた度量には感服します。日本で芸能界の暗部をリアルに描いた映画なんてないでしょう?クラシック音楽ファンは必見です!
ケイト・ブランシェット
に陶酔し、震撼させられる。
孤高の指揮者そのものというよりそれ以上、彼女だけであれば満点。
ストーリー展開はやや散漫ですっきりしない。
数々の問題が降りかかるが、その真偽もはっきりしない。
どこまでが錯乱なのか、仕組まれたのか、モヤモヤが残る。
こういう観賞者に投げかける展開は個人的には余り好みではない。
ラストもどうなんだろうか。
途中にもどんな名音楽も価値観が違えば騒音という場面があったが、
ラストもそれに近い意味なのだろうか。
どうにもすっきりしない分、☆を減じた。
それにしてもケイト・ブランシェットは凄かった。
それだけでも大スクリーンで観る価値はあった。
残念。
異世界
オケの人事によるわだかまりからやがて追われる指揮者の話。
リディア(ケイトブランシェット)には思いやりが欠けているが思いやりがないといけない──わけではない。
いけなかったのは人をないがしろにしたときどうなるかを予測できなかったことあるいは予測しなかったこと。
長く忠にかしずいてきた秘書のフランチェスカを選任せず、副指揮者セバスチャンをあっさり解任し、主任チェリストにソロをやらせず、かつて楽団にいた教え子のクリスタは心を病んで自死してしまう。
強い権力を有する者あるいは天才。往往にして実力や才能を有する者は人としての倫理が抜け落ちていることがある。それが大丈夫な時代もあったが現代の公ではだめだ。そういうキャンセル文化についての映画でもある。Tár=リディアは悪人というわけではないが、独裁的でえこひいきをする癖もあり、それが自身を追い詰めていく──という話を見たことのない雰囲気とカメラで追っていく。
絵に高級と成熟があった。いわゆる富者の気配だが金満な気配ではなく洗練された豊かさの気配。
前段の部分で、すこしめんどうな一介のファンと話すシーンがある。その女性がバーキンをもっていてすてきなバックねとリディアがほめるのだがリディアの生活環境はバーキンを持たなければならないようなSNS的金満とはランクがちがう。すべてがSFのように美しかった。
特大書棚のある住居、仕事用のフラット、テーラーメイドの服、ポルシェタイカン、ピアノ、調度品や装飾品、間接照明、高級家具、トールスピーカー、打放しコンクリートのミニマル感、プライベートジェット、レストランの高級感。トンネルを走っている絵は惑星ソラリスのようだ。モノトーンとブランシェットの彫像のような顔立ちとブロンド髪と寒色のベルリン。個人的には見たことのない映画だった。
Little Childrenから16年ぶりの監督作品でトッドフィールドがブランシェットにあて書きした映画だそう。
ブランシェットがTárになりきっていることと撮影によってこのわけのわからないような雰囲気が生じてしまっている。
Little Childrenとはぜんぜん違うのでトッドフィールドのカラーはわからないがおそらくキューブリックのような完璧主義者なのだろう。
理知で精力的だが、直球で物怖じしないリディアの人となりが魅力的に描かれる。ふつうあからさまに貧乏揺すりをしている者に雄弁をふるわないし、功労者にさらっと解雇を告げたりしないし、いじめっ子を直接脅しつけたりしない。
強行な姿勢がかのじょをじわじわ窮地へおいやっていくことと、それに対する警告のような強迫観念や夢判断の描写が同時に描かれる。
映画が人間(庶民)生活へ下野するのは、隣家に請われて瀕死の母親を介護用便座へもどす作業を手伝ったとき、ぬいぐるみを渡そうとして暗い建物へ入ったとき、仕事を追われて実家へもどったとき──ぐらいであとはすべてがハイクラス生活風景になっている。その対比が“いびつ”でもあり生活環境においても心理スリラーになっていた──と感じた。
Tárの命題のひとつとしてあるのは人間感情と楽曲の関係性──である。
大学の講義をしているときある黒人学生がバッハが嫌いと言った。その理由をバッハはノン気(同性愛者から見た異性愛者を指す)だから男尊女卑であり子供が20人もいるから嫌いなんだ──と述べる。
偏屈な理由だがそこから敷衍して人間性は作品にあらわれるか否かということをリディアは縷説していく。簡単に言うと嫌いな人間がつくった曲ならば、その曲を聴いたとき、人間同様嫌いの反応をするだろうか?おそらくそんなことはないだろうし、そうでないなら作者と曲を同視するのはまちがいだ。
にもかかわらず指揮者はマーラーの感情──そこにあるのは歓びなのか悲しみなのかについて──あるていど解釈していかなければならない。
よって解釈を書いた彼女のスコアは彼女自身のようなものだ。
が、リディアは人間関係を指揮ほど巧くは解釈できなかった。
ラスト、彼女はコスプレした観客あいてにモンハン用のオケを指揮している。さてどんな解釈をしているのか。・・・。
まえにとある日本映画のレビューで日本映画は二回りほどばかがみる想定で映画をつくる──とけなしたことがあるが、それと逆で理知を絵にしたような映画だった。が、観衆側に権威者がわきそうな映画でもあった。いずれにしろ見たことのない映画だった。
天才はマイノリティ
どのような手法で映画を制作するか。
主役の感情の流れ、ストーリーの順を追っていくような物語でなく
ドキュメンタリーのように、ありのままの事実を、順番はバラバラに
でも効果的に、構成するようなドラマが増えているなあと。
観る方も、予定調和でないがゆえに
次はどうなるのだろうか?と物語にひきこまれていく。
目の前で起きていく事象について
あらゆる角度から考えさせるような、そんな構成さに
まるで、権力から情報統制されているような、
末恐ろしさがある。
その事実自体が、物語自体のテーマとリンクすることで
今までになり、カタルシスが映画鑑賞にやってくる。
昨今の映画手法が、その手法をとり始め、
業界をより高度で、芸術の深淵さを孕んでいることが嬉しい。
