一月の声に歓びを刻めのレビュー・感想・評価
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悲惨だが救いはある
「性暴力と心の傷」をテーマにした3つのオムニバス・ドラマ。
1話と3話でキーパースンとなる女性の名はいずれも「れいこ」。幼い頃性被害に遭っている点も共通している。実は監督自身も同様の経験をしているらしい。そういう意味では3話が最も自己を投影しているのかもしれない。断りもなくれいこをスケッチするトト(男の身勝手な欲望のメタファーだろう)に対して怒りをぶつけ、キンギョソウを千切りながら号泣するれいこの姿は、被害者としての怖れ、声を発せられなかったことへの後悔がない交ぜになった悲痛な叫びそのものである。だからこそ、このパートのみモノクロにして差別化を図ったのではないだろうか。
一方、1話は直接の被害者ではなく遺された者の悲哀を描く。ある意味、当事者が命を失った場合と生き永らえた場合のパラレルワールドのようなつくりにも見える。視覚的にも雪に覆われた大地、真っ白な家の壁と、黒が貴重だった3話とは対照的だ。感心したのは冒頭のおせちの俯瞰シーン。一緒に重箱に盛られているのではなく、最初から会席弁当のように各自にあつらえられた料理。人間所詮ひとりなんだというマキの諦観が表れたようなカットである。そして、それに続く長回しのひとり芝居。悔恨の念を吐露するカルーセル麻紀の迫力ある演技に、観る者は圧倒されるに違いない。
それらに比べて少しインパクトが弱い印象の第2話。しかし不要なエピソードかというと、そんなことはない。ある登場人物が口にする「人間、みんな罪人だ」というセリフ。娘を死に追いやった男性器自体に罪の意識を感じたマキ。「何であたしが罪を感じなきゃいけないんだよ」と嘆くれいこ。“罪”というキーワードを提示することによって、1話と3話を結ぶ役割を果たしている。しかも、来る者を待つという明るいエンディングのエピソードを挟むことにより、話全体に救いを与えている。
そう、実は逆説的にこの物語は救いの物語でもある。そうでなければタイトルに“歓び”の文字を付けるはずがない。そしてそれは、3話に登場する橋から飛び降りようとする女性の「死ぬからな」という声が届いて、自殺未遂に終わることにも顕著である。悲惨な過去と向き合って「何にも知らなくても幸せになれるかな」と歌うれいこの姿に希望を感じるのである。
二人のれいこと島の娘と三島有紀子
二人のれいこが登場する。二人とも幼き頃に性被害に遭っていることで共通している。その姿は自身が幼き頃に性被害体験をした三島有紀子監督の姿にも重なり合う。
最初のれいこは47年前に自ら命を絶っており、その姿は画面にこそ登場しないが、独り残され老いた父親マキ(カルーセル麻紀)による一人芝居により露わに叙述されていく。雪に閉ざされた洞爺湖畔の家で、年始に訪れた長女家族が去った後、孤独と悔恨の念とを炸裂するかの如く、れいこが自死に至るまでの経緯を一人芝居で述懐するマキの姿をロングショットで描いたこのシーンのインパクトは強烈である。
二人目のれいこ(前田敦子)は正に監督の分身である。監督自身が被害に遭った忌まわしい現場で、れいこが監督に成り代って被害の体験を吐露する姿がロングショットで映し出されていく。最初は正面かられいこを映していたカメラは、やがて歩みながら述懐するれいこの勢いに屈して追い抜かされ、なおも背後かられいこを追い続けていく。このワンショットがれいこの激情をスクリーン一杯に漲らせていく。
映画のラストで二人のれいこは再び登場する。最初のれいこは、再びマキにより雪積もる湖畔を想いの丈を叫びながら鬼気迫る様で進んでいく姿を介して、残された遺族の孤独感と罪悪感により浮き彫りされる。一方で、もう一人のれいこは、表情晴れやかに、吹っ切れたかのように前向きになった姿が、短いショットでさりげなく描かれている。
この2つのシーンが連続することで、死ぬまでをも覚悟した恥辱の想いの果てに、強く生き抜くことを決意した一人の女性の姿が描かれていることわかる。その強く前向きな思いは、二人のれいこのエピソードの合間に挿入された荒く波立つ海を背景に身重な体で島に帰省した娘が愛に賭けて飛び出していくエピソードによりさらに強調されている。
つまり、二人のれいこと島の娘は、三人とも三島有紀子監督自身だったのである。
こんなん出ました
監督の思いがつまった、自主上映の映画
ただ御本人しかわからない、各パートのつながりが私にはわからなかった
1パートはカルーセルさん、まるでLGBTp版リア王といった風情?
