PERFECT DAYSのレビュー・感想・評価
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2023年末に日本で公開された、2023年公開作品で最高峰の「世界的に評価されるべき奇跡的な作品」!
本作で主演の役所広司が2023年・カンヌ国際映画祭で「男優賞」を受賞したのは十分に納得できます。
本作の主人公は普通に話すことができるのに、基本、話さずに表情やしぐさで訴え掛ける物静かな人物。
それもあり、役所広司の演技力が極めて自然な形で国境を超えるレベルにまで発揮されていています。
2006年・カンヌ国際映画祭で監督賞を受賞した「バベル」で、話すことができない役の菊地凛子が、アカデミー賞の「助演女優賞」にノミネートされたのと似た構造を感じます。
東京の公衆トイレをクリエイティブに改修する「THE TOKYO TOILET プロジェクト」に関連した映像化の話にドイツのビム・ベンダース監督が賛同する奇跡的な動きが生まれ、トイレの清掃員の日常を描き出す流れで「トイレ清掃員のプロフェッショナルな平山」に命が宿りました。
赤いライトを中心に独自性のある自然なライティングによって、より深みのある映像に仕上っているのも重要な要素ですが、何といってもエグゼクティブプロデューサーも務める役所広司の存在感が最大のカギだと感じます。
リハーサルを一切せずにドキュメンタリー映画の如くいきなり本番という最も効率的で役者力が試される現場で、わずか16日の撮影で「最高峰の映画」が完成するという奇跡が起こりました。
世界の人たちが本作を見れば、日本に関心を持って「平山に会いに日本を訪れる」など日本経済にも効果をもたらすことでしょう。
ちなみに、平山が毎日飲んでいる缶コーヒーは、やはりアレなのですね(笑)。
これほど説教臭くなく、生き方や価値観を静かに揺さぶる映画は久しぶり
日本でこのような作品が生まれるのは驚きであり喜びだ。主人公の平山は無口であまり言葉を発しない。だがその分、彼の生き様は、朝起きてから夜の微睡に包まれるまでの一挙手一投足でもって、観る者の心に深く染み入っていく。彼は決して世捨て人ではない。無心になって仕事をこなし、瞳には優しさと温かさが宿り、彼なりのやり方で物事を無駄なく楽しみ・・・そうやって築かれた最小限の日常で、すべてを大切に受け止め、決して悔いを残さない。こんな暮らしに少なからず憧憬の思いが込み上げるのは、我々が何事も過多な現代社会で多くのものを取りこぼし、後悔を感じて生きているからだろう。トイレから人々を見つめる平山の姿はどこかヴェンダース映画における天使のよう。と同時に、日々を真っ新な気持ちで生きようとするその姿は、人生という旅路をひたすら歩み続ける、これまたヴェンダース作品特有のロードムービーの主人公のように思えてならなかった。
街の息づかいを撮った作品
寡黙なトイレの清掃員の日々を美しく撮っている。渋谷のデザイン・トイレのパブリックリレーションの役目を負った作品であるが、トイレの先進的なデザイン性とその清掃員の住む古い木造アパートは対照的である。しかし、ヴェンダースは新しいものを良く見せているわけでも、古いものをみすぼらしく見せるでもなかった。むしろ、新旧のものが共存している東京の街並みに関心を寄せている。カセットテープの音楽を聴き、フィルムのカメラを趣味とする役所広司演じる主人公は、古いもの代表なわけだが、周囲の新世代に振り回されながらもなんとなく共存していく。東京という街は、近代的なものと古いものが混在している場所として多くの海外旅行者にも認識されているのだが、そういう目線がここにはある。しかし、旅行者目線とは異なる視線でそれを成立させていることにこの作品の美点があるだろう。街を撮るというのはなかなか難しいことで、そこに生きる人の息づかいみたいなものがないといけない。この映画はそれが感じられる。
“日常”の有難さを知った2020年代に響く人間賛歌
昨日と今日、そして明日もだいたい同じ一日が繰り返される。当たり前だったそんな日常が、コロナ禍で一変した。職場や学校に通い、人に会って話をし、店で飲み食いする、そんな普通のことでさえも困難になったあの時期を経て、日常の有難さが世界中で認識された今、この「PERFECT DAYS」が世に出るのはまさに完璧なタイミングだ。