日本映画だと最近だと、「ある男」がそんなロジックで制作されていた。
それにしても、観る人によって、深く突き刺さる部分は違えど、
天才はマイノリティで、弱者とは、どの領域の人に起こりうる。
本当の弱者は精神性なのだと、 実感しました。
鑑賞動機:ケイト・ブランシェット9割評判1割
天才だって権力には毒されてしまうのか。いや、品行方正とは言えなくても、そんなに悪辣なことをしているわけでもなく。
確実に言えることは、ブランシェットやめないで、ってこと。
Japan appeared twice!
I really enjoyed watching ‘Tár’ in a small theater in Tokyo, that was called as a mini theater in Japan. This review may contain "spoiler" information, so I will write the review in English. When I saw this film, I immediately understood why historical, but one of the most challenging company, DG and the most brilliant orchestra, Berliner Philharmoniker, cooperated with this movie.
I think Todd Field, who wrote and directed it, moved the main character from a male conductor in the early 2000s to a female conductor in 2022. We know that two very famous conductors were socially excluded because of the "Me too" movement, and it was even mentioned in the movie. They had undoubtedly great talent and outstanding ability. There are some objections to this kind of cancellation culture. We also noticed that we had already lost one of conductors.
Lydia Tár, played by Cate Blanchett in this film, cannot be forgiven for what she did. I think that was probably related with why this movie didn't get an Academy Award. In fact, her behavior towards the other child was harsh, especially when her adopted daughter was being bullied in kindergarten. When she taught at the Juilliard School, she criticized Max, an apparently nervous BIPOC student, and was too harsh to force him to face the music of Bach. Perhaps Lydia's words and deeds towards Krista, who was her former student, should have been as we expected. It was never enough revealed how much Lydia's assistant, Francesca, was involved in the process.
The salvation of this film is that Lydia later got the chance to conduct in Philippine, even if it's an opportunity that's far from what she's done so far. When she met a massage parlor, she recognized what kind of country she finally got her chance.
Finally, I would mention one more thing. Another European stigmatized conductor has frequently visited our country and has given excellent performances, mostly with the understanding of some of the eminent figures in the Japanese classical music world. This seems to reflect Japan's tolerance of sexuality in old days, but we are experiencing a little excess-criticism these days about the matter. I wonder what the people who were strict about this issue think, although Japan appeared twice in the story.