2パートは伊豆の島が舞台で、ここが一番分からなかった。(娘と父の関係性~未来への志向?)
3パートが大阪北新地 カメラワークには感心したし、象徴性のある小物が効いていた
良くも悪くも独善で良かったも言えるし、時間を返せとも言いたくなる
監督が満足してるなら、それでもいいのかな・・・
カルーセル麻紀さん、ただものでない
NHKの番組内で「罪の意識に焦点を当てた作品」と紹介されているのを見て興味をそそられ、特に作品の公式サイトを覗くことなく観に行ってみてなるほど。
監督する方の物事の捉え方も改めて認識。
数日経ち(レビュー投稿時点では1ヶ月以上になったけど)、思い出そうとするとカルーセル麻紀さんの演技の記憶が一番濃いです。引き込まれ度合いが半端ない。心臓をグッと掴まれたかのような興奮状態にもっていかれます。
やはりあの方ただものでない。無論、良い意味で。
作品全体の輪郭がみえにくかったかな
3つの物語のオムニバス。
監督自身の経験がベースの物語がメインに
配置されている作品(なのかな?)
正直、3話のオムニバスではなく、前田さんの話を
深堀する物語にしてほしかったかなぁ・・って
思ってます。
なぜなら3つの話を通して語りたいポイントを
理解することができなかったのと、前田さんの
物語の熱量がすごかったからです。
(哀川さんの話は必要だったのかなぁ・・・?)
当事者の叫びそのもの、それ以上でもそれ以下でも
ない・・・が、画面から訴えてきました。
明確な闇も光も見えるわけじゃない。
自身を奮い立たせるのは、覚悟を決めた自分であり、
自分のために歌声を響かせる。
残酷で不条理な皆罪人の人間の社会で生き抜くために。
前田さんの凛とした歌声が胸に残ります。。
カルーセル麻紀さんの熱演に感動
レビューが賛否が分かれていてポイントも低かったがNHKがテレビで紹介していたので観に。
3人のエピソードによる3部構成、どれも身内を失った失望感やら後悔、助けてやれなかった自分を責め続けると言った苦悩を抱えて生き続ける辛さに向き合う話。
幼児への性的暴行被害の本人を描いた前田敦子のエピソードは白黒で撮られた意味が観ていてじんわりとわかりなぜだか涙が頬を伝いました。泣けたというのでなく涙しました。
哀川翔が父親役のエピソードでは同じ娘を持つ男親として理解できます。
可愛い娘を暴行されて加害者と同じ男という生き物である自分が許せず性転換した父親役のカルーセル麻紀さん、久し振りに拝見したが若いときと変わらず妖艶さと男勝りな迫力ある存在感と迫真の演技に感動しました。
どれも愛するものを失い、愛するが故に起こるエピソード、そんな自分を愛することさえも失いそうになるギリギリの気持ちを描いた行間を読み解く映画で、観るものに考えさせたかった監督の想いが伝わる映画でした。
Wish you were here
法による裁きは、加害者を罰することはできても被害者の心を救済することはできない。時を経て記憶の片隅に追いやることはできても、ふとした拍子に瘡蓋に触れると血は止めどなく溢れる。自分も気づかないうちに罪人になっているかもしれない。自分では出口を見つけられなくなったときに、誰かがここにいて欲しいと思う。
