ベネデッタのレビュー・感想・評価
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宗教なんて
同じ信仰をもつものを集団化し組織化しただけの存在でしかなく。特別なものでもなんでもない。
むしろ、人類の歴史において巨大化していった宗教なんてなおのこと。全てがすべからく新興宗教だと言っても良い。と僕は思っている。
そんな宗教組織の中でも人類史中最も新興と言えそうな。イエズス起源のキリスト教が、内部崩壊しつつある兆候を感じた映画だった。
恐らく、ベネデッタそのものの事実は修道女にいながらレズビアンで随分阿婆擦れていたため隔離に及んで処罰された方。と言うのが大方の筋で、本作で描かれた筋は大半がポールバーフォーベンの創作だろうが、表現として発表できた時点で内部崩壊暗示ものだと言う理解である。
昨年秋に観たlambしかり、往々にして新興ゆえの離脱者発生は傍観者として見ていて面白い◎
人間、信仰は持てば