成立過程はかなりユニーク。2018年に「THE TOKYO TOILET」プロジェクトがスタートし、渋谷区内17カ所に著名な建築家やクリエイターらが設計した公共トイレが順次設置された。そのPRの一環としてまず短編映画の企画が立ち上がり、役所広司とドイツの名匠ヴィム・ヴェンダースの参加が決まってから長編劇映画として再構想されたという(おおよその経緯はWikipediaの「THE TOKYO TOILET」と「PERFECT DAYS」の項で確認できる)。
小津安二郎への敬愛をドキュメンタリー「東京画」で示したヴェンダース監督らしく、本作の主人公であるトイレ清掃員の平山は実直で心優しく日常を大切に生きる男で、物語はさほど大きな事件が起きることもなく淡々と進む。近所の老婆が通りを竹ぼうきで掃く音で目覚め、仕事道具を積んだ車で担当する渋谷区の公衆トイレに向かい、丁寧に便器や手洗い場や床を清掃する。樹木を好み、木漏れ日をフィルムのカメラに収め、銭湯に通い、馴染みの飲み屋に寄り、文庫本を読んで寝落ちする。そこには、平山というひとりの人間の生きざまをそっと見守り讃える温かなまなざしが確かに感じられる。
寡黙な平山の心情を代弁するかのように、彼がカーステレオや自室のラジカセで流すカセットテープの60~70年代の洋楽が、夜明けと朝日の美しさ、一日の始まりの高揚や感謝、日曜の午後の気分などを歌い上げる。どの曲もシーンに合っているが、とりわけラスト近くで流れるニーナ・シモンの「Feeling Good」と役所広司の表情の相乗効果が抜群で、ヴェンダース作品としてだけでなく邦画史においても屈指の名場面として大勢の観客の心に残るはずだ。
役所広司が差し出す新たな引き出し
毎朝、木造アパートの一室に敷いた布団から起き上がり、植木に水をやり、自販機でコーヒーを買って飲み、トイレ清掃に向かう男。平山というその男性の日々のルーティンが、関わる人々とのやり取りによって微妙に揺れ、それでも基本型はキープしたまま進んでいく。
なんとミニマムで上手い構成かと恐れ入る。与えられる情報の積み重ねによって、平山の背景が垣間見えて来るのだ。なぜ、彼はアパートに一人暮らしなのか、なぜ、トイレ清掃員なのか、という疑問が、本当に微かではあるが、腑に落ちて、ビム・ベンダースの脚本と演出の妙に心を奪われてしまった。
世界的な建築家たちが携わった東京・渋谷にある17のおしゃれトイレが舞台というのも上手いと思う。しかし何よりも、平山を演じる役所広司の、人を遠ざけず、かと言って近づけず、日々の生活を存分に楽しんでいるようで、実は心の底には深い悲しみを湛えている、ハッピーでアンハッピーな表情と演技が凄くてまいる。ベンダース演出の下、彼はまた新たな引き出しを差し出してきた。
映画の光と影、孤独=自由を享受する
役所広司が演じる平山は寡黙な男であり、規則正しく、ルーティンをこなす。毎朝植木に水をやり、仕事を終えると銭湯に行き、居酒屋で酒を飲み、部屋では古本を読みながら寝落ちするのもその一つ。極力他人と関わらないことで“孤独”であることを忘れようとしているのかもしれませんが、“孤独”=自由を享受しているようにも見えます。
50歳をゆうに過ぎているであろう男が、なぜアパートで一人暮らしをして、清掃員の仕事を黙々としているのでしょうか。その研ぎ澄まされたような姿は悟りに至った僧侶のようにも見えます。
でも、そんな彼が見ている世界、ふとした時に向ける視線の先には木々や光が溢れているのです。朝日、木漏れ日、夕日、街並みや公園、トイレ、運転中の車のフロントガラスなどの光の屈折や反射。ヴィム・ヴェンダース監督の過去作品を見ていれば、ここに過去のシーンを重ね、敬愛する小津安二郎監督作品の面影も感じ取ることができるのではないでしょうか。
Snapshot of Today's Tokyo
Wim Wenders' slice of life drama about a toilet janitor in Shibuya shows an appreciation for one the city's most prestigous whilst undervalued services. The act of toilet cleaning gets a lot of screentime while showing off the city's rich assortment of commode architecture. Lighthearted and at times cheesey, the mystery behind Koji's cleaner's past is left to interpretation upon veiled sadness.
