TAR ターのレビュー・感想・評価
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頂点って、恐ろしい。
頂点に登り詰めたあとの転落をまるでホラーのように恐ろしく描いた映画でした。そしてまるでフルオーケストラのように、様々なエッセンスが重なり合いひとつになったとても見応えのある映画でした。
ケイト・ブランシェットの演技が素晴らしい!カメラワークも音の演出も素晴らしい!傑作です。
ヒリヒリした焦燥感
ただ純粋に音楽に向き合った彼女が、常に追いたてられてる感は、痛々しい。
狂気なんて、1ミリも感じなかった。
天賦の才能は、周りの者がサポートすれば良いだけの事。
たった1人、純粋に彼女を愛してくれた娘とも引き離されて、たどり着いた場所で、彼女の音楽人生はリスタートした。
それはとても輝いて見えたな。
ただひとつ、アコーディオンのシーンは、コントかと思った😅
ノエミ・メルラン不発でした
ケイト・ブランシェトとノエミ・メルランのカラミに期待して観ました。
ノエミ・メルランの映画は「不実な女と官能詩人」から続けて七作目です。
ベルリン交響楽団の主席指揮者になったリディア・ター(ケイト・ブランシェット)。なんだかんだ言っても、女王様。第一バイオリン奏者のシャロン(ニーナ・ホス)とは婚姻関係をもち、養女と3人で暮らしていました。フランチェスカ(ノエミ・メルラン)はリディアの弟子で、マネージャーでしたが、副指揮者候補でもあり、師匠を熱愛(プラトニック?)していたような。突然、新人のチェロ奏者にぞっこんになりるリディア。以前にちょっとつまみ食いしたクラリスという女性奏者の処遇を巡って、フランチェスカと齟齬が生じ、男子学生へのパワハラ動画がSNSに流されるという今時のストーリー。そこへクラリスが自殺したと報道され、両親から訴えられる。クラリスの自殺への関与をマスコミに嗅ぎ付けられる一方、フランチェスカが突然失踪してしまいます。ノエミ・メルランは蛇がうようよ泳ぐ汚い沼の筏の上で横たわっていました。蛇に噛まれて死んだのでしょうか?自殺?よくわかりませんでした。
ニューヨークで出版した自叙伝はスキャンダルのせいでかえって売れたかも。
ケイト・ブランシェットは英語もドイツ語もスラスラですが、ドイツ語と時の字幕が出ない。これは片手落ちじゃないの?
メジャーな交響楽団から干されたリディアはタイだがラオスだかの楽団の指揮者に招かれますが、お客さんたちが、みんなへんなコスチューム。モンスターハンター?
わけがわかりませでした。
うーん😔
もしかしたら、ターっていう題名は
モンスターとハンターのターにかけたのか???
かなりのモンスターペアレントだったし、あっちのほうではかなりのハンターだったようですしね。
とにかくケイト・ブランシェット
結論から先に言うとケイト・ブランシェットの演技につきる作品だと思います。
とても丁寧に作り込まれている作品だとは思いますが、説明が少ないのである程度クラッシックに関する知識がないと、作品の良さが分かり難いものになっています。また、各エピソードが映像ではなく会話の中で語られることが多いため、かなり集中して観ていないと、ストーリーに付いていけなくなるかもしれません。もう少し万人受けするように分かりやすくして欲しかったです。特にラストシーンについては、私はTVゲームの類いを全くやらないので、正直なところどういう意味なのかよく分からなかったです。観賞後に調べてみてようやく分かったのですが、事前に分かっていれば、また違った感想を持てたのではと思うと少し残念です。
ただ、先にも述べましたがケイト・ブランシェットの演技には凄まじいものがあり、それだけでも一見の価値はあると思います。とても演技をしているとは思えないくらいターになりきっていました。何故この演技でアカデミー賞の主演女優賞を取れなかったのか不思議でなりません。
作品の評価としては、分かりにくい点を考慮すると星4つなのですが、ケイト・ブランシェットの演技に敬意を表して星5つとしました。
ケイト・ブランシェットすごい
最初のインタビューシーンからして、長回しと思うが、よくこんなに台本記憶して切れよく語れるなと驚く。魅力的な主人公。途中から怒涛の展開、最後びっくりの終わり方。割と長時間だったと思うがあっという間に終わった。
