月のレビュー・感想・評価
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舞台挨拶付きで拝見しました。 登壇された出演者の方々、言葉に詰まる...
舞台挨拶付きで拝見しました。
登壇された出演者の方々、言葉に詰まるシーンが多々ありました。
この問題は各々意見があるとしても答えを出してはいけない気がするし
言葉を選ばないといけない場でしたので大変だったと思います。
なので正直、レビューもしにくいです。
作品自体、とても考えさせられます。
自分の子や親族が障害者だったら・・・
想像にも限界があります。現実は当事者家族にしか分かりません。
単に『他者を傷つけてはいけない』は綺麗事な気もします。
ただ、赤の他人が首を突っ込んで考えていいことなのか、
そこにすら疑問があります。
何を考えても自分の想像の範疇を超えないのです。
出演者の演技が素晴らしかったことだけは胸を張って言えます。
この作品と『ロストケア』は鑑賞疲れしますので
精神が落ち着いている時に見ることをお勧めします。
おもっ、、。
原作未読、レビュームズイな。
この映画は実際に起きた事件をベースにしたフィクションです、お間違いなきよう。
実際の事件自体はクライマックスと全体のバックグラウンドにはなっているものの、話の中心は障害のある子を失った夫婦の再生の話です。宮沢はもちろん素敵。オダギリジョーの優しい夫が新鮮であった。
映像は美しかったがカメラのワークが少しエフェクティブ過ぎだったと思う。見づらかったし、あんまり効果出てなかったよ。
劇中、結局磯村の優生思想を誰も論破できず、実際の犯人も同様に最後まで考えを変える事をしてないらしい。
会話できるのか?
心はあるのか?
まあ判断基準としてもあやふや過ぎるし、どんな症状だとしても人権はあるのだ。
この世界で気に入らない奴や足手纏いを
切り捨てる事は容易い。
それをどこまで認め、容認し、共に生きる道を探し、構造を組み立てる行為が健常者の「徳を積む」「よく生きる」という事でひょっとして「責任」ではないかとも思う。
ホリエモン的合理主義の人には意味ない努力、無駄と言われ、さとくんに現実はもっとギリギリです、、
と怒られそうではある。
現代の日本映画界が成し遂げた偉業 本作の製作に関わった全ての人に敬意を表します
終始、全身が硬直状態、もの凄い熱量に圧迫され呑み込まれそうになる、とんでもない作品、これほどまでの経験はかつて覚えがありません
「”生きるとは何か”
”命の尊厳に斬り込んだ”
”人は一生懸命生きて、何になるのか”
などを突き付けられ考えさせられた」
などと表面づらのありきたりな感想やコメントはいくらでもできるけど、それでは到底終われない、
かと言って文章化もできない、何とも複雑な心境と 言葉にできない とてつもない余韻に包まれ、エンドロール後も暫く動けませんでした
映画館を出て帰り道で見かけた街中にごった返す人々を見かけた時、大いなる命の息吹を感じた反面、何とも言えない気分になりました、この感情は何か?今でも自分でも解りません
そんな本作、メインキャストの皆さんが本当に素晴らしい、彼らなくして本作はありえなかったでしょう
主役の洋子を演じた宮沢りえさん、大好きな女優さんです、彼女の圧巻の演技に感動しました、今や大女優の域に達していると思います
洋子の夫 昌平を演じるオダギリジョーさんも素晴らしかった、妻を必死で支えようと自らも苦悩しながらも静かに力強く、時に繊細に演じきった姿にさらに感動を覚えました
そして・・・さとくん
を演じた磯村勇⽃さん、優しくて明るい青年から始まり、自らの信念に突き動かされる”確信犯(これが人の最も恐ろしいところだと思いますね)”を見事に演じきっており、改めて凄い役者さんだなあと思いました