映画の花束
最初にカルーセル麻紀と哀川翔、それに前田敦子が主演と聞き、いったいどんな映画になるんだろう、と思っていたのですが、実際に映画が始まると、まずは洞爺湖畔の静かで美しい光景に心を奪われました。
最初はカルーセル麻紀が主演のパートで、なぜ彼が男性であることをやめたのか、という背景が、映画の進行と共に明らかになっていきます。
映画的な文法に則って、粛々とストーリーは進んでいきます。
その中でも、それぞれのパートの主演俳優たちの演技が光っていました(特にカルーセル麻紀!)。
哀川翔の娘に対する一途な愛、前田敦子の鬼気迫る演技もすばらしかったです。
三島有紀子監督の個人的な性被害の体験がベースになっているとのことですが、そのことはあまり意識せずに、ただ映像の美しさと、それぞれのストーリーの展開を追っていくだけで、静かな感動と、生きていくことに対する全肯定的な姿勢が自然と伝わってきて、映画館を出ると、清々しい気持ちになっていました。
「映画に救われた」という三島有紀子監督が、映画を愛する俳優やスタッフたちと力を合わせて作り上げた、映画ファンに贈る、ステキな映画の花束だと思います!
繊細な感情の叫びが胸を打ち、センスの良さが光る。
三島有紀子監督の10本目の長編かつオムニバス作品。6歳の時に三島監督が体験した性暴力という事件。幼いながら「死にたいと思った」が、映画と出会い、生きることを選んだという。
監督の選ぶ言葉やシーンは、センスがとてもいいなと思う。
全てが素敵でそして悲しくて。
ぜひ観て、流されて、世界観に浸かってみてほしい。
一月の声に歓びを刻め、ひたすらに美しい
人が語るはずの言葉を託されたモノや音がとても雄弁で、まずはそれらに魅入られてしまった。
それは雪を踏みしめる音から始まり、形の違う三つの窓の一日のうつろい、自然、料理だったり……風や、太鼓、雑踏の音だったり。
それを最も効果的な画角で、時には真上から、時には手元から撮られ、それだけで時間の経過や、人の心情が伝わってくる。
音も然り。
なんと丁寧な仕事だろう。
と、前作『RED』の感想にも書いた記憶がある。今回はそれが卓越した領域に至った感じがした。
ことごとのディテールの織り重ねがとてもとても美しい。それらが観たくて、もう一度映画館に足を運んだ。
そしてこの作品は三島監督の過去の経験をベースに作られている。その過去になんと丁寧に向き合ったのだろうと思う。
人物の痛みや喪失が、観ている自分の奥にある痛みに進入し触れそうな時、思わずたじろいでしまうほどの、率直で大きな痛みだった。だからこそ最終章に救われる。生きていこうとする選択の力を感じた。
自分をベースにした作品ながら、物語としてとてもよく練り上げられている。差し挟まれるエピソードによって、予想を裏切って物語が運ばれていく。うねる波のようなダイナミックなリズムだった。傑作だ。
この作品、世界のどこまでも飛んでいってほしい。
「言葉を発する」ことの演出と演技に拍手!