張りつめた糸
いやぁ~、見応えあったなぁ。ひじょうに完成度の高い作品だと思いました。
内容的に言って、あまり好きなタイプの映画ではないけれど、これは秀作です。文句をつけようにも、そういうところがほとんど見あたらない。
極限まで引っ張られた、硬く冷たい糸。その、いまにも切れそうな透明の糸をたどって我々鑑賞者は物語の中を進んでいく。
その糸は、細かく震え、ときに大きく、激しく振動し、狂気の音色を奏でる(大むかしに観た、『ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレ』を想起しました)。
凝ったシナリオ、端正な映像、練りに練られたカメラワーク。そして美しく迫力に満ちた音楽……。
ケイト・ブランシェットの演技については、まさに「圧巻」の一言。
「鑑賞する」というよりは、「体験する」と言ったほうがいいような、濃密な2時間半でした。
今もマーラーの5番の冒頭が頭の中で繰りかえし鳴っています。
追記
僕はクラシック音楽もいちおう聴くけれど、「『リディア・ター』という指揮者は記憶にないなぁ。コロナ禍の説明があるから、つい最近まで生きていた人なのかなぁ」、なんて思っていたら、架空の人物だったんですね。まんまとやられました。
知らぬ間に毒が体を廻っている映画
毒素の強い映画はこの世に沢山あるけど
この「TAR ター」は知らぬ間に
観ている私達に毒が廻る作品。
カリスマ女性指揮者ターの天才的能力を
堪能する物語と思っているといつの間にか体は痺れ
危険を感じる。
しかし!フラグだらけでちゃんと伝えない演出なので
ハマらない人には邪悪で地獄。
ハマる人は毒と共に快楽天昇。
これ、もっとサスペンススリラーが上手い監督が
撮ったらもっと怖いし
ハートフルに撮れなくもないし
トッド・フィールドという
ニュアンスを楽しむ監督の作品なんだなーっていう
楽しみ方をしました。
教えてあげよう族が湧いてるかと思ったらそうでもなかった/字幕が女言葉で?
なるべく事前情報を避けたいのでここも全く見ずに映画館へ。
終了後、皆さんの豊富な知識応酬合戦になってる映画.comを想像しながらるんるんレビューを開いて肩透かし。
「実際のところバッハは……」「フリーボウイングとは……」「このレストランは実在するんだけど……」「なんでアダジェットがヴィスコンティだと笑いが起きるかというと……」「てゆーかマラ5の最初のファンファーレをこうするところがアイディアで……」「ジャクリーヌ・デュ・プレ、出たーーー!」「このプライベートジェットの型式は……」「コッポラが撮ったのはもちろんベトナムなわきゃなくて……」「てか、ここでワーグナーに繋がる、基本メインの登場作曲家が皆ドイツなわけで……」「佐渡裕も英語とドイツ語ちゃんぽんだったかも……」「これはバーンスタインですね」「これはモンハンのコスプレ上映会でなんでヘッドホンかというと……」。
パンフには上記などなどが全部解説されてるんでしょうか。
あと、とりあえずベルリンフィル・コンマスの樫本大進の感想を聞きいてみたい。
音のいい映画館を選ぶほどオケシーンが多いわけではない。いきなり爆音になるシーンも演出的コケ威で指揮台に立っていてもあんな音量ではないでしょう(多分ボリバルを除く)。
ターの話し言葉の字幕がいわゆる女言葉なのは映画会社や翻訳者で葛藤はなかったんだろうか。
ペトラのパパですよ〜とまで言ってるんだが。もし日本特有の女言葉に訳されてると製作陣が知ったらどんな反応になるんだろう、と思った次第。トランスジェンダーじゃないにしても、せっかくあんな大熱演してるんだからそういうところはもう少し原語への歩み寄りがあってもいいかな。
苦しくなる
裁判、恋人との関係、アシスタントの不在、副指揮者との断絶、スキャンダルなどいろいろな負を背負ったまま最後の演奏に挑むと思ったら転んでメンバーを殴って終わる。あれだけ練習したのにそれだけか。鬼気迫る、それこそ火が出るようなとんでもない演奏が見れると思ってわくわくしていたら肩透かしだ。そんなつらい目にあっても人生は続くし、しかし身から出た錆でもある。
ターが実家に戻ってVHSで見た指揮者の言葉が心にしみる。
テーマ性や表現はすごいのだけど、全体的にお高い感じは全く好みではない。しかし、お高い世界だからこその高みが存在する。