恐らく本作のクライマックスで一番の見どころであろう、後半の洋子とさとくんの対峙シーンは圧巻、思想の下、さとくんが確信犯へ変貌していくことに気がついた洋子が何度か繰り返す「私はあなたを絶対に認めない!」というくだりがやけに印象に残りました
緊張感たっぷりの暗めの重厚な映像が良かったけど、所々目を背けたくなる描写も出てきます
でも”事件の行為”自体は直接描写されていないなど、想像していたほどの酷い描写は少なく、わりと観やすかったと思います
最後に、この偉業に真っ正面から取り組み、その表現に一切の妥協を許さず、最後までやり遂げた石井裕也監督に心から尊敬の意を表します
また一つ、日本映画界にとても大切な作品が刻まれました
さとくんというアンチテーゼを生んだ社会=私たち
相模原障がい者施設殺傷事件をモデルにした作品ということで、正直かなり身構えて鑑賞した。あの出来事をフィクションに取り込むことの是非自体に懐疑的な気持ちを持ってしまったというのが本音だ。
辺見庸の原作は未読だったが、それを読む代わりに「やまゆり園事件」(神奈川新聞取材班・著)というノンフィクションで事件の概要をさらっておいた。原作からは視点人物の変更などかなり構成を変えていると聞いたためでもある。
実際観てみると、本作は事件そのものの実情に肉薄する話ではなかった。植松聖をモデルにしたとされる「さとくん」(植松聖が小学生の頃実際呼ばれていたあだ名と同じ)が何故あのような思想を持つに至ったかという部分は、むしろあえてぼかして描かれているようにさえ見える。
実際、パンフレットにある石井監督のインタビューによると、「生産性のないものを排除する」という思想は今の社会そのものが帯びているものであるため、植松という個人を掘り下げることはしなかったそうだ。
それは結果的に現実の事件に対して謙虚であることにも繋がっているように見えた。完全な創作ならさとくん個人の内面はもっと踏み込みたい部分かもしれないが、そこは「今の社会」の一員である観客自身に自分ごととして考えさせたいというのが本作のスタンスだろう。
ただ一方で、それならさとくんのディテールをあそこまで植松に寄せる必要があったのだろうかという気もした。
キャスティングはさすがに手堅い。個人的には、オダギリジョー演じる昌平が特によかった。自分とは全く共通点がないが彼の悲しみや喜びには感情移入出来た。オダギリジョーは奇矯な役もすれば、市井の人の風情を出すことも出来て、あらためて演技の幅の広い役者だなと思った。
ちょっと驚いたのは、施設の風景の場面で実際の障がい者の方が出演していたということだ。和歌山県有田市の障がい者就労継続支援B型施設「AGALA」の協力で、利用者本人に映画の内容を説明の上出演の意思を確認し、保護者にも了承を得た上で出てもらったという。なお虐待の場面の障がい者は俳優が演じている。
題材が題材だけに監督の覚悟は伝わってきた。だが、いくつか引っ掛かりを感じた部分もある。
ひとつは、障がい者の問題だけでなく、東日本大震災のことや出生前診断のことを絡めていることだ。
言いたいことは何となく分かる。震災においては、綺麗事が真実を覆い隠す一面があったし、出生前診断は、優生思想に繋がりかねない危険をはらんでいるということだろう。それらは、重度障がい者の社会との関係や、さとくんに象徴される命を選別する考え方とたいして違わないのだと。
それでも、ただでさえ繊細さが必要な障がい者を取り巻く問題を語る中で、震災と出生前診断のことにさらっと触れて、障がい者の問題と共通点があるだろうといわれると、私自身はどうしても「同じ俎上に載せていい話なのだろうか」と思ってしまう。
洋子たち夫婦が出生前診断の結果を聞きに行く日を現実に事件が起きた日に重ねているのが分かったシーン(カレンダーに丸印を付ける場面)は、正直そこまでやるのか、と思った。