過去に起きた事件を描くのに、回想やフラッシュバックではなく主人公たちの言葉で…いや、主人公たちが言葉を発することで描いていくという監督の挑戦に恐れ入った。往々にして俳優にその力量を求めて陳腐な表現を見せられることが多かった。
しかし、この作品のカルーセル麻紀さんと前田敦子さんが心情を言葉に発する場面は、鳥肌ものだった。彼女たちの内面の痛みを目の当たりにしてスクリーンに釘付けになり、こちらも今にも手や胸がワナワナと震えそうになった。二人とも本当に素晴らしかった!後世に残る場面だと思う。
その言葉で一つだけ気になったのは、八丈島の章。主人公の父がその重要な言葉の中に、何年か前に一時期だけ世間を風靡したお笑い芸人のフレーズを口ずさむのであるが…人の普遍的な心情を丁寧に描いた作品の中にあってそこだけどうにも違和感だけが残った。
あれは脚本の中にあるのか…それとも俳優さんのアドリブなのか。
いずれにせよ、監督は割愛しなかったという事ではあるけど。
勿論それによってこの作品の価値がいささかも損なわれるものではないけれど。
「一月の声に歓びを刻め」観てきました❗️
「一月の声に歓びを刻め」2回目観てきました❗️
2回目観れて良かったです
1回目、色んなレビューを読んでいたので、それをなぞるような確認するような感じで観てしまっていたかなぁと。。
やっぱり実体験がベースというインパクトも強いから、どうしてもそこに感情が揺さぶられてしまうけど、
2回目は、もっと映画を素直に観れた感じでした。
映像も本当に綺麗で素晴らしいなと思うと同時に、
更に印象的だったのは、「音」でした。
マキさんが、れいこを助けられなかった想いに、一人もがき苦しんでいる時の、詩を「書く」というより「刻みつける」ような万年筆の音がすごく印象深く。
雪を踏み締めながら歩く音も。
太鼓の響きがあんなに悲しみを訴えているように聞こえるなんて
すごいです。
日常に溢れる色んな罪、
意図せずに傷つけてしまったり、傷ついたり、
許しがたい罪、優しさ故の物、
それでもやっぱり日々は過ぎていくし、
生かされている、生きている、
大切に思う想いが苦しみにもなる
でも、全て否定するのではなく、
受け入れて浄化させる
マキが最終章で冷たい湖に向かって叫ぶのも、怒りや憎しみというより、傷ついた娘を守ってやれなかった、抱きしめて辛さを共有してやれなかった、親の子供を愛おしむが故の苦しい想いが痛いほど伝わってきました
映画には
もがきながらも前に進もうとしていることも特別じゃなくて日常で、そんな日常を苦しくても愛おしいものなんだと、そこに寄りそいたいと思う監督の、作成された皆様の愛情が溢れてました。
観れて良かったです。
心に響く映画をありがとうございました
食後に映画館に入ると眠くなります
全体に画面が暗くてよく見えないのは、私が年をとって目が悪くなったためだと思いました。
全体に台詞が聞き取りにくいのは、私が年をとって耳が遠くなったためだと思いました。
食後に映画館に入ると眠くなります。何回か、気を失いかけました。
映像が美しいのが救いです。洞爺湖と八丈島がカラーで、大阪がモノクロですが、これは大阪をカラーで撮ると美しくないからでしょう。
心の奥に静かに響く映画
レビューの評価が大きく割れているが、観る人がどんな人生を生きてきて、どんな傷を負い、誰を傷つけ、何を感じてきたかによって、この映画の受けとめ方は大きく変わると思う。
監督自身の体験をモチーフにした作品で、よくぞ撮ったものだと思うが、私小説的ではなく、人が誰でも抱え込む心の傷とか罪の意識とかを普遍的に掘り下げて描いている。自分は映画を見ながら、これまで出会った異性や、自分の子どもなど、いろんな人との間の記憶が心の奥に浮かび、なんとも言えない感情が湧き起こった。そんな風に感じる映画には、なかなか出会えるものではない。そして、ネガティブなテーマでありながら、前向きに生きていこうと思わせてくれる不思議な作品だ。
特筆すべきは映像の美しさ、音の設計の巧みさ、俳優の演技の素晴らしさだ。ぜひ映画館で見ることをおすすめしたい。
帰り道 なんとなく浮いてるような感覚になりました
人や心理的なものが好きで、
色々と深く深く考えてみることが好きで、
最終やっぱり 人や思考って興味深いと改めて思いました。
最近は 映画によっては観た後に 自分を客観的に見たり分析することが出来て、それもまたおもしろいです。
映画を観たあとの夜の帰り道に、
にぎやかな街の中を歩きながら
聴こえてくる音が なんとなく
いつもと違う風に感じました。
普段ならすぐに好きな音楽を聴きますが、
自然な音を 聴いていたい気分でした。
れいこと同じように、鞄を前に抱えて歩きながら、
なんとなくそんな自分を俯瞰的に見てるような感覚になりました。
偶然にもその帰り道 見知らぬ人に
こんばんは と話しかけられましたが、
トト・モレッティではなかったです。
自分の気持ちや感情を言語化することが得意ではないので上手く書けませんが、
自分には、大きく深い傷はなくても、小さい傷はたくさんあって、受け止め方も人それぞれで、
深い苦しみの人だけじゃなくて、ただ普通に生きてきた自分も。
三島監督の映画をみて、これからもちゃんと生きていこうと思わせてもらいました。
なにが正解で間違いでもないけど、私はこの気持ちでした。
すごく素敵な映画でした。ありがとうございました。
女性目線なのかな
洞爺湖の空が風景が美しい。
カルセールまきの全身白のウエアー雪景色に合う。
雪の中の一発撮り良かったけど、残念なのがカメラで雪の中ので揺れていて。
悲しい物語が3つで静かな風景も良いが、それぞれに中島みゆきの音楽をぶつけるのも面白かった?
