月のレビュー・感想・評価
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同感です、解ります
老健に働いて15年になりますが身障者施設の方は本当に大変だと思います。年寄り相手の私でも殴られ噛みつかれ糞まみれなんを仕事だから仕方ないとこなしてきましたが。管理者は自分が面倒みる訳じゃないから現場の職員が大変。精神やられた人も多く指示は入らず、安い給料で休みも無く汚い安いキツいの😢皆メンタルやられるから映画見て、そうそうと同感しました。虐待!?私たちはそれ以上やられてます。でも利用者から
やられても言えない。これだけ高齢者や身体障害者を御世話する仕事の処遇改善が向上しなければやり手なんかいません。まじで給料安くて汚いキツい仕事、こちらが精神やられるから。やっと月の映画見て救われた、私達の現実はこれです
月を見た障害者施設職員から
「月」を見ました。全体的なイメージは障害者施設はあのような感じではあります。私の施設では障害者利用者は80名入所しています。それぞれの利用者が他人には我関せずで生活されています。自閉症、ダウン症の成人の方老若男女です。
脳の病+精神の病ですから、様々社会常識に当てはまらない日常生活っす。社会では3K(臭い汚い気持ち悪い)ですが、我々支援職員はいかに清潔に一般的に正しく、表情よく暮らせるかを支援しています。汚物まみれ、排泄処理、洗体、食事の摂り方、衣類管理など、が仕事ですが、なかなかすんなりとは行きません。各々の拘りや苦手なことに対応するのは大変です。粗暴行為や破壊、自傷、不潔行為に闘わなければならないときもあります。それは、「仕事」という感情だけでは収まらないときもあります。
ご家族さんは極一部を除いてノータッチで、帰宅や面会、外出もなく、連絡さえしてくるな、という家族もいます。身寄りのない方もいます。
それを意気に感じて対応出来ればいいのですが。
ここからが今の障害者施設の大きな問題点です。映画にはなかった施設や行政の闇にしている本当の問題点です。
①家族がなにもしない分、担当職員に責任が来る。(面会に来てもお菓子を食べさせるだけ、エサ)
②家族負担の利用料は一切ナシ。食費、施設利用料(ビジホ一泊分/月)、日用品代、光熱費を月75000円ほどの障害年金で負担します。もちろん、それでは施設運営は出来ません。そこで、施設運営支援金というのが都道府県等から税金が施設に入り、職員の給与となります。あくまで、家族負担はありません。
③その、施設運営支援金を理事長がせしめ、職員には最低賃金を払っています。理事長の親族や評議員の紹介職員が管理者になり、高給取りになって上級生活者となります。職員の処遇改善手当も施設に入るため、すべて人件費に支払いはされていますが、傾斜配布が認められているため、管理者に多く入ります。そして、処遇改善手当があるためある程度給与底上げが出来るため、本来は施設が支払うお金はプールするか、理事が1000万を越える年収を受けています。ほぼ職員は給与やボーナスはジリ貧となっています。
障害者施設というものは、(理事者含め)管理者が現場には入らない、守られた場所からポケットに手を入れて、「どんな方でも困っている人を受入れて、現場で対応を考えなさい」の考えです。
抑えるために引き倒してしまったら、その支援員は逮捕されます。がまん、ガマン、我慢。ストレスより、違う行動が出るのもやむを得ないんです。
管理者は知らなかった、報告はなかったと逃げて行きますが、それは支援員はゴミ扱いなんです。問題起きれば支援員は一生を失いかねない職種です。学生さん、新卒で入るところではありませんよ。事実ですから。
毎日のように、新聞テレビで伝えられるような虐待、ほぼ全国どこの障害者施設でも起きていますよ。
長々書きましたが、映画ではまったく出て来ない、障害者施設の現実です。
ただし、入所ではなく、自宅からの通所では、大きく変わり、もっとやり甲斐、社会貢献が出来る場所は多くあります。
現状を読んでいただき、ありがとうございました。
匂いは確かにきついが、慣れてしまう
障害者施設で3年半働いていますが、サトくんが言ってる事はある程度理解できました。
匂いについて語っていましたが、確かに最初の頃は戻しそうになった事がありました。しかし慣れてしまえば、汚物が多少手についてしまっても平気だったりします。
サト君のような真面目すぎる職員はメンタルをやられるし、虐待スレスレの行為をする職員は他の職員や保護者と衝突したりします。
サト君は障害者は必要であるか?税金の無駄じゃないか?才能があるのに生活保護と変わらないような金しか稼げないのはおかしくないか?について悩んでいました。
私は世の中の歴史は時間が経つにつれて、自由で平等になるように進んでいるので、いずれは国民全員が介助ロボットや自動運転の車、生活できるだけのベーシックインカム等を手に入れて、貧富の差や障害の有無は格差が無くなっていくと思っています。
その過程である現在は矛盾だらけですが、時間が解決していく事に個人が立ち向かってもしょうがないかなと。
ハッとした場面があって、白髪の利用者が股間を触っている場面でサト君の意識が彼と同化するところ。
私自身も、服を破って裸になった利用者と目が合った時、意識が吸い込まれて気がおかしくなりそうになった事があります。常識が破壊されたような感覚。
映画で表現されたってことはよくある現象なんだろうか・・・
物語の焦点が不明確でテンポが遅すぎで長い
この出来事をテーマにするなら宮沢は架空の人物?彼女の物語とは別にしてむしろ加害者を主人公に焦点を当てなぜ彼はこの職業を選び嫌なら辞めれば良いだけなのになぜ働き続けていたのか?本当の犯人はもっとチンピラ風で他に働く所が無いからやってるみたいな感じだったが?