監督は、自分の子供が産まれた時に感じた「健康な子供じゃなかったらどうしよう」という気持ちを強烈な差別意識だとし、それは自身の狭量さや不寛容さのほかに、社会のせいでそのような気持ちを持つのだと言っている。
出生前診断を受ける人は、内なる差別意識からそのような選択をするのだろうか。選択の理由には、違う意味での切実な事情もあるのではないだろうか。経済的負担、既に障害のある子を持っていたり親自身が疾病などで体力的に障がい児の育児が難しいなど。海外では妊婦の権利として認められ検査に保険が適用される国もあるなど、考え方の分かれる問題だ。これはこれで、本来なら当事者への取材が必要なテーマではないのだろうか。
また、複数の重いテーマを重ねると、重すぎて受け止めきれない人も出てくるだろう(障がい者の物語だけでも正面から描けばそういう人は出るだろうが)。本作を監督の意図通りの重さで受容するには、観る側の心にもある種の余裕が必要だが、観客だってそんな余裕を持って生きている人ばかりではない。
より多くの人たちに受け止めてもらうためには、ただひたすら深刻な描写のみを積み重ねるだけでなく、ある程度の飲み込みやすさも必要な気がする。
もうひとつは、主要キャスト以外の施設の職員2人が、ただの差別意識の強い人間としてしか描かれず、その背景の描写が不十分に見えたことだ。
河村プロデューサーは、事件の背景には社会の構造があると言い、長井プロデューサーも、本作の挑戦を日本社会での生活の根底に流れるシステム自体を問うことだとしている。であれば、あの2人の職員が何故あのような差別的態度を取るに至ったのかという部分こそしっかり描くべきだったのではと思ってしまう。
昌平の職場の先輩の描き方もそうだ。あまりに作為的過ぎる極端なキャラクターで、彼をあのようにした社会の問題より、この先輩個人への嫌悪感が先に立ってしまった。社会の差別意識を、登場人物個人の行動のみで表象することは、見られ方によっては誤解を生むような気がした。
監督は、当時の施設の職員にはできる限りの取材をしたそうだが、かなり「難しかった」ようだ。そのため、ドキュメンタリーという手法では描けないからフィクションで、ということらしい。被害者遺族に取材を試みたかどうかは、私が読んだ範囲のインタビューなどでは言及自体ない。
物語では高畑淳子が遺族の代弁者になっていた。出演時間は短いが、当事者という意味ではさとくんと同じくらい重要な役だ。ただ、本作をもし遺族が観たらどう感じるか、私には全く分からない。
こういう問題を批判されるリスクなしに描くことは途方もなく難しいことだ。作中でさとくんが、洋子がきーちゃんの視点で小説を書いていることについて、利己的な側面があるのではと面罵した。そもそも原作がきーちゃん視点で書かれたものなので観ているこちらもどきっとしたが、監督は自分自身もそういう批判を受け得ることは承知の上ということなのだろう。
私自身は、重度障がい者がどう社会とつながっていくか、という問題については、まず知ることから始めたい、という気持ちになった。気になった点も書いたが監督の意図を感じとった実感もある。
重度障がい者が、施設ではなく、支援を受けつつ地域で暮らすという試みも近年進んでいるという。本作をきっかけに重度障がい者への理解を深める人が増えれば、その試みもいっそう進捗するのではないか。とにかく重い作品だが、そういう希望に繋がることを願う。
サトクンに言い返せないだでけでなく、自分の中にもある優生思想にがく然とする。重度障害ということが全然分かっていないことを知る。
最初の方で洋子(宮沢りえさん)がきーちゃんに出会う場面で圧倒される。
きーちゃんはベッドに横たわったまま動けない。聞こえず話せず目も見えない。僕はきーちゃんが僕の親、子ども、パートナーだったら生きていてほしいと思う。しかし、自分がきーちゃんだったら生きていたいと思うのだろうか?