現実世界でも過去の女性に対する行為でピカソの絵が値下がりしているという。創作や芸術や表現が、決して民主主義でも正義でもないことは当然なのだけど、それを是としない人々がいる。SNSのロボットと言われた人々が是とする、コンプライアンスでOKな表現や作品と、魂の自由を信じる人々が求める創作に、この世界はぱっくり別れるのではないだろうか。もうそうした動きは始まっているようだ。
2回観て分かったこと、分からなかったこと
今年の米国アカデミー賞で、作品賞ほか6部門でノミネートされた「TAR/ター」が、満を持して日本公開されましたので観に行って来ました。アカデミー賞では、本命「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」が作品賞や監督賞、主演女優賞などを獲得する結果となり、対抗馬と目された本作は無冠に終わってしまいました。しかし現実社会の諸問題とクラシック音楽業界の諸問題を見事に融合させた本作の出来栄えは、エブエブに負けず劣らず驚嘆すべき仕上がりとなっていました。
ただ、巷間言われているように、実に分かりにくい作品であることもまた事実。普通なら1回観て分からなければそれでお仕舞いなのですが、見落としたことがあるんじゃないか、見落とした部分に実は面白さが埋まっているのではないのかと思い、1週間置いて2回目の鑑賞をしてきた上での感想を述べたいと思います。
まず本作の「分かりにくさ」というのは、第一にジャンルが特定できないということが原因なのではないかと思います。公式パンフレットによれば、「サイコスリラー」とされていますが、この範疇だけに収まる作品では勿論ありません。それではどういう作品なのかと言えば、キャンセル・カルチャーやジェンダー論を扱った点では社会派ドラマであり、映像や音声の不気味さに注目すればホラー映画とも言えるし、権力を握った人物の横暴やそれに振り回される組織を描いた点を観れば政治ドラマでもあり、さらにはクラシック楽団の内輪話を克明に取材している点を観ればお仕事系ドラマであり、またこれが個人的には一番しっくり来るのですが、映画というツールを利用した芸術論でもあるとも言えるのではないかと思えました。こうした多様な要素を含んだ作品であるため、観る者によってはどこに注目していいのか分からず、結果的に理解不能、詰まらない作品だと思ったとしても不思議ではないと感じたところです。
また、英語が分かる人ならまだいいのかも知れませんが、基本的に字幕を追う当方のような観客にとっては、セリフを読むのに忙しくて、肝心の映像が頭に入って来ず、結果良く分からないというドツボに嵌るケースもあるんじゃないかと思えました。現に私も最初に観た時は、字幕を読むのに必死で、かつクラシック用語や作曲家、演奏家の名前がちょくちょく出てくることで、都度都度消化しきれない部分がありました。
何やらネガティブな要素を並べてしまいましたが、1回目の鑑賞後に各種解説を読んだり観たりした結果、前述の通り見落とした部分が多々あるのではないかと思うに至り、それを確かめるために2回目を観に行った次第です。その結果、各種解説の力を借りたことも手伝って、新しい気付きが結構あって、評価は一変しました。
というのも、1回目の時は、主役を演じたケイト・ブランシェットの熱演には大いに拍手を送りたいと思ったものの、彼女が演じたリディア・ターの傍若無人で自己中心的な振る舞いには正直不快感しかなく、全く感情移入できませんでした。ところが周辺知識を得て、さらにはストーリーも一通り頭に入った上で観ると、最終的にリディア・ターが実に魅力的な人物に観えて来るのだから面白いものです。
何故そうした変化が起こったのか?例えば劇中、ジュリアード音楽院での講義のシーンで、父権主義的で20人の子供がいたバッハを全否定する学生とディベートするリディア・ターは、「バッハに20人の子供がいたことと、彼の作品の芸術性に何の関係があるのか?」と言って大作曲家としてのバッハの作品と才能を称えます。この学生とのやり取りがスマートフォンで撮影され、後々リディアが窮地に追い込まれる原因となる訳ですが、芸術家の個人的な所業と作品の芸術性を紐付けていいのかというのは、実に興味深いテーマでした。勿論このやり取りを以ってリディアが良い人であるなどと言うつもりはありませんが、自身の芸術家としての自負をバッハに重ねる自信と、それを裏付ける実績には、一聴に値する論だと言わねばならないでしょう。