扱うべき題材なはずなのに、テーマそして構造、描き方が陳腐
人種差別、人間と非人間という思想、優生思想、生が気持ち悪くて臭いということを認めること、あるいはそれを認めずに無いものにすること、「自分とは違う」存在を受け入れられないということ、無いものにすること。今まさに世界で起きている虐殺と限りなく近い思想の種について考えている題材であるはずで、語らなければならないことについて語っているはずなのに、なぜかこの映画を最後まで観ても考えが深まらなかった。残念だった。
それぞれの存在が鏡になって、どちらがどちらなのか誰が自分で、自分ではないのか、そんなふうに問われていく演出はふさわしかった。
しかし、最後まで、「自分は人間」って思っている人たちからの視点でしか描かれないままで、施設の中で生きている人々のこと、この映画を作っている人たちはちゃんと見ていたの?聞いていたの?本当に、葛藤を描いたの?
結局、この映画は「刺さんなかった」。
この映画を作った人も、悲しみ?で言葉を失ってしまっていたのかな…?
すごく、残念です。
結局は何も描けず、すべった感じ。
俳優さんたちも、それぞれの役の人生に向き合って演じたはずなのに。
でも、じゃあ、殺された人たちの人生には誰が向き合ったの?この映画を作る人たちの中で。
最後まで、ミミズや蛇が暗示するだけ?
結局、「人間」に靴で潰される存在のままでしか描かれていない。
何が日の光にあたって美しい、スローモーションで映される障がい者たち、ですか?
そういうカットでしか、彼らを描けませんか?
「側」という、構造を崩さないまま、最後まで「得体の知れないもの」をどうしようか迷う「人間側」の心情しか描かれませんでした。
何を描きたかったの?テーマが謎です。
最後の、入所者の方のお母さんが泣くシーンとかも、悲しい、という感想を抱かせるだけだし。
自分の、子供たち(亡くなった子供と今お腹の中にいる子供の2人)に対する思いと障がい者に対する思いを重ねて揺れる心がテーマ?
うーん…薄い…
自分の心の中の優生思想に気が付かせるのが魂胆…?
それだけ…?