美しく、逞しく、清々しい物語。
監督の幼少期の性被害の体験がモチーフだ、と枕詞のように映画が紹介されるのだが、
ある意味、それはどうでもいい。
いや、むしろ、「性被害者を描いた映画」だと、強いイメージがつくことはマイナスではないのか。
(それは事実だし、逃れられないことではあるけれど)
この映画が描いているものは、もっと普遍的なものだと思う。
洞爺湖で47年前に幼い娘が性被害にあり、自死したという経験がある父。
その父は、男性性を厭い、恨み、性転換手術を受けている。
その心には、ずっと後悔がある。
なぜ、あのとき娘を黙って抱きしめてやらなかったのか。
お前は汚れていないと伝えてあげられなかったのか。
その後悔の念は、残された家族にも深い疵を遺している。
八丈島で、妻をなくした男がいる。
一人娘は島を出て、結婚もしていないのに妊娠して帰ってきた。
この二人には罪の意識がある。
交通事故で脳死状態になった妻の生命維持を止める決断をしているのだ。
男、誠の独白でその経緯が明らかになる。
娘が「もういいよ」と声を出しているのだ。
そんな言葉を娘に発させた罪悪感。
その言葉を発した娘も、父との間に溝ができている。
このパートのラスト、娘の言葉には胸の真ん中を突かれる思いがした。
そして大阪・堂島。
元彼の葬儀で久しぶりに帰阪したレイコ。
母との微妙な距離。
そして、レイコは、ひょんなことからであった「レンタル彼氏」のトトに
幼少期の「事件」について話し出す。
ともすれば、「性被害を描いた、重苦しい作品」になってしまう。
ところが、この洞爺湖、八丈島、大阪と舞台が切り替わることで、
全く違う視点が見えてくる。
罪の意識。
疵。
誰しも、生きていれば疵の一つや二つ、体にも心にも残っている。
それはいつか癒えるものもあれば、死ぬまで消えないものもある。
その疵に蓋をすることもできる。
でもきっと、その蓋はひょいと開いてしまう。
そうだ。
ならば、疵とともに、生きていく。
それは、美しく、逞しく、清々しいことなのだ。
何を述べているか理解がしがたい
今年81本目(合計1,173本目/今月(2024年2月度)34本目)。
(ひとつ前の作品「THE WILD 修羅の拳」、次の作品「ザ・フェイス」)
このあと、さらに珍妙作品「ザ・フェイス」(詳しくはそちらのレビューにて)で色々精神的に力尽きるのですが、そのことは知る由もなく…。
映画の趣旨としては「島」を一つのテーマにしたのかな。120分ほどで3話か4話の分割方式で、分割されているといっても舞台は違うし共通項もあります。
ただ、極端にストーリーがわかりにくい…よってここで感想を書き込むのも難しい…のですが、これら3~4話の中に、なぜか全編モノクロという謎のチャプターがあります。大阪市でこれらモノクロ映画といえば、当時のフィルムをそのまま放映していますというシネヌーヴォさんくらいしかなく、一方で「演出を高める効果から」モノクロにしている映画も一応ありますが(ゴジラ・ゼロや、せかいのおきくほか)、この映画は具体的な時代背景は示されないものの「レンタル彼氏」という語は出てくるので昭和の敗戦ころというのは考えにくいです。かつ、これら「演出上モノクロにしている映画」は演出上の扱いで、カラー映画と比べて見やすさに問題が生じないように濃淡はっきりと描かれますが、この作品はその配慮がないので、そのモノクロパート(大阪の堂島パートだったはず)の部分で何を言いたいのかがわからずかなりの方が理解に詰まるのではなかろうか…といったところです。