昨今過去の言動が掘り起こされてバッシングされるアーティストがいて、一時的に彼らの作品がメディアから忌避されるということがあります。これが「キャンセル・カルチャー」という奴ですが、バッハの個人的な生き方が断罪され、それによって彼の作品群が否定されるなら、現代音楽の根底が崩れる可能性すらある一大事となります。でも現代的なジェンダー論とか人権感覚を以ってバッハを断罪することが優先されるなら、それもまたあり得るということになる訳で、事は非常に複雑と言えるのではないかと思います。
折しも歌舞伎の市川猿之助さんが、週刊誌でゲイであることや、後輩やスタッフに対してセクハラやパワハラを行っていたことが暴露され、ご本人が自殺未遂を図り、ご両親が(恐らくは)自殺されるという事件が起きました。ゲイであることや、後輩やスタッフにセクハラ、パワハラしているというのは、まさにリディア・ターそのものな訳ですが、仮にこの自殺事件が起きなかったとして、明治座での公演はどうなったのか、来月公開される映画「緊急取調室」はどうなるのかなど、リディアの提示する芸術論は、まさに今現在起きている現実の問題であるというところが凄いところでした。
また、スリラー、ホラー的な部分に着目すると、リディアを追い詰めていく首謀者が誰であるかが、最後まで明かされずに映画は終わります。この辺りのモヤモヤ感が、評価を下げる一因にもなり得るようにも思えましたが、鑑賞後に観客に推理する自由を与えてくれたと思えば、逆にありがたいことだとも思えます(ちょっと強引だけど)。また、みんながスマートフォンを持っている現在、リディアほどの有名人ではなくとも、誰しもがネットに動画を晒されるリスクを持っているので、その辺りの怖さを改めて気付かせてくれる作品でもありました。
以上、2回観た感想を長々と書きました。2回観てすら、最後にリディアが舞台上で起こした暴力事件の経緯が理解できないのですが、それは3回目に観る時の課題としたいと思います(3回目がいつかは分からないけど)。いずれにしても、最初に書いたように一つのジャンルに絞れるような作品ではないため、感想も十人十色だと思います。私としては、特に芸術論の部分に興味が行ったのと、あとは何と言ってもケイト・ブランシェットの熱演に脱帽させられました。
そんな訳で、評価は文句なしの★5とします。
もっとクレイジーな
パワハラも相当理不尽かと思ったら相手をイラつかせていてそれほど勝手な先生とは思えない。精神疾患者にストーカーに遭うこと自体は明らかに被害者であるはずだが、その背景や経緯はぼやかされていて消化不良な印象はある。まあ肉体関係があったのでしょうが、どこまで搾取されてたのかフェアに描かれていない点もしたたかというか問題の難しさをちゃんと描いてるなと思いました。
納得や理解が難しい
自分は同性愛者でありながら、ジェンダーの批判的観点をもつ学生を圧迫する姿勢は納得できず、お気に入りの団員をわざわざオーディションにかけながら、他の団員の応募者はなく、非団員の応募者と天秤にかけるはめになったり、養子や恩師には親密な態度を示していたが、迷い込んだ家でけがをしてからは、ボタンのかけ違いのように不具合が次々と起き、パートナーとも行き違いになり、『地獄の黙示録』の舞台に行くことになってしまう。演奏場面が多かったのは良かった。
前後半で
違う作品かの様な感じです。前半は作曲家指揮者としてのプロセスや苦悩をドキュメンタリーの様に表して、後半はサスペンスの様な感じです。そう思うと作品が長くなるのは仕方ないかもしれませんが、自分には少し長かったです。
私の見た、「TARター」
「ター」の予告編は、マーラーの交響曲5番の冒頭を、ケイト・ブランシェット演じる主人公が指揮する場面で始まる。ベートーヴェンの交響曲5番、いわゆる「運命」の、あの旋律が、歪んで、肥大化して飛び出してきたような、エキセントリックなフレーズ。その鮮烈で、ある意味、グロテスクな音響と、両腕を鷲の両翼のように天に向かって突き上げる、ターのアクションが見事にシンクロし、同時に、マーラーの音楽の悪魔的な魅力と、ターという女性指揮者のカリスマ性も、シンクロして、圧倒的な印象を残す。映画のチラシに使用されている写真が、この場面。