後半、洋子とサトクン(磯村勇斗さん)が対峙する場面。
サトクンの思想と問いに言い返す言葉を見つけられない洋子と僕がいる。
入所者に優しく寄り添っていたサトクンが洋子に問う、「きーちゃんは幸せだと思うか?」と。
つまり、サトクンは洋子に(そして僕に)、「自分がきーちゃんだったら幸せだと思うのか?」 と問うているのだ。 洋子は(そして僕も)言葉に詰まる。
「生産性がない」と言うサトクンにも何を伝えればよいか分からない。
この時もう1人の洋子が洋子自信に問うて来る場面も圧巻だ。
出生前診断で障がいが見つかったとき中絶するのは命の選別、優生思想ではないのか?サトクンは生きている障がい者を殺すつもりだが、生まれる前に選別して中絶する自分はサトクンと同じではないのか?洋子が洋子自身と僕に問うて来る。僕は「イヤ同じではない」と返す。 だけど、もし「サトクンと一体どこが違うんだ」と問われたら返す言葉がない自分にがく然とする。
色々なことを考えるキッカケになる映画だ。僕には答えが見つけられない問いも多い。
-_-b まずは、、、。
まずは上映館と上映枠を増やすべきです。なんだか少ないですよね。素晴らしい映画ですよ。
知的障害者は人の心を持っていないから殺した方が世のためだという犯人の主張。ダメに
決まってるんだろう、、、、、、、、。本当にそうですか?自分の子が知的障害者だったら、野獣のような声を出し、糞尿を撒き散らしてもそう思いますか?どうなの?犯人からの釜が今も私の喉元に引っかかってます。綺麗事を言えば喉元かき切られそうな映画ですよ。
宮沢りえはいい演技でした。紙の月での演技も好きでしたが、本作も抜群にいい。代表作になるでしょう。
回転寿司の平和
140分と少々長いけど、途中緩むことなく見続けることができました。役者のみなさんが本気で取り組んでいてとても良い演技を見ることができました。施設で勤務をする主人公は人間のココロの裏の声を聞くという課題を持ち、直面した時の対峙の方法に悩みます。自分も「早く殺せ!早く殺すシーンを出して!」という正直で真っ黒な自分のココロに気付かされた映画でした。安全なところに安穏としてますね。本当にごめんなさいです。ラストあたりのお寿司が平和に回っていながらTVで事件を報じるシーンはとても良かったです。
断絶したまま繋がる世界
原作未読。
演劇的で詩的な作品だったように思う。
そうした意味でリアリティを求め鑑賞すると、肩透かしを食らうのではないかと感じた。
こうした作品で欧米型であればひとつ、問いかけや主張をまとめて投げるスタイルが多いように感じるが、本作はひとつの関係構造をあらゆる立場で再現し、それらをコラージュのように散りばめ絡め、互いの関係性の中から立ち上がるものをメッセージとして投げかけていると鑑賞した。
そのためあやとりの様に絡まり、引っ張り合い、大変曖昧だ。
どの方向から、誰に肩入れして物語を追うかで見えてくるものは全く違うと感じる。
似た感触の作品としてか、なぜか李相日監督の「怒り」をふと思い出した。
自身にとって不利益、不快をもたらす「もの」とどう共生して行くか。
のみこめず、さばけず、排除するのは合理的だが動物的で、
人はケモノでない以上、非合理をも当然と行えるものであるといいたい。
その時、互いのあいだに介在するものは何か。
ウソ、が多用されていた劇中。
アートや創作家も多く出てくる劇中。
共生できずとも、せめて互いに「穏やかなファンタジー、ウソの世界」に包まれ、断絶しつつも在ることができればいいのに。としか、結論としては出せなかった。
平和な誤解や、詭弁や、都合のいい○○があれば。
大変むずかしい。
主演の宮沢さんもさすがの迫力だったが、オダギリジョーさんの頼れそうで頼れない、人の好さげなダメ気味夫が好演だと印象に残る。
案外、あの夫が主役で、全ての要なのかもしれない。
追記
ウソの世界が隠蔽につながるのか、とも省みる。
だが一方、本当のせめぎ合いにヤラれて狂うのも地獄だ。
それら地獄を負う者が限られた少数だから個々を圧迫するのなら、この映画の意義はそれら重みをできるだけ多くで分担しようよ、そうすれば何とかしのげるくらいに軽くなるかもしれない、ということかもしれず。
だから主人公は1人でなく、夫婦として描かれていたのかもしれず。
わたしたちが主人公夫婦になれるかどうかは、この作品を語り続けることで少しは成されるかもしれず。
本質の解釈が大事
ユダヤ人の迫害について外国記者から問われたゲッペルスは、「貴方も体内のウィルスを殺すのに躊躇はしないだろ。ユダヤ人は社会のウィルスなんだ」
これがこの作品、彼の、全てだと思います。要は、根本的な考えの相違が有る限り絶対に理解し得ないと思います。ユダヤ人は、人間かウィルスか、と。
その彼が、「ナチスは嫌いだ、悪いから」。これがもう一つ気になりますが。例の、ガラの悪〜いコスプレ女性議員にぜひ見てもらって、感想を聞きたいです、はい。
日常の出来事として描かれる凄み
人を殺すと言う事はショーではない。
淡々と行われる殺人を坦々とこなす磯村くんがいい(もうアランさまと呼ぶのはおこがましい⁈)
その『佐藤くん』にも日常の生活が当たり前にありそれをもちゃんと描かれているのもいい。
ジョーくんとりえちゃんの新しい門出の答えが気になる終わり方だけど暗闇の中に光を見出せるか?と思わせる終わり方がいいのかな…?