自分の人生を豊かなものにできるかどうかは本人次第なんだと強く教えら...
自分の人生を豊かなものにできるかどうかは本人次第なんだと強く教えられました。
同じ生活をしても最悪な人生だ、ついてないと悲観する人もいるはず。
他人から見たら決して幸せに思えなかったとしても自分自身がその生活を楽しみ、素晴らしいものと思えるならきっとその人生はステキに輝いている。
そう教えてもらいました。
ただ寝ているときの映像と音はちょっと怖かったしよくわからなかった。
あと、とりあえず柄本時生さん演じる同僚は一回殴らせてほしい。
清掃
なんかこの映画褒めなきゃの空気が溢れすぎててすごい気持ち悪かったけど、というか見終わった今も気持ち悪いけど、でもそれ抜きにして凄く良くて安心した。
特にあの生活を見せた後にちゃんとETCで高速乗ってるのとか、タバコで2人がむせるシーンはヴェンダース過ぎて最高だった。
登場人物のギミックについても本当上手くて、よくこのキャスティング思いついたなと。
ヴェンダースファン以外も手放しでみんな絶賛してる状況は理解できないけど、ヴェンダースファンなら特に文句のない作品だと思う。
でも鍵かけたらスモークかかるトイレ、怖くて使えないわ。
変哲もない1日なのに何故このタイトル
必要以上に他人と関わらないトイレ清掃を生業にする男の物語。これのどこがパーフェクトなのだろうか?
エンディングの役所さんの表情の変化が、すべてを物語っている。
毎日キレイに清掃するからこそ、公衆トイレなのに毎回キレイなのだろう。
やはりキレイなものを汚すのは気がひける。
ゴジラ旋風の中でとアカデミー賞の最優秀を受賞した役所さん。圧倒的な演技力に脱帽。
主人公が愛でる個人的空間
静かな映画。おんぼろアパートに一人で住む初老男性が主人公。仕事は都内の公衆トイレを巡回掃除すること。趣味は、部屋で植木を育てることだ。ずらりと小さな鉢が並んでいるのは壮観だが、それらはまだ、背が低いので、こういう生活を始めて、まだそんなに日数が経っていないことを思わせる。朝、箒で掃除をする音で目覚め、歯を磨いて植木に水をやり、階段を下りて、仕事に行く。それが終われば、浅草で夕ご飯を食べ、銭湯へ行き、ときには、飲み屋でいっぱい。そして、寝る前に少しの読書……ほとんど他人との交わりがない、個人的空間で過ごす。これが、主人公の一日である。突然、姪が訪ねてきたり、ほんのり好意を寄せている飲み屋の女将が素敵な男性と抱擁しているのを垣間見て動揺したりもするが、それは一過性のことであり、基本的は同じことの繰り返しである。そんな主人公の過去はまったく明かされない。トイレの使い方がわからない外国人女性に英語で教えてやったり、高級車に乗ってやってきた妹との対峙で、かすかに彼の背景を想像するしかない。ある意味、過去を捨てた男なのだろう。捨ててしまったから、逆に失うことを恐れていないのかもしれない。それが証拠に、彼は出かけるときに施錠をした様子がない。盗まれて困るものなどないからなのだろう……と思ったのだが、姪が転がり込んできた際には、「開錠」する描写があるから、やはり鍵はかけたようである。それとも、姪の持ち物は大事であったか。それとも、姪との個人的な空間を他人におかされたくなかったのだろうか。そう思えば、トイレも非常に個人的な空間だが、やはり、施錠する描写はない。主人公は、ふたつの個人的空間を愛しているように思えてならない
「PERFECT DAYS」に幸せをみるか、苦しさをみるか。
役所広司がカンヌ国際映画祭で日本人として19年ぶりに男優賞を受賞した映画『PERFECT DAYS』はあまりにも美しい傑作でした。心の機微を描くプロット、自然で豊かなセリフ、そして見事な演技。「幸せとはなにか」を観客全員へ問う必見の作品。今回は3つのポイントからレビューしてみます。