天才カリスマTAR・・・神秘と名声の海に泳ぐ
この映画は実に巧妙に罠が幾重にも仕掛けられています。
ひとつは、
リディア・ターの性別。
ケイト・ブランシェットの容姿から、女性であると確信して
私は観ていました。
それは間違いではなくTARは女性指揮者として描かれますが、
TARは女性にして両生を併せ持つ多性な存在なのか?!
(後に子供と妻のシャロンの存在が明かされます)
妻と子供を持つカリスマ・指揮者?
そしてTARの能力が如何にずば抜けていて、
ベートーヴェンやリストなどの楽聖と
同じかそれ以上であると観客は思い込まされてしまいます。
バーンスタインの弟子で、EGAT・・・
(エミー賞、グラミー賞、アカデミー賞、トニー賞)を受賞した
15人のうち1人・・・などの経歴に目が眩みます。
半分以上を占めるTARのインタビューの受け答え、
会食中の会話、指揮や作曲を勉強する学生へのアドバイスなどなど。
監督・脚本のトッド・フィールドが音楽、特にクラシック界の博識や
見識が散りばめられて、
特に既に亡くなった指揮者や生きている音楽家の実名がバンバン
挙げられて興味は尽きませんでした。
(この辺りあまりに高尚な話について行けない部分もあり、
・・・寝落ちして首が何度か落ちました)
でもこの音楽界への提言がトッド・フィールド監督の一番言いたかったこと
なのだと思います。
指揮者であるTARのリハーサル風景。
このリハーサルは実に本格的で、ケイト・ブランシェットの手の動き、
指示の出し方など本物の指揮者にしか見えない程成りきっています。
そして流されれ名曲の20秒程のフレーズの断片が震える程美しい。
「もっと聴きたい、もうちょっとイエ永遠に聴いていたい」
その飢えと渇き。
それが更にTARの神秘性を盛り上げていくのです。
(でもエルガーのチェロ協奏曲はせめて1楽章ぜんぶ聴きたかった)
そして持ち上げるにいいだけ、持ち上げて、
今度は落としにかかります。
TARはパンデミックのため【マーラーの9つの交響曲の全曲録音】を
4曲完成したところで中断していました。
1人の指揮者がマーラーの交響曲9曲全てを録音した例は未だかつて1人も
いないのです。
TARですら、畏れと不安に慄いており、ナーバスになり周囲に
キツく当たります。
まず高齢のセバスチャンを解任し、
ソロのチェリストを楽員の中からオーディションで選ぶと言って
総スカンを喰らいます。
美人女性チェリストへのへのエコ贔屓。
(全ては天才の我儘・・・そう言って許されれ時代ではないのです)
悪いことは更に更にエスカレートしていきます。
絶望的な出来事。
若手指揮者のブリスタが自殺してしまうのです。
今までの追い風は猛烈な逆風になってTARを襲います。
多くの女性にセクハラをしていた。
もともとからのパワハラに加えての複数のセクハラ行為。
TARは妻のシャロンに嵌められたのでしょうか?
告発の動画やメール。
TARへのデモ行進・・・仕事を降ろされ・・・
暴漢に襲われて負傷、
住むマンションも体よく追い出されて住処も失い、
行く先はベトナム?
(幽玄の滝と川の流れ・・)
本当にセクハラがあったか?なかったか?
それは真実か?捏造か?罠か?
具体的な描写が殆ど無く、伝聞証拠のようなもの。
SNS社会の怖さとも重なります。
もう真実は私には分からない。
TARは奇跡の天才・楽聖であり続けてほしかったです。
(それでは映画は面白くない?)
この映画を観て、
この映画の主人公TAR。
存在しない筈の架空人物の哀しいまでの才能に
戦慄と羨望を覚えました。
この映画を制作したスタッフ・監督・脚本家・音楽とクレジットされている
チェリストで作曲家のヒドゥル・グドナドッテル、
そして誰よりこの難役を軽々とこなした異才
ケイト・ブランシェトに敬意と感謝を捧げます。
(ところで、ラストの意味は?)