映画の中でも、楽屋落ちのようにターのジョークとして、ヴィスコンティの名前が出てくるが、「ベニスに死す」で、この5番のアダージェットが印象的に使われて以来、マーラーの音楽を使用した映画はたくさんあるが、「ベニスに死す」に比肩するのは、「ター」くらいなのではないか。本編でも、ここは、ごく短いシーンだが、映画を見ている我々も、このワンシーンで、ターというキャラクターに魅了される。同時に、映画の中の演奏者や聴衆が、ターに、否応なく惹きつけられることも納得する。
この映画のあらすじは、おおよそ、次のように紹介されている。
リディア・ターは、アメリカの5大オーケストラで指揮者を務めた後、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者に女性として初めて就任する。ターは、同性愛者で、オーケストラのコンサート・マスターの女性と、公認のカップルとして生活している。天才的能力と類まれなプロデュース力で、トップの座を築いた彼女だったが、今はマーラーの交響曲5番の演奏と録音の重圧と、新曲の創作に苦しんでいる。そんなある時、かつて彼女が指導した若手の女性指揮者が自殺したというニュースが飛び込んでくる。
観終わって、ネットで、この映画の感想を拾い読みしてみると、以上のおおすじ以外は、微妙に違う、時には、正反対のストーリーを、人それぞれが、「読み取って」いる。場合によっては、「この映画、意味不明」と投げ出してしまっているものも、少なくはない。エリート女性指揮者の、パワハラ・セクハラがらみの、心理サスペンスといったふうに売り込んでいて、そういう期待で見はじめると「意味不明」となって、評価は、星ひとつとなってしまう。
魅力的だが、いかにも傲慢な(こういう、なんとも難しい役どころを、ケイト・ブランシェットが見事に演じてみせる)ターが、中盤以降、ストレスから、次第に、周囲のものごと、特に、「音」に過敏になっていく。この「音」が、幻聴なのか、どうなのか、結局、はっきりとはしない。いや、意図的に、はっきりとさせていない。
公園を歩いていて聞こえてくる女性の悲鳴は、明らかに幻聴だろう。その一方、深夜、冷蔵庫の機械音らしきもので眠れないのは、我々も体験するような、現実だろう。ところが、同じく、深夜、メトロノームの音で目が覚めてしまい、それが、クローゼットの中で作動しているのを発見する。これは、現実なのか。サスペンス劇のように、「犯人」が確定するのかと思っていると、「犯人」は、結局、最後まで登場してこない。というか、客観的にみて、そんなことができそうなのは、同居している人間くらいだが、そんな話の展開には、全くならない。となると、あれは、まるごと、ターの幻聴であり、幻覚・妄想だったのか。
そう考えると、例えば、ターが強引に抜擢する女性チェロ奏者が、ターの送るクルマから降りて消えていった建物は、あれは果たして、現実なのか。あんな完全な廃墟のどこに、あの女性の入っていく部屋があるのか。話の中心となる、ターが精神的に追い詰めたとして非難される、スキャンダルとなる、自殺した女性指揮者との関係にしても、確かに、メールを助手に削除させる場面はあるが、本当のところはどうだったのか、映画の観客には、分かりはしない。いや、わかるように描いてはいない。
そのスキャンダルで、ターは解任され、代役を立てたコンサートにターが乱入して、大騒ぎとなり、ターは、追放されたというのが、大方が受け取るストーリーだろうが、果たして、そうだったのか。スキャンダルが大きくなり、呼び出されたターは、女性との関係をきっぱりと否定する。次の場面は、円卓にずらりと並んだ「幹部」たちが、いっせいに、再度、呼び出されたターの方を振り向くところで切れて、そのまま、ダイレクトに、ターが、コンサートに乱入する場面となる。断片をつなぎ合わせようとするなら、当然、上記のようなストーリーを推測することになるが、果たして、これは、みんな、現実なのか。
われわれは、ありもしないはずの「メトロノーム」を見せられて以来、ターを取り巻く、現実と、彼女の「幻聴」「幻覚」「妄想」を、ごちゃまぜに見せられているのではないだろうか。映画を見終わっても、確とした「解答」は与えられず、いや、それは、たぶん意図的に、放棄されている。