【3つの感想】
1.役所広司の演技がエグい
本作最大の見どころは、なんと言っても主人公・平山を演じる役所広司の演技にあることはいうまでもない。カンヌ国際映画祭で男優賞受賞も納得で、その凄みは「繊細さ」に宿る。
そもそも、この映画には”大きな物語”はない。トイレ清掃員の平山の日常が淡々と描かれるなかで、”小さな物語”が泡沫のように浮かんでは消える。その微妙な変化が紡がれていくだけの曖昧なストーリーを、役所広司は見事に演じきっている。役所の表情や動作に、平山の微妙な変化が込められていて、そこに映画としての”物語”が表出してくる。
あまりに圧巻の演技に、映画館で笑みが溢れ涙すら誘われたシーンがあった。シーンの概要は次のようなところだ。
平山の同僚タカシ(柄本時生)は、ガールズバーで働くアヤ(アオイヤマダ)に夢中だ。ある日タカシは、平山の大切にしているカセットテープをアヤの鞄に入れ、気に入られようとする。しかし、タカシの恋はなかなかうまくいかないようだ。後日、アヤはカセットテープを平山に帰しにやってくる。「タカシ、なにか言ってた?」とアヤは聞くが、黙ったままの平山。アヤは突然平山の頬に口づけをして去っていく。その後平山はいつも通り、開店直後の銭湯で風呂に浸かる。
このシーンはつまり、おそらく恋愛とは無関係な人生・日常を送る平山が、年齢のかけ離れた青年たちの淡い恋心に振り回され、挙句行き場のなくなったキスをその頬に受け止めるという、それだけでも素晴らしいプロットなのだけれど、なによりも秀逸なのが、その後の銭湯での役所の演技だ。
役所は、鼻の下、口元を隠すように湯船に浸かっている。泡立つジャグジーは、なおさらその表情を読み取りにくくしている。にもかかわらず、役所は、ただその両目だけで、この絶妙な感情を見事に演じきってしまった。喜びでもない、戸惑いでもない、恋心でもない、でもどこか幸せにも似た感情が、ジャグジーの向こうでその眼に宿される。はっきり言って、この1カットだけで、カンヌ男優賞も納得だ。
こうした繊細で緻密な美しい演技がこの映画には溢れている。それはきっと、翻ってみれば、私たちが日常であらわす感情の機微に違いないのだと思う。
2.沁みすぎる人間関係
この映画にはいくつもの複雑な人間関係が描かれている。それはつまり、いわゆる相関図に描かれるような「好意」「ライバル」「尊敬」とかの”単語”で語り得ないような複雑さという意味だ。
いくつか例を挙げると。
・実家近くで裕福に暮らす妹と平山
・居心地の良さを感じる居酒屋のママと平山
・ママの元夫であり末期がんの男と平山
これらの関係性は、決して直接的には描かれることのない平山のバックグラウンドを暗示しているし、そのことが、トイレ清掃員で旧いアパートに暮らす現在の平山を物語ってもいる。なんとよくできた人物描写だろうか。
そしてこの「複雑な人間関係」は、この映画ではもう一歩先に進められている。それは、平山の職業をトイレ清掃員という”エッセンシャルワーカー”に位置付けることで、私たちの生活を支えてくれる人々と観客という人間関係をも、平山と観客の間に築こうとしているのではないか。
さらに実は、その平山も、多くの人々に支えられている。銭湯の主人、古本屋の店主、「おかえり」と言ってくれる居酒屋のマスター。なかでも特筆すべきは、劇中で描かれることのないアパートの自動販売機に缶コーヒーを補充する人。平山が毎日仕事を頑張れるのは、その名前も容姿もわからない”その人”のおかげに他ならないのだ。
「PERFECT DAYS」はこうした複雑で見事な人間関係を通して、観客に自分たちの日常で出会い、生活を支えてくれる人々への感謝を想起させる。