何度か見ればまぁ理解度はあがるのかなといったところですが、120分ちょっとという映画を何度も見るのは厳しいところです。まぁあえていえば「癒しか何かのタイムか」とは思いますが(実は会話自体はそれほど多くなく、上記の映像が読み取りづらい事情とあいまって、映画なのかヒーリングタイムなのかすら怪しい)、映画館は「本来は」そういう場所ではないので…。
採点に関しては以下まで考慮しています。
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(減点0.3/映画の趣旨が理解しがたい)
モノクロにしたこと、会話が極端に少ないことなどが多くを占めているのでは…と思います。特にモノクロチャプター(大阪編だったはず)は、場所の推定(映画内では堂島という扱いだが、この映画の共通項「島」に対して、堂島を「島」というかは怪しい。大阪市立科学館があるあたりの部分は法律上はともかく、あれを「島」というかは一般常識論でも微妙かと思える)も困難で(モノクロである上に、ヒントになる描写が存在しない。「レンタル彼氏」という語はここで出るので、さすがに昭和後期から令和くらいと思えるが幅が広すぎる)、大阪パートも理解が難しく、うーん…といったところです。
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剥離
3つのオムニバスからなる作品ですが、終着点は基本バラバラで、どこかしらで繋がっているのかなとは思いつつも、内容の浅さ(個人比)のせいかあまり乗れませんでした。
第1章は性転換をした父と娘夫婦のお話。なぜ性転換をしたのかというのはあくまで語られず、自身の娘が性被害に遭って自殺してしまったから、自分が女になろうという感じも察してくれという雰囲気
突然の舞台演劇のような1人演技が始まって困惑してしまい、そのままの空気でサーっと終わっていくのでまたなんだこれ?ってなってしまいました。
第2章はおそらく加害者視点でのお話。父親と娘の関係性や立ち止まった場所でなんとなく察する場面があるんですが、もっとポップにすれば良いのに微妙な感じなので、なんだかうまく笑えない作品にとどまってしまいました。
原田さんと哀川さんのワチャワチャ感だけはよかったです。
第3章では友人を亡くした女性の話。初っ端アイスクリームソーダをひと吸いで残して出た母にイラつきましたが、その後の展開もまぁ面白くなかったです。
監督の体験だと思うんですが、レンタル彼氏が河川敷でナンパしてくる流れもそこからホテルに行く流れもよく分からなかったです。
そこからR18の映画なので、濡れ場が激しいのかなと思ったら全然見せない中途半端な性行為…。あっちゃん側がここまでの制限をかけているのか、製作陣がこれで良いと思っているのか、はたまた映倫がピュアすぎるのか、その後の花をむしったり絵を描いたり燃やしたりする流れもピンときませんでした。
オムニバス映画で最後に何か繋がるわけでもなく、それでいて単独の物語としても不完全燃焼、テーマ自体は分かるんですが脚本が追いついていなかったなぁという印象でした。やはりオムニバス映画は苦手。予告である程度見せてほしかったです。
鑑賞日 2/22
鑑賞時間 10:00〜12:05
座席 C-12
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