もっと描くべきものがあったはず。
こんなことは事件を知っている人なら考えることなはずです。映画の中ですべきなのは、その先の対話だと思います。
〈月〉も、ハイタッチも、二階堂ふみさんの役の存在(〈嘘〉について考えさせるとか、汚いものを見るとか)も、映画のテーマの中で結局はほとんど意味がないままだった。
本当に残念な映画です。
重要な映画になり得たはずなので、とっても残念です。
残念であることについて書きたかったので、評価すべき点については書きません。
もうすでに賞も取っている映画なので、されるべきところはされていると思います。
そういうわけで、テーマとしては表面的に似てしまっている『ロストケア』の方が考えるに値する映画だと思いました。
でも、この映画『月』が考えるべきなのは、「見たくない現実を見ないようにしている人々 ー あなた」ではなく、差別、と、それが罷り通ってしまっている社会のありようですよね。「あなたも犯人みたいなことを考える人の一人かもしれない」などと刃を向けるのが目的になってしまっていては、問いかけ、考え続けることにはなりません。
問題は、個人の思想だけに問われているのではないと思います。この映画はそこまでいけなかった。
最後に。
「この人話できますか?」
と訊くさとくんのことは、
心に残り続けるかもしれません。
彼が何に葛藤していたのか、のヒントとしては。
結局、作り手は、ほとんど彼の思想についてしか興味がなかったのではないでしょうか。
「報知映画賞作品賞」
今年231本目。
11月終わりの報知映画賞作品賞、磯村勇斗さんが助演男優賞、二階堂ふみさんが助演女優賞、12月11日の授賞式の2日後に見ましたがどうしても行きたかった作品。同時期公開「愛にイナズマ」の石井裕也監督でその映画の俳優の演技が素晴らしかったですが、そちらが作品賞じゃないんですね、「月」どれだけ凄いんだと前評判通りの映画でした。授賞と石井裕也監督で内容は書かなくてもいいかなとこの2作で一番好きな監督になりました。
フィクションだからこそ描ける事件の本質的問題点
7年前の相模原市の重度障害者施設やまゆり園での犯罪史上最悪の大量殺傷事件を題材に、作家辺見庸氏が書き起こした小説を映画化。私は小説は未読。
現実の事件の裁判の経過も注目され報道されていたので、この作品を観る自分の意識も、なぜ犯人は凶行に及んだのか、次第に狂って行く様に最初は意識が向いていたが、非常に丹念に描かれる主人公の宮沢りえとオダギリジョーの夫妻の癒しがたい深い傷跡にじわじわと心を奪わてゆくにつれ、別の重要なことに徐々に気づかされてゆく
園長の無責任で投げやりな姿勢、犯人となる、さとくんを虐める同僚二人組のよくあるだろう理不尽な振る舞い、二階堂ふみ演じる作家志望の職員の家庭の歪んだ家族関係、彼女自身のストレスと他者への攻撃性など、丁寧な描写が観るものに突きつけてくるものは何か?
それは我々自身の社会が直面する人権意識の希薄化や反差別の後退など危機的な状況そのものであり、社会にとって不都合なことを見て見ぬフリをし、無かった事にしている自分自身じゃないか!モヤモヤしながら家に帰って来て今こうして書き始めて思い当たったことだ
なぜ気づく事になったか?それは主人公の宮沢りえさんとオダギリジョーが別々の場面で、恐怖に怯みながらも勇気を振り絞って気持ちを言葉に出してくれるからだと思う、そこに心震えてしまうのだ
果たして自分なら出来るだろうか・・・
事件性に目を奪われてこの映画の真価を見落としてはならないと思う 真実に目を向けさせる見事なフィクションだ
重いテーマを受け入れることができなかった
たまたま、数年前に撮影現場に遭遇。
宮沢りえとオダギリジョーがベンチに座って談笑しているようなシーンだったので、どんな作品なのか公開を楽しみにしていたが、公開日が決まり、映画の内容が判るにつれ、観るべきか考えてしまった。
とても重いテーマであって、鑑賞した後の気の持ちようが定まらないだろうと予測できたので。
意を決して鑑賞したが、やはり難しかった。
2時間で語るには重い内容だった。
今のご時世、さとくんって、どこにでも居るような気がする。
ストーリーは、始めダラダラ、尻切れトンボ
以前、知的障がい者施設で働いていた者です。
障がい者施設を含む福祉施設の現状は、まさに玉石混在です。
良い施設もあれば、本作品のような、とんでもない施設もあります。