《地球なTARには狭い?》
主人公の独善と、芸術表現の根本を描いた秀作
(完全ネタバレですので必ず鑑賞後にお読み下さい)
この映画『TAR ター』を、結論から言うと個人的には面白く見て、秀作だなと思われました。
特に主人公のリディア・ターを演じたケイト・ブランシェットさんの演技は説得力が図抜けていて、ベネチア国際映画祭の最優秀女優賞やゴールデングローブ賞の主演女優賞を受賞したのも納得だと思われました。
この映画『TAR ター』のストーリーを超絶、雑にまとめると、
【優れた指揮者である主人公リディア・ターが、自身の高度な表現レベルを周りに求めることによって、不適格発言をした副指揮者をパワハラ的に辞職させ、かつての教え子を自殺に追い込み、地位の利用によってセクハラまがいの登用や扱いをある楽団員に行い、それらの問題が表面化すると楽団を孤独に追われ没落するストーリー】
になると思われます。
すると、本来は全く共感性の薄い主人公なのです。
しかしこの映画は一方で、芸術表現の根本を描いており、そこに(大切な部分で)到達している主人公によって、観客は主人公に説得力を感じて映画を最後まで観ることになるのです。
ところで私的な興味に引き付けると、芸術表現とは
A.的確に表現する
B.的確表現への過程が美しい表現である
の2点が重要になって来ると思われます。
すると、<A.的確な表現>において、この映画の主人公リディア・ター(ケイト・ブランシェットさん)は特に優れているということになります。
<A.的確な表現>とは、タイミングやトーンなどが的確だ、ということです。
主人公リディア・ターはこの映画の冒頭のインタビューで、指揮者が刻む「時間」の重要性を語っています。
<A.的確な表現>とは、作品や人々や自身が求めるタイミングやトーンを、ピタリと「時間」を刻んで当て続ける、いわば生理的本能的なセンスだと思われます。
そして、主人公リディア・ターは、このタイミングやトーンをピタリと当て続ける<A.的確な表現>の能力が図抜けていて、的確さでズレてしまう他の人々を支配することが可能になるのです。
ところが、芸術表現には(個人的には)《B.的確表現への過程の美しさ》も必要とされると思われます。
この《B.的確表現への過程の美しさ》とは、<A.的確な表現>をする過程で、その表現が広く世界や人々に開かれている必要があることを指していると思われます。
私達が(音楽にしろ映画にしろスポーツにしろ)あらゆる表現で感動や感銘を受けるのは、それらの表現が、私達の経験や歴史つまり[様々な関係性の集積]との分厚い接点を持っているからだと思われます。
つまり、芸術表現での《B.的確表現への過程の美しさ》とは、([様々な関係性の集積]である)私達の経験や歴史に対して開かれ通じている、とのことなのです。
映画の中で、学生の1人が、主人公リディア・ターに対して、バッハは白人男性優位の時代の作曲家でマイノリティに差別的で好きではない旨の発言をします。
するとリディア・ターは、このバッハ嫌いの学生に対して、SNS的にカテゴライズ分類された場所からの批判の浅はかさを否定し、バッハの表現がいかに人々に開かれているのかを説明します。
しかし、このバッハ嫌いの学生の苛立ちは逆に頂点に達し、リディア・ターに罵声を浴びせて教室を出て行きます。
このバッハ嫌いの学生の問題は、貧乏ゆすりを繰り返すばかりで、リディア・ターに説得力ある<A.的確な表現>でバッハの問題を説明することが出来ていなかった点です。
しかし、バッハが、(マイノリティ含めた様々な立場の人々に開かれている必要の)現在においては《B.的確表現への過程の美しさ》(=[様々な関係性の集積]である、私達の経験や歴史に対して開かれ通じている必要)で問題があるのではないか?に関するこの学生の指摘は、当たっている面もあると思われるのです。
つまり、バッハ(あるいはクラシック音楽)は、クラシックの狭い世界でのみ現在における《B.的確表現への過程の美しさ》が保たれているに過ぎないのではないか?という疑義です。
主人公リディア・ターは、かつての教え子だった指揮者のクリスタ・テイラー(シルヴィア・フローテさん)を痴情のもつれなどから、(彼女は精神的に不安定で指揮者に向かないなどと各方面にメールし再就職をはばむなどし)クリスタ・テイラーを自殺に追い込みます。
そして、その前後にリディア・ターは、幻聴や幻覚を見ることになるのです。
このリディア・ターの幻聴や幻覚は、直接的には後に自殺するクリスタ・テイラーが発端と言えると思われます。