3.幸せとはなにか
「PERFECT DAY」の感想を友人や知人と話し合って興味深いのは、平山のような生き方、あるいはラストカットの平山の表情を、「幸せ」と捉えるか、「苦しさ」と捉えるか、ハッキリと別れるところだ。もちろん前者のほうが圧倒的に多い。
是非みなさんの感想を聞きたいし、観客1人1人がどう思ったか、が最も大切だというメッセージであり映画の意図だということは十二分に理解しつつ、ここではなぜ僕がこの映画を「苦しい」と感じたかについて書いていきたい。
まさに映画のラストカット。平山は朝日を浴びる車内で、涙を浮かべながら(正確には目を赤くしながら)笑みを浮かべて、いつもの通り首都高を走る。この表情は何を意味しているのだろうか。というのが、観客にとってこの映画をどう見たかという問いかけであり、だからこそ完璧なラストカットだとも言える。
この物語の1つの大きなテーマは”変化”だ。公式のあらすじにもあるとおり、「同じように見える」ということと「同じ」は違って、平山の日常には微妙な変化がある。変化に向き合うとき、人はどのような態度をとるだろうか。この物語では、大きく分けて3つに分類されていると思った。「変化を求める人」「変化に気づく人」そして、「変化に縋る(すがる)人」だ。
「変化を求める人」は極めて一般的な人間で、この映画ではタケシがその役割を主に担う。「恋人が欲しい」「お金が欲しい」「仕事を辞める」どれも、なにかしらの変化を自分から求めに行っている。観客の多くが無意識にこのタイプに分類されるのだろうし、「変化する=成功」という価値観が蔓延しているように感じなくもない。
だからこそ、この映画は平山を通して「変化に気づく人」を描いた。木々の木漏れ日に代表される自然の移り変わり、あるいは日常のちょっとした出来事、そこに湧き立つ人々の感情の機微といった、”小さな変化”に気づくことで、”大きな変化”を求めなくても幸せな人生が送れるというメッセージではなかったか。
公式あらすじにある「その生き方は美しくすらあった」という言葉には、こうした「変化に気づく人」を肯定し、今の忙しない現代社会へと余白を投げかけているようにも思える。その描き方に沿ってみれば、きっと平山の生き方や、ラストカットの複雑な表情の意味は「幸せ」になるのだろうと思う。(もちろん、ある程度の苦しさを前提とした)
ただ、である。この映画で描かれる平山が、僕には「変化に縋る人」として描かれているように思えてならないのだ。その最も顕著なシーンが、次のような場面だ。
平山が居心地の良さを感じる居酒屋を訪ねると、お店のママ(石川さゆり)が男性(三浦友和)と抱擁している光景を目の当たりにして、平山は急いで立ち去る。ふいに訪れたイレギュラーな出来事(=変化)に、平山はコンビニで酒を買い込み、河岸で飲み始める。するとそこに、先ほどの男性が現れ、「ママの元夫で末期がんである」と告げる。平山は、男性と影踏み遊びをして、「二人の影が重なると濃くなるのか」という男性の疑問に答えようとする。
そして、このシーンの最後。「二人の影が重なると濃くなるのか」という疑問に対して、男性が「変わりませんね」と言うのに対し、平山は「濃くなってますよ。(略)変わらないなんて、そんなハズないじゃないですか」と語る。
つまり、平山は実は変化を望んでいるのではないか、という疑問が頭に浮かぶ。そして望んでいるからこそ、大きな変化を避けているのではないかと。平山は「大きな変化を諦めた人」だからこそ、「小さな変化に縋る人」なのではないか。