国や地方公共団体から支払われる「措置費」は、良い施設でも悪い施設でも同額なんです。
職員の配置基準も決められていて、利用者(入所者)何人に対して職員は何人という規定があって、その規定に基づいて措置費が支払われます。
重度知的障がい者に、適切な対応をしようと思えば、できることなら、常時マンツーマンで対応するのが理想です。
でも、介護する職員も人間なので、食事もすればトイレにも行くし休憩も必要です。また、障がい者が興奮したり暴れたりすることもあり、そのようなときは他の職員に応援してもらわないと対応できません。
だから、重度障がい者1人につき常時1.3人くらいの人員が必要です。1日3交代として、重度障がい者1人あたりの介護者は1日約4人。1か月の必要延べ人数は、4人×30日で120人。
祝日や、夏や、冬の休暇等も考慮して、職員1人あたり月に20日働くとしても、単純計算で、重度障がい者1人につき6人の人員が必要なことになります。
職員1人あたりの人件費を1か月25万円(諸経費含む)としても、6人分で150万円。重度障がい者が10人居れば1500万円。年間にすれば1億8千万円。
これはあくまでも、重度障がい者にも介護者にも、理想的な処遇をした場合の超極論の話です。それでも、かなり安い給料手取りで試算しています。
現状は、その1割にも満たない措置費しか出ません。
作品中で施設長が堂島洋子さんに対して「県のマニュアル通りにやっている」というシーンがありますが「マニュアル通り」の人員と経費だけで運営しようとすれば、まあ、暴力は論外としても、多かれ少なかれ、映画のような状況にならざるを得ません。
私が働いていた施設は、幸いにも「良い施設」でした。
では「良い施設」とはどんな施設でしょうか。
良い対応をしようとすれば、当然、国の措置基準を大幅に上回る人員が必要です。つまり、より多くの人件費がかかります。
そのために、地域や社会に働きかけて、多くの賛助者やボランティアさんを増やし続けなければなりません。それらの組織拡大活動を職員のみならず、入所者の家族や知り合いみんなで頑張っているのです。
当然、施設長や、管理職の人たちも、一般職員の応援のため現場に入ることも頻繁です。
そして、多くのボランティアさんの助けを借りて、街頭募金や、団体、企業、労働組合等のツテを頼って、支援物品の販売を行ったり、廃品回収や、バザー等々で運営費を捻出して、少しでも良い施設運営をしようと、日々頑張っているのです。
映画の中の施設には、ボランティアさんの姿が全く見当たりません。所詮、その程度の施設です。
今の日本には、障がい者施設はまだまだ足りません。
新たに施設を作ろうと思えば、多額の自己資金が必要です。
「良い施設」は、障がい者の保護者、家族、特別支援学校の先生たち、教職員組合、地域のボランティア団体等々が力を合わせて上記のような活動を通じて、自己資金を捻出して、設立された施設が多いです。そして設立時の資金活動を設立後も運営補助として継続しているのが現状です。
言わば「良い施設」は、職員と障がい者家族の自己犠牲の上に成り立っていると言っても過言ではありません。誤解を承知でで言えば職員目線では「ブラック企業」になるかも知れません。
必然的に、ボランティアの延長で職員になり、熱い思いで仕事をしている人も少なくありません。
また、「どうせ働くなら社会の役に立つやりがいのある仕事の方が良い」と職業選択肢の一つとして働いている人もいます。
この両者に確執がないといえば、嘘になります。
映画にあったように「あの人が、余計なことまでするから、こっちの仕事がやりにくい。いらん仕事が増える。」と考える人も居なくはありません。
私は、6年間職員として在職しましたが、30歳を過ぎて、結婚を意識するようになったとき、手取り給与が20万円に満たない現状で家庭を持つことは困難と思い、転職しました。
現場を経験した者として、さと君の思いは解らなくもありません。
さと君のように「税金の無駄なのでは?」との思いが頭をよぎったことのある職員は多いと思います。
感情も思考もなく、ただただ、周りの介護によってのみ生かされていることが、本当に、その人にとって「人間の尊厳」なのか?と考えたこともあります。
でも、普通は誰も、さと君のような行動には走らない。
理性があるから?
怖いから?
自分の家庭や将来があるから?