また、本筋とは何の関係もない、アパートの隣人の、理解を絶するような迷惑な行為が描かれていて、ターのストレスは、さらに高まるのだが、「こんな不条理とも言いたいような現実って、確かに存在しているよな」と思い、ますます、幻想と現実の境目があいまいになっていくように、映画は仕向けている。
決定的なのは、そのラストシーンで、追放された(らしい)ターが、東南アジアのどこかで、現地のアジア人のオーケストラを指揮し始める、と、スクリーンが舞台上に降りてきて、続けて、映し出される観客は、すべて、異様なコスチュームを着た男女の群れ。私は、ゲームというものに全く関心がない人間なので、ネットを見て、それが、ゲーム「モンスターハンター」のコスプレらしいという書き込みを発見して、ゲームの音楽の実演と映像を楽しむコンサートだったのかと、その設定が、やっとわかったのだが、だとしても、あの異様に押し黙った、半裸の男女の群れが、現実のものとは、とても思えない。
現実なのか、幻想なのか、分かりはしないし、分かるようにもなっていないが、ターは、一心に、指揮棒を振る。2時間半の間、われわれは、現実とも非現実とも判然としない、ターの内面にそのまま入り込んで、その分裂した世界をまるごと観て・体験する。そして、まるで、ターの「心の中の世界」にとり残されたような感覚で、映画館を後にする。
ターの師として設定されているバーンスタインは、マーラーの魅力を、分裂した、この現代の社会をまるごと、つまり、分裂したままに音楽にしてみせた所にあると解説している。ネット上やマスコミ、時には身の回りにも渦巻く、隣り合わせの「希望」と「絶望」、「美」と「醜」、「栄光」と「悲惨」、「いたわり」と「無慈悲」、「生」と「死」…それらを、分裂のままに描き出し、不思議なことに(バーンスタインは、「パラドキシカルに」と、表現している)われわれを「浄化」するのだ、と。
そのストーリーさえ判然としない、分裂したままの心の世界を見せる、ターという映画の不思議な魅力は、マーラーの音楽と通じるものがある。となると、マーラーの交響曲の演奏と録音を、ストーリーの中心に据えたのは、単なる思い付きや好みではない、周到なお膳立てなのかもしれない。
音楽は永遠に続く、でも人は
出だしからタイトル、いや、エンドロールみたいな始まりでびっくりです。
そして男性の説明というか、解説に少し長すぎないと少しうんざりしてしまったのですが、インタビューに答えるケイトの姿が凄く自信に溢れていて、格好いいと思ったのですが。
女だけど娘のいじめ問題に、自分はパパよと豪語する姿、自分は大人だ、子供が勝てる訳がないだろう、その姿は普通の人から見たら、ちょっとなんて思うだろうけど。
これは仕方ないというより、彼女にとっては普通なんだろうなあと思ってしまいました。
高みに上ると見方も多いけど、敵も絶体いるだろうから弱みなんて見せられないだろうから。
時々聞こえてくる奇妙で不快な音、同時に精神が不安定になっていく様、パートナーがいながらも心が揺れていくのは、これって仕方ないなあと思ってしまうのです。
いや、彼女みたいな人は男だから、女だからという言葉、括りって足枷というか、首に縄をつけられたみたいな重荷以外の何者ではないのかと思いました。
ラストがとても印象的です。
栄光の舞台から転落したけど、再生、復帰できるのか、観ている側が選択、答えをなんてという感じです。
でも、自分の行く先が天国か地獄かなんてわからない、船を下りるのも自由です、なんて言われて降りる人はいるの。
一度挫折したからまた同じ事になるかもしれない、迷うのは人なら当たり前、でも答えを出すのは自分しかいない。
こればっかりは他人に頼れない、残酷でも目がそらせないのです。
ひとり芝居で充分だった。
ひとり芝居で充分だった。
ケイト・ブランシェットは良かった。
シャロン、フランチェスカ、
ペトラ、そしてオルガ。
脇が全く機能していない。
それぞれ芝居は上手で、
なんとなくリディアの事を、
それぞれ考えているのであろうことは伝わってくるが、
リディアの崩壊に(または、
それを食い止める役含め)、
どう機能させるかまては至っていない。
シナリオというより、
演出というか、
リディアに頼りすぎ。
もともと、シナリオには、
オーケストラのシーンが、
多かったのかもしれない。
それぞれとの関係を、