意思疎通を信じている『高畑淳子』はちょっと無駄遣い。
全カットでもなんら影響無いよね。
盛り上がりを作らない分上映時間は長く感じると。悪くは無いんだけど。
日本最高峰の役者達が素晴らしい
テーマやストーリーに賛否はあるかと思いますが、作品としては素晴らしく、宮沢りえはいつもながら完璧で最高。迫真の演技だった「湯を沸かすほど〜」同様に代表作になりそうです。オダギリジョー、二階堂ふみの抑えた演技にしびれ、磯村勇斗は狂気すら感じる圧巻の演技で最高でした。サ道の時のイケメン蒸し男クンの時くらいから恐るべき成長力ですね。オダギリジョーの作る(設定の)モーションストップアニメもとても素晴らしかったです。大手作品でないこと取り上げにくい題材であることから番宣も難しそうで興行収入は厳しそうですが(頑張ってほしいが)石井裕也監督には今後も期待大です。角川原作だからか昨年9月14日にオリンピック関連疑惑にて逮捕されたKADOKAWA会長の角川歴彦がエンドロールの最初に出てきて違和感があった。
色々と
色々と思うところ、感じるところはある。とりあえず、目を離さず離れず、一気に見れた。他の作品の前に流れる宣伝を見て、「この題材でもう映画化するの⁈」が正直なところ。
どう見てもあの事件を参考にしているのはわかる作品で、犯人はまだ主張も変えずに生きている。
色々な意見があるのは当たり前で、ただ、このあらゆる事件がすぐに忘れらていく世界で、問題提起するのは必要かと。
後味が良いわけもなく、ずっしり重い。色々と考えざる得ない作品。
生きる、とは。
とても引き込まれて食い入るように観ました
実際の事件の悲惨さから、そこに関しての思いを語れるほどの語彙力はないのですが…
「月」というタイトルが、最後にそこにそうくるのかと、なんとも言えない気持ちになった。
全体を通してずっと画面が暗く、だからこそ最後の明るい未来を示す様な光に違和感すら覚える
磯村くん、私の中の2023年最優秀助演男優賞です!二階堂ふみさんの異質な感じもいいし、わずなか出番で心を持っていく高畑淳子さんよ…
鑑賞後数日間「あの歌」が頭から離れませんでした
かつて文学賞を受賞し、成功体験を持つ小説家、堂島洋子(宮沢りえ)。...
かつて文学賞を受賞し、成功体験を持つ小説家、堂島洋子(宮沢りえ)。
ほとんど無収入のストップモーションアニメ作家の夫(オダギリジョー)とふたり暮らしだが、あることがきっかけで何も書くことができず、最近は食べるのにも一苦労な状態。
森の奥に人目を忍んで建てられたある重度障がい者施設で介護士として働くことにした。
若い同僚には、作家志望の陽子(二階堂ふみ)や絵の上手い「さとくん」と呼ばれる青年(磯村勇斗)ら入居者に向き合う介護士もいるが、そのほかの介護士の中には陰で入居者を虐待している者たちもいる・・・
というところから始まる物語で、描かれる内容は衝撃的なのだが、登場人物ひとりひとりの行動の奥底にあるものは、常に観る側にもあるものだろう。
その意味で、観るのが本当につらい。
洋子も彼女の夫も、陽子もさとくんも、生きていく上での存在意義を見つけられない。
見つけられない、というよりも、社会(というか、彼らが生きている世間、というか)の人びとが、彼らの存在意義・アイデンティを「簡単に」「安易に」否定しまうからだ。
さらに悪いことに否定する側は、そのことを「普通のこと」もしくは「相手にとって良いこと」と信じている(信じていないかもしれないが、否定することを自身の悪意の発露だとは感じていない)。
わかりやすいのは洋子の夫の場合で、まだ世に出ていない彼を、バイト先の先輩マンション管理員は「そんなアニメ、誰が見るんだよ」と安易に侮蔑する。
陽子も、敬虔なクリスチャン(で、かつ不道徳)な父親から否定され、文学賞にも落選している。
「さとくん」も、なんらかの事情で美術学校に進学できず、現在の職に就いているのだが、同僚たちは、入居者に寄り添おうとする彼を「変人」「厄介者」扱いする。
洋子の場合は・・・これは冒頭のシーンと絡んで来、かつ中盤で明らかにされるので書かないこととする。
世間から欲されない者は、存在すべきではないのではないか・・・