しかし、リディア・ターの幻聴や幻覚は、本質的には、(バッハはクラシックの狭い世界でのみ《B.的確表現への過程の美しさ》が保たれているに過ぎないのではないか?‥などの)リディア・ター自身の基盤であるクラシックの世界に対して、外の世界から発生している疑義の現われだと思われるのです。
リディア・ターは結局、外の世界から発生している彼女に対する疑義の嵐によって、楽団を追われ、実家に帰って師のレナード・バーンスタイン氏のビデオを見て音楽家を志した原点を思い出し涙するも(それは一方でこれまでの姿勢を変えることがないという再びの宣言とも言え)、最後はコスプレに身をまとう観客相手のゲーム音楽の指揮者として、クラシック音楽の指揮者としては没落して映画は終了します。
この映画『TAR ター』は、以上のように共感し辛い主人公であるにもかかわらず、あらゆる芸術表現の深い本質を描いているとも言え、静かな感銘を受ける作品になっていたと思われました。
ただ一方で、バッハ嫌いの学生や自殺したクリスタ・テイラーなどの視点は、現在の様々な人々に開かれた《B.的確表現への過程の美しさ》の重要さを指摘しているとは思われましたが、逆に彼ら彼女らからの<A.的確な表現>があったわけではありませんでした。
なぜなら、現在において、様々な立場の人々に開かれた《B.的確表現への過程の美しさ》を引き受けた表現をしようとすればするほど、<A.的確な表現>はその多様性の波に飲み込まれてぼんやり漠然とし続け、<A.的確な表現>から遠く離れた【凡庸な表現】に陥って行くと思われるからです。
私達は、この映画でバッハ嫌いの学生や自殺したクリスタ・テイラーなどの【凡庸な表現】に一方で出会っていたともいえるのです。
そこを明確に描かず、あくまで主人公リディア・ター中心に描いたところに、この映画の長所と短所が表裏一体に存在していたとも思われました。
映画の最後のクラシックの音楽とは真逆の歪んだ電子音が流れる中で、現在の表現のどん詰まりをこの映画は表現していたのだろうなとも思われました。
【男前‼︎】
男前ケイト・ブランシェットがぴったりハマり役。天才肌故の自惚れと脇の甘さから、周囲との軋轢と孤立に堕ちていく様を素晴らしい演技力で魅せてくれる。
旧態依然とした男社会のクラシック音楽業界に、レズビアン設定他も、不寛容な社会へのアンチテーゼとして描かれている。底辺からの再出発で新たな境地を見出すラストも◎。
158分ある上映時間のほぼ全てがケイト・ブランシェットにフォーカスしたカメラ、些細な生活音に過剰に反応する演出も、作品展開上キーポイントになっていて、ホラー的サイコパス的で面白い。オーケストラの演奏含め音響の良い映画館で観るのが正解の作品。
THEATER
本作の舞台はドイツ。ドイツは欧州の一部であり、欧州と言えば植民地時代から今に至るまで、あらゆる分野で権威の座にいます。特に芸術の分野は突出していて、例えば映画好きな方は「パルムドール」と「アカデミー」だったら、「パルムドール」の方が何となく芸術性が高く高尚に感じませんか?
この芸術に宿る権力の象徴がTARでした。作品そのものは普遍的なテーマでしたが、本作がユニークだと思ったのは、
・権力の象徴であるTARをレズビアンにしたところ
・ラストシーンで劇場で演奏されたのがクラッシック音楽ではなくゲーム音楽だったところ
・後半の舞台がドイツから東南アジアに移ったところ
でした。
つまり逆を返せば、欧州の白人男性がクラッシック音楽を欧州の舞台で演奏することは、時代遅れなのかなと。もう、主役(男性・音楽・地域)は変わった。そして、時代も確実に変わった。
THEATER(劇場)は、実に創造的で変化に富み、独裁的、権威主義的なものでない。THEATERは、ある一部の特権階級のものではなく、民主的。観客がお上品であろうが、コスプレしてようが良いんです。
TARはTHEATERの3文字から取ったのかな?と思いました。
YouTubeで、とある映画関係者が、本作は「ペトラ・フォン・カントの苦い涙」に凄く影響を受けていると思うと話していて、偶然にも同じ日に、本作と「ペトラ・フォン・カントの苦い涙」を鑑賞できて良かったです。舞台は両作ともドイツですしね。
ケイトブランシェットは良かった
ケイトブランシェットの演技は良かった。これは文句のつけようがない。
単に自分が早起き+二本目の鑑賞で冒頭のクレジットで半分寝てしまうくらいのコンディションだったのが悪いのかも知れないけど人物と名前が覚えられずやや着いていけなくなった挙句に予告で「映画史に残るラストシーン」とまで煽られてたのがあの終わり方で?????となった
よほど自分にはわからない高尚な意味づけだったのだろうとレビュー観たらモンハンが元ネタ?