平山の過去は明かにはされていない。ただ、妹との会話を考えると、裕福な家庭で育ったが、父との仲違いのすえ、トイレ清掃員として今は一人で古いアパートで暮らしている。平山はその生活を「理想」と思っているのだろうか。仮に「理想」だと思っているとしたら、妹と別れた後に見せた涙は、一体なにを意味するのだろうか。
当たり前だが、平山は感情を失った「善良な市民」ではない。急な仕事がふってくれば怒り、戻れない家族との日々を想っては涙し、行きつけのお店のママが知らない男性と抱き合っていたら動揺してしまう。平山にも「変化」に対する感情はあるのだ。「気づく」だけではない。平山の口から幾度となく「変化」が語られるたび、私はそれが「変化に縋る祈り」のように思えてならなかったのだ。
だからこそ、私は、この映画の平山に、あるいはラストカットの表情に「苦しさ」を見出した。おそらく平山にはもう「大きな変化」は訪れない。いつものように仕事場へと向かう車の中で、「小さな変化」に縋るほかないということではないか。
ただ、もちろん、そうであったとして、「小さな変化に縋る」という生き方も美しく、そこに幸せが宿るということも確かなのだけれども。
「求める」「気づく」「縋る」どのような関わり方であっても、私たちは変化のなかに生きている。そこに幸せを見出そうと僕は思った。
「PERFECT DAYS」
誰が、誰の生活を、そう呼んだのだろうか。
ものすごく乱暴なレビューを書きます
ものすごく乱暴なまとめ方をする
今作はキャラ萌え日常系映画だ
「◯◯な趣味をやらせてみた」ではないものの『ゆるキャン△』や『けいおん!』の仲間である
主人公はトイレ清掃員・平山
早朝から仕事に向かい、明るいうちに終えて銭湯で汗を流す
さっぱりしたら行きつけの酒場でレモンサワーを一杯
夜は文庫本を片手に眠くなるまでの時間を過ごす
休日にはプロの技で手際よく部屋の掃除を終えると、汚れた仕事着を持ってコインランドリーへ
合間の時間には趣味で撮ったインスタント写真の現像にも出向く
夕方には少し気になる女将のいる小料理へ
そうして平山の一週間は巡る
インスタには載らない。しかしこれ以上なく丁寧な生活だ
そう、そんな彼を好きになるための映画
演じる役所広司氏はPERFECTだ
ヴェンダース監督の控え目な描き方も心地良い
『オイラは平山。寡黙だけど不思議と周りに慕われるトイレ清掃員さ!』
と語らせるのが0点ならば100点の形で彼の魅力を引き出している
情報を入れて難しく考える必要はない
平山さんに好感を持つか否かだ
静かな映画
アカデミー賞受賞作品ということで、せっかくなので劇場に見に行った
全体的に静かな映画。
読書やラジカセで聴く洋楽を好み、たまに行きつけの居酒屋で足るを知る。いかにも今でいうサブカルチックな感じの人間が憧れるような生活だと感じた。
世間体に目が眩む世の中だけからこそ、こんな生活を「パーフェクト」と言い切れるあたりがこの映画の論点になり得るところだと思う。
私は今と同じ給料でこの生活を出来ると言われても、それは望まないと思う。
後味の良い映画
一つ一つは短いですが丁寧で読後感の良い人間模様
写真のように一瞬の光や陰を思い起こさせる映像
全編にわたって寡黙な主人公の生き生きとしたような悲しいような愛情の深い表情を役所広司が見せてくれます
あと一時間でも主人公の過ごす日々を見ていたいと思いました
泣き笑いの人生 腕時計 木洩れ日
多くの方が絶賛しているので、感じたことだけを書こうかと思う。主人公の出勤日のルーティンな生活風景は、何とも見ていて気持ちが良い。玄関の横に鍵やカメラ、財布など並べてあり、それを身に付けて行くのだが、なぜか腕時計だけは持っていかない。不思議だなあと思っていたが、近隣の神社の入口を掃除する箒の音で目を覚まし、決まった所に仕事に行き、淡々と一人で、仕事をするのに腕時計は不要なのだと気づく。ところが休日にはこれまたなぜか腕時計をしっかり着けて、コインランドリーに行き、馴染みの古本屋と写真屋と憧れのママのいるお店で一杯飲む。これまたルーティンな休日の風景。面白い。