という自分勝手な理由で自分の思いを否定します。
さと君は、堂島洋子さんの自宅で食事中に、障がい者や死刑囚の糞便や嘔吐物の匂いの話を平気でしています。
さと君は、真面目で正義感が強いサイコパスなんですね。
だから、さと君は正義感と優しさの行動として、あのような凶行に走ることができた。
他の人も書いておられますが、私たちとさと君は紙一重。
私たちも、どこかで心のネジが1本外れたとき、さと君にならないという保証はありません。
最後に、街で、障がい者施設の後援会が募金活動をしているのを見かけたら、そして、どこかの公園で福祉バザーをしていたら、少額でもいいのでご協力頂けたら、とても嬉しいです。
ズレていくテーマ
なぜこの題材を扱う上で
テーマが「表現」や「才能」に
逸れていってしまうのだろう
どうして当事者のシーンが
スライドショーのように一瞬なのだろう
どうして「尊厳」や「人権」に対して
真正面から向き合わないのだろう
多くの疑問が湧き出て止まらなかった
日頃から心なき者の差別対象となっている人々が
映画で映し出される際に、どうしてかホラー演出で
過剰におどろおどろしくされてるのは何故なんだろう
ほんと悪き風習。やめてほしい。
重厚
映画はエンターテイメント。
観終えて暗くなりそうな映画は少なくとも劇場では観賞したくない。
この映画はその類いの映画のはずだが、予告編を観て興味が湧いた。
もうすぐ終わってしまいそうだったので、暗い気持ちになるのを覚悟で観賞。
意外に淡々とした気持ち、充足感すら感じながらエンドロールを眺めた。
批判を覚悟で言えば、さとくんに一定のシンパシーを感じた。
安全な場所にいてあれこれ正論めいたことばかりほざく輩にはうんざりだ。
私自身老境に入り、親の看護、介護や死を目の当たりにして、
生きることを考えれば考えるほどそのためには「死に様」が重要と感じる。
結果はともかく、さとくんのそこに至る過程には思料すべき点が多々あった。
宮沢りえの自問自答にもそれが端的に表現されていた。
但し、芸術性を求める上では仕方がないのかもしれないが、
障害者の描き方は親の介護を経た者としては観ていて辛い。
ここまで描かないとゲージツにはならないのだろうか。
また、3.11に福島にいた身としてはこれと結びつける必然性に疑問を感じた。
暗部とエゴ
二階堂ふみさんが宮沢りえさんを批判するシーンが刺さりました。ゆえに最後のオダギリジョーさんとのやりとりが空虚に見えてしまい、それも狙いなのかなと。つい最近の事件。目を背けてはいけないと思いつつも、胸が苦しくなりました。お亡くなりになられた方々のご冥福をお祈りするとともに、決して風化させてはならないと思いました。
澱のように心に残り続ける
宮沢りえの丁寧な演技に引き込まれ、悲しみを共有しつつ観た。登場人物それぞれが抱える問題がそのまま反映したような暗い職場、決して綺麗事ではなくそれでいて誇示することもなく淡々と描かれる日常。皆それぞれにより良く生きたいだけなのにその方法が見つからなかったり間違っていたり。誰一人正しいとかではないのがリアルで共感できる。そんな中で夫婦の思いやりのある愛情(オダギリジョー演じる夫の表現が凄くいい)に少し救われる。いつまでも心に燻って残るような映画だった。
えぐられる、問いかけられる。最後のセリフがひとつの答えなのか
あまり前情報を入れて映画は観たくない派なので、宮沢りえ、オダギリジョーと好きな俳優が出演していることだけわかっていて、ふらりと観に行きました。
スターサンズ作品ということも知らなかったのですが、それだけで相模原障害者施設殺傷事件をベースにした映画だとわかり、身が引き締まりました。
自分も含め、できれば善人でありたいと思う普通の人たちは、差別はいけない、どんな命も大切、と当事者でない限り言います。ただそこにはそこはかとなく、後ろめたさもあるはずで、なせなら決して自分の内に差別心はないと言えないからでしょう。特に意思疎通が難しい人に対しては、本能的に怖いと思ってしまう感情が少なくとも私にはあります。
さとくんの主張は絶対に認めてはいけないけれど、全否定できない自分もどこかにいる。映画の中ではそこを演出の力で観ている人にも問いかけているようでした。
洋子と昌平の間には話すこともできないまま亡くなった息子がいて、さとくんの恋人は聾唖者という設定。彼らを分けたのは何だったのか。最後のセリフが答えなのかと感じました。
こういう難しいテーマの中、4人のメインキャストの演技は凄まじかった。圧倒されました。
完全に狂った方角を見つめている無垢な目
深い森の奥にある重度障害者施設。ここで新しく働くことになった堂島洋子(宮沢りえ)は“書けなくなった”元・有名作家だ。彼女を「師匠」と呼ぶ夫の昌平(オダギリジョー)と、ふたりで慎ましい暮らしを営んでいる。洋子は他の職員による入所者への心ない扱いや暴力を目の当たりにするが、それを訴えても聞き入れてはもらえない。そんな世の理不尽に誰よりも憤っているのは、さとくんだった。彼の中で増幅する正義感や使命感が、やがて怒りを伴う形で徐々に頭をもたげていく――(公式サイトより)。