コンタクトを振るターで、
魅せることはできたかもしれない。
コロナ禍での大人数での、
撮影の大変さは身に沁みて共感できる。
音の演出が素晴らしい
自分はクラシック音楽に明るくないというのもあるが、指揮者というともっぱら男性というイメージを持っていた。しかし、本作で描かれているように、数は少ないながら女性の指揮者もいるということである。古い伝統と格式が重んじられる世界なので指揮者=男性というイメージを抱きがちだが、確かに今の時代であれば、彼女のような天才的な女性の指揮者が登場しても不思議ではない。
リディア・ターは女性で初めてベルリンフィルの首席指揮者になった才女である。このキャラクターには、男尊女卑的な組織に対するアンチテーゼが込められているように思った。
序盤の公開対談や音大における講義のシーンからも、そのことは伺える。彼女はレズビアンのリベラリストである。そんな彼女がクラシック音楽の世界でトップの座に就いたというのは、強い女性像を象徴しているとも言える。
ただ、こうしたジェンダー論は、物語が進行するにつれて、それほど重要な要素ではなかったということが分かってくる。
結局、この映画は栄光からの転落を描く、よくあるドラマだったのである。
トップに輝いた者が背負う宿命と言えばいいだろうか。嫉妬や恨み、陰謀によって徐々に精神的に追い詰められ惨めに落ちぶれていくという破滅のドラマで、映画の冒頭で期待していたものとは異なる方向へドラマが展開されていったことにやや肩透かしを食らってしまった。主人公を女性にするのであれば、もう少し違ったアプローチの仕方があったのではないだろうか。
もちろん、女性にしたことによって、本作は一つの特色を出すことには成功していると思う。これが男性だったら、更に俗っぽいドラマになっていただろう。そういう意味ではケイト・ブランシェットをキャスティングした意義は大いにあるように思う。しかし、ジェンダー論はこの場合はノイズになるだけで、かえってドラマの芯をぼかしてしまっているような気がした。
そのケイト・ブランシェットの熱演は見事である。彼女を含めた周囲のキャストも全て魅力的で、とりわけ後半から登場するチェロ奏者オルガは一際印象に残った。演じたソフィー・カウアーは本職がチェリストで今回が映画初出演というのを後で知って驚いた。若さと才能に溢れた奔放なキャラクターは短い出番ながら強烈なインパクトを残す。
製作、監督、脚本を務めたトッド・フィールドも円熟味を帯びた演出を披露している。すべてを容易に”ひけらかさない”語り口が緊迫感を上手く醸造し、上映時間2時間半強を間延びすることなく見せ切ったあたりは見事である。寡作ながら改めて氏の演出力の高さが再確認できた。
音の演出も色々と工夫が凝らされていて面白かった。チャイムが鳴る音やメトロノーム、冷蔵庫のコンプレッサー、ドアをノックする音がリディアの不安定な精神状態を上手く表現していた。実際に鳴っているのか?それとも幻聴なのか?彼女の中で判然としないあたりがサイコスリラーのように楽しめた。
怖いと言えば、リディアの強迫観念が生み出した悪夢シーンも不条理ホラーさながらの怖さで、画面に異様な雰囲気を創り出していた。
尚、音の演出で重要だと思ったのはチャイムの音である。リディアは部屋の中でその音を度々耳にするが、どこから鳴っているのか分からずそのままにしてしまう。実はその音はチャイムの音ではなく、隣人が発する救命コールだった。映画を観た人なら分かると思うが、彼女がその音を気にかけていたなら、隣人は”ああいう事態”にはならなかったかもしれない。
このエピソードから分かる通り、彼女は基本的に他者の意見、声には耳を貸さないタイプの人間なのである。この情にほだされない非情さゆえに、彼女は現在の栄光を手に出来たのかもしれない。しかし、同時にそのせいで彼女は恨みや嫉妬を買い自身の立場を危うくしてしまった。このチャイムの音のエピソードは、そんなリディアの人間性を見事に表しているように思う。
主演女優賞はこちらにあげたかったと思う熱演。 一回見ただけではいろ...
主演女優賞はこちらにあげたかったと思う熱演。
一回見ただけではいろいろな情報を回収出来ていないんだと思います。
ホラーテイストも好きだけど、期待値が上がりすぎる予告はいただけませんね。
全350件中、161~180件目を表示