すべてがオブラートに包まれたような優しいと言うか、苦味を感じさせない作風は興味深い。そこには公園の公衆トイレの酷く汚損された現実の姿も、主人公が静かな日常を選択せざるえなかった過去の経緯も、また容赦なく入り込んでくる周囲の悪感情も、この映画には描かれない。
主人公が毎日撮り続ける木洩れ日の風景(朝ドラのカムカムエブリバディの中で木洩れ日は日本にしかない表現だと言う場面を思い出した)、その写真をそれまでの忘れたい過去の気持ちや心を浄化するように押入れにしまい込む。
そんな頑なな完璧な日々も毎日は続かない。知らない内に変化が訪れる。パトリシアハイスミスの小説が「不安」を如実に表現していると言うように、最後の笑うとも泣くとも、何とも言えない表情は、私達が日常で抱える「漠然たる不安」をよく表現している。こういう場面を演じる役所広司は、さぞや役者冥利に尽きるだろうなあと感心して観ていた。
全てをもった人のPERFECT DAYS
ヴィム・ヴェンダース監督作品。
30年後の自分をみているような感じだったな…全然ありえる。
ただ「こんなふうに生きていけたなら」と思うぐらいがちょうどよくて、実際にそう生きたら「完璧」なんて思えない。トイレは汚いし、ずっとはいられない。「木漏れ日」に美しさなんて感じない。ヴィム・ヴェンダースが日本を美しいと感じることと同じだと思う。遠い異国を旅行するぐらいが一番美しく感じるんですよ。現にヴェンダースは日本で暮らしてはいない。だからリアリズムではなく、全てをもった(have it all)人の憧憬やノスタルジーとしての「Perfect days」とみるほうがいいと思う。ただ本作が、オリエンタリズムな眼差しで「美しさ」を撮ったとも言いづらいから全否定するのが難しい。「ニホン凄い論」とは全く違う、ヴェンダースの眼差しで現れる「美しさ」。けれどそれもまた別様のオリエンタリズムのような気もするし…いいとは思うんですね…。ただやはり、質素を楽しめるのは富裕者だけだと思うし、「こんなふうに生きろ」と言うなら便所掃除を仕事にしてからいってくれ。
生活に根ざした清貧さを主題にした映画は、何だか批判できない構造に陥っている。
清貧さを理想化し過ぎているとか社会構造に目を向けていないと批判すると、反論が起こる。「お前は清貧さの尊さに気づいてないし、鈍感であれるほど裕福で映画という『芸術』を何も分かっていない禄でもない奴だ」と。〈あなた〉と清貧さの距離の遠さの反論。真っ当のように思える。これが批判できない構造だ。けれど実はそのように反論する人ほど清貧さから最も距離の遠い人だ。だからこそ貧しい者が貧しいままで階級上昇ができず、それ故、貧しいことを美化しようとする富裕者の傲慢さがとても鼻につくのだ。
本作の出資者や宣伝者は、「こんなふうに生きているの?」。そんな疑問の答えは、渋谷のスクランブル交差点に節度もなくでかでかと広告を出している時点でお察しである。そしてこういった態度は「俗にいうつまらない邦画一般」にも言えることだと思う。
人生は何も解決しない。分かり合える家族をもつことはできないし、世界をひっくり返す仕事もできない。だからかりそめの他者と親しくなって貧しいけれど清い生活の美しさを噛み締めればいいのだ。そんな未来のないノスタルジーを抱えるのは、私が78歳のおじいちゃんになってからでよくて、今は未来のあるノスタルジーを信念に生きていたいです。
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