いっそ腹が立ってきました
安直な倫理観に揺さぶりをかける怪作
名誉男性とキャンセルカルチャーの話。ちなみに私は男です。
私がクラシックの知識が全然なく、交わされる会話への理解が乏しいので、退屈しそうだったが、終始引き込まれた。
ストーリーは単純だが、倫理的にはかなり入り組んでいる。
・オープンリーレズビアン
・男性優位の歴史を持つクラシック音楽界で、世界的な頂点に立った女性
・女性の登用や育成に熱心
と主人公のターを紹介すれば、フェミニストであるかのような偏見を抱いてしまうだろう。
ところが、そこに
・女性への加害者性
というこの映画の最大の要素が積み上がる。そのことで、オセロで白が黒にひっくり返されるように、すべての見方が変わる。
ターは乱暴に言うなれば「名誉男性」とフェミニストから批判されるような人物なのだ。彼女は決して男性に高圧的なわけではなく、むしろ才能には等しく敬意を払うし、傲慢な人間ではない。
だが、権力者だし、その力をはっきりと自分のエゴのために利用する。そのことが世間に発覚するや否や、彼女の輝かしい人生は暗転していく。
ターをヘテロのシス男性に設定したら、ただのマチズモ批判映画だし、(メッセージとしては良くても)正直面白みはあまりない。その点、実はターはマッチョな「レズビアン」なのだ。
劇中、たびたびターが自説を語る場面が描かれるが、非常に論理的で理知的、個人的にさほど違和感を抱くことはなかった。だからこそ、次第にターのマチズモが明かされていくにつれ、いろいろと考えさせられてしまった。
かなり詳しくは語られない映画で、いろいろとわからないことも多かった。見方はいろいろある。むしろ反フェミニズム映画という見方すらある。
・人道的見地からバッハを否定する学生を論破するシーン。正直、私はターの説教にうなづいてしまったが、どうだったのか?
・副指揮者候補の秘書は、ロシア人チェリスト同様に、権威を利用したいだけの人だったのか?
・ターが怪我を負う場面で、男性のせいにするウソは、なんだったのだろうか?
わからないが、ターは人の意見やアドバイスを、実は聞こうとしない。唯一絶対的にピュアな愛情を注ぐ養子のいじめ問題にさえ、本人の意志を聞いたうえで行動するわけではない姿勢に、「聞かない」ということが、何より権威主義やマチズモの象徴的な行為なのだなと感じた。
近年、やたら増えたぶん、固定化したジェンダーメッセージを受けて食傷気味だったなかで、かなり揺さぶりをかけている映画であることは間違いない。
当たり前のことだが、フェミニストだの、ゲイだの言っても、一枚岩で同じ考えのわけではない。まったく劇中では描かれないが、ターの悪業が炎上し、キャンセルカルチャーの渦に沈んでも、なお擁護するフェミニストやジェンダーマイノリティの支持者は、この映画の世界にいたのではないだろうか。いろいろな感想を聞いてみたくなる映画だ。
アクアリウムシネマ(癒し無し)
前半戦、眠気にやられたので再度観直さないとならない。んームズい、というか自分のアタマが色々理解に追いつかない。
家で観るべきでは無いかも? 自分なら途中で止めてしまうから。映画館でひたすら集中して鑑賞することが得策。
ケイト・ブランシェットは本当に美しいです。ケイト・ブランシェットをただひたすら眺め続けた、癒しの無いアクアリウム映画でした
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