その考えが施設の入居者たちにも向けられる・・・
とそんな単純ではないのだけれど、存在意義を問う、というか、存在意義を問うことを問う、というか。
存在意義を問うことを問う、というのは「いま考えていることを問う」ということで、わかりやすい言葉でいうと「葛藤」ということになるのかもしれない。
その「葛藤」のシーンは随所に登場する。
しかし、「葛藤」することは、すなわち「生きている」ということであり、「我思う故に我あり」というではないか。
大量死傷事件を起こした者は、その「葛藤」を棄てた。
相手の中に自身を見、自身にとっての存在意義を棄てる。
殺してしまいたかったのは、自分自身なのだ。
映画は、それをワンショットでみせる。
このワンショット、監督としては相当な力技、相当な決断・覚悟が必要だったはずだ。
映画は安易な結末を設けない。
ささやかな希望は見せてくれるが。
観る側も相当な覚悟が必要な映画でした。
元津久井やまゆり園の職員として。
過去に津久井やまゆり園で働いており、7.26もそれ以降も法人に所属していた身として、色々なものを(無論、清濁併せ吞んで)見聞きしてきた人間としては書かなければならないと思い、筆をとっています。プロのレビュアーではありませんので乱筆乱文、ご容赦ください。
✴この作品を観た人、このレビューを見ている人、業界の方、できるならばここを起点に感想と議論を重ねて行って欲しいです。事件を風化させないためにも、自身の障碍者観を世間に照らし合わせるためにも。
公式には明言をしていないけれど、あの事件をモチーフとした映画であったらしく、
関係者さんのご厚意もあって7月に試写会で鑑賞させていただきました。
きつかったです。
冗談でも何事でもなく、上映中止にすべき作品だと思います。
その時もその後も感想は同じなんだけれど、あるライターさんから「思ったのならそれを文章にしないと」とアドバイスを受けたのでここにつらつらと書いてみる。
はっきり言って辛らつだし、思い切りネタバレなのでそういう意見を聞きたくないという方はここで回れ右を推奨します。
・はっきり言って辛い。それは同席された知り合いの映画監督さんとも意見は同じでした。
・大前提として、「これをもってやまゆり園事件というものを理解したと勘違いされるのは甚だ心外」ということです。それが全国上映をされて流布することが恐怖でしかない。
・ネタバレになっていきますが、個々のエピソードに連続性がないし、そのエピソード、いる?というものが多い。
・例えば宮沢りえは震災311を経験して小説にしたということだけど、その経験が映画本編のどの行動にもかかわってこない。
・二階堂ふみも作家志望の施設職員ということだけど、作家である必要性はほとんどないし、この辺りのエピソードも作中で触れられるけれども内容には全くかかわってこない。
・二階堂ふみの家族構成にゆがみがあった事や、キリスト教徒であることも作品の中で紐づけされているわけでもない。途中ワインを飲み干す場面があったけれど、あれはユダの裏切りのオマージュかな?だから??という感じ。
・さとくんの人となりについては当初利用者思いであった青年が壊れていく、という流れはあるけれどもその変化があまりにも唐突で、職場に人間関係との軋轢や誰にも言えない環境によって徐々に壊れていくというわけではなく、あるエピソードをもって唐突に「壊れる」表現になっている。
・しかも壊れる要因が利用者さんの行動によって。という感じでこれではまるで「障害のある人が原因で事件が起きた」という印象に観客をもっていこうとしているようにも見えてしまう。
・職場の環境は確かに劣悪であったように表現されているけれども、それも個々のエピソードとして捉えられているだけで連続性を持たない。
・その後さとくんは文字通り壊れていくわけだけど、それを止められていない周りというのも違和感が残った。ドキュメンタリーでない以上、どこかでアンチテーゼのような場面や意見を見せる事や何かしらの希望を残すような表現を盛り込むことだってできたはずなのに、そういったことはしないでひたすらにさとくんという人物を「巨悪なサイコパス」として暴走させていく事に製作者側が執心しているような感じであった。