原作者の辺見庸のことは「もの食う人びと」というルポタージュで知った。世界の紛争地等、わざわざ危険なところに乗り込んで、そこで食い物を分けてもらうというかなりどぎつい作品だ。その後、脳出血とがんを患い、創作活動をしてきた自らを奈落の底に叩き込むかのような、読んでて気が滅入る漆黒の作品をいくつか書き上げた。
本作もずーーっと不穏な空気が漂い続ける。「川の底からこんにちは」「舟を編む」を撮った石井裕也の、極めて微細な人間の機微を映像で表現できる才が加わり、陰鬱さは倍加した印象だ。鑑賞後、しばらくは閉口するほかない。
この陰鬱さの正体は、本作のベースとなった「やまゆり園事件」で、犯人が語った「意思疎通のできない重度の障害者は不幸かつ社会に不要な存在であるため、重度障害者を安楽死させるべきだ」という主張を聞いた当時のばつの悪さの復活である。
「思ったことない?一度も?」と問いかけるさとくんの目は、完全に狂った方角を見つめているが、無垢ではあった。正しい方角を見つめているが、狼狽を隠しきれない洋子と対峙する場面はまさに白眉である。「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」という言葉が示すように、洋子がさとくんに投げかけた言葉は、さとくんには届かず、そのまま自分に犀利な刃となって返ってくる。そしてその構造は、そのまま劇場内をも支配する。スクリーンから発せられた音と光に対する観客の反応が、思索が、言い訳が、錯乱が、そのまま自分に舞い戻る。嫌な映画である。
夜空に浮かぶ「月」は、自転の関係で、わたしたちに常に同じ面しか見せないのだそうだ。作中、頻繁に登場する「現実」というキーワード。わたしたちに見えている「月」をもってして、夜空に浮かぶあれを「月」と言えるのだろうか。宮沢りえ、オダギリジョー、磯村勇斗、二階堂ふみの怪演のシナジーが、闇夜に不気味に浮かぶ月光となって襲い掛かってくる。高畑淳子が絶妙に素晴らしい。
何か足りない感じがする
「月」が映画賞で評価され始めました
しかし勤務するスタッフの内情を主に描写するのみで、施設側の事情や、入居者の家族の事情が描かれないところが、片手落ち感があり、私の中ではしっくりしていません
高畑淳子さんが母親役で好演されていましたが、描かれたようなあたたかい家族ばかりでなく、実際の事件でも入居者家族の言動が犯人を惨劇に駆り立てたという報道もありましたし…
映画観賞後に原作本も読みましたが、原作のほうが障害者といわれる人の気もちが生々しく描かれていて、しかしこれをそのまま映像化は出来ない…
とはいえ企画段階でスポンサーもつかないといわれたこの映画の難役を受けた、役者さんたちの心意気は一目置きます
もうちっとグロいところ多いんか思った
俳優陣の演技が素晴らしかった。
内容は普通。
特に終わり方とかは、個人的に収拾つかなくなって随分適当になったのかと思ってしまいました😅
東日本大震災のくだりとかいらなかったような気もする😅
問題作であることが正しいと思う。
よくぞここまで描いたものだと思います。
この題材を、こんな風に作品にできる人が日本にもいるんですね。
あまりにひど過ぎて、思い起こすことすら拒否反応が出てしまうような事件がありますが、この事件もそのひとつで。
そうした事件は、そもそもフィクションの題材として扱ってはいけないもののような気もしてしまいますが。
それでもこの映画がてきて良かったと思うし、自分も見れてよかったと思いました。
まず前提として、映画としての出来はほんとに素晴らしくて。
その上で、描こうとしているものも、描き方も、自分はすごく共感できるし、納得がいったし、肯定したいものだと感じました。
見た人の中にほどうも、「さとくん」の論理や、主人公の自問自答を、事件を起こした側の意図を汲むようなものだと受け取って、それに批判的になる人もいるようだけど、それは例えばガリレオの天文対話を読んで天動説を主張しているととるようなものかと思います。
理解する力が欠如しすぎ。
はっきり言って、知的障害者のための支援が無駄だとかなんだとか、そういう類の考えを論理として否定するのはそれほど難しいことじゃない。
少なくとも、それよりずっと無駄なもの、ずっと悪どくて害のあるものなんて、いくらでも、数えきれないほど挙げられるし、そういうものに平気で大金をかけるのが普通な世の中だってのは、みんなわかってることでしょ。
それでもさとくん的な考えは社会の中に生まれてしまうし、主人公のような問いかけは、現実に向き合えば向き合うほど、必ずどこかで出てきてしまうものだと思うし。
そこから目をそらしていては、それにきちんと対峙することもできないのだということを、教えてくれる映画だったと思います。
全219件中、21~40件目を表示