・多分、現場では流れを止められるような出来事はなかったのだろうから、ある意味事件を題材とした映画としては正解なのであろうけれど、それでも抗った人たちがいた事は知っているし、優性思想というものにノーを突き付けようと必死に努力した人たちがいた事は知っている。そういった人たちの取り組みを載せないで、もしくは(文字通りの)暴力でねじ伏せてしまう作品の流れは、事件をモチーフにしていながらあえて客観性を捨てて製作者側の都合で事実を歪曲して伝えようという意図すら感じてしまう。
・そして作品中最も問題があると感じたところだが、さとくんの彼女が聴覚障碍者という設定についてだ。
・作品中、さとくんが彼女に事件をほのめかす場面がある。その場面があろうことか、聴覚障碍者でなければ事件を防ぐことができたような表現になっていた。これには唖然とした。まるで彼女が聴覚障碍者だったから事件は起きてしまった。と言わんばかりの最悪の改変だと思う。
・無論さとくんの彼女の描写の中で聴覚障害であることが作品のストーリーラインに関わってくるのはほぼこの場面だけ(他にもいくつかあるけれど、正直同じような表現。「耳さえ聞こえていれば…」と思わせたい意図が見える)。これはもう悪意があるとしか言いようがない。この場面は怒りを通り越してあきれた。
・この表現に関しては聴覚障害者の当事者団体ははっきり言ってクレームを入れるべき内容に思える。それは観終わった後同席した方々とも話題に上がった。
・かくして事件は起きて作品は終わるんだけれど、ここで終わらせて何がしたかったのかがより分からなくなる。事件を乗り越えようとか、何かが問題提起されるわけでもない。
・総じてこの内容で144分はまったくもって理解ができない。時間を無駄にしたと見終わって正直思った。
・無論「はっ」となった瞬間もあった。きーちゃんを殺したさとくんがきーちゃんの亡骸に「かわいそうに」という場面などは心のないと言っている障碍者にさとくんが無意識に「かわいそう」という感情を抱いている。イコール人として無意識ではまだ認識しているという心の動きを表しているようで良い?表現であったと思う。
・総じて薄い、テーマ性の乏しい作品でした。
・やはり不安なのはこれが10月から全国上映されて事件の背景が障碍者にあったんだと世論が信じてしまうことだろうな。と思う。本当にあった事はもっと根が深くて、現在はどうなっている。ということも知らずにやはりこの事件については闇に葬っておくべきだ。障碍者は施設に入れておくのが正解なんだ。という結論に至られてしまうのだけは避けるべきだと思う。
他の方がどう感じるのかは分かりませんが、私はこの作品、非常に危険性をはらんでいると感じました。
・同席した映画監督さんの話、「今世に出ている事や世間が知り得ている事は裁判の証言だけで、それを料理した場合、あれが限界。
『私達や関係者が知っていても世に出ていない』
事を出すわけには行かなかった。ある程度ノンフィクションに沿った映画というものは確定した事実以外は中々とりあげられないから」という言葉が悔しいけれど腑に落ちた。
・だからこそ、この事件がまだまったく掘り下げられていないのだということを知って欲しい。まだまだ世間には広がっていない事があるのだということを知ったうえでこの映画が投げかけている問題を一人一人が考える切欠になってくれる事を祈っています。
追伸
やまゆり園のスタッフルームは扇風機ではなくエアコン完備で机もちゃんと事務机でした。
あと、居室のドアに設けられている窓は丸じゃなくて四角でした。
そこだけは訂正しておきたい。
最後に、あの事件で亡くなられた19名の方々のご冥福を心よりご祈念いたします。
絶望の彼方
石井裕也脚本監督。極限に追い詰められた人間の、本音と建前を剥き出しにさせられる。回答が無い、という回答が許されない追い詰められ方を、観客に強いる。宮沢りえ、二階堂ふみ、オダギリジョーも素晴らしいが、なんといっても磯村勇斗が凄い。この四人は演技賞レースを席巻するのでは?もちろん石井裕也氏も脚本監督ダブル受賞あるかも。
全218件中、201~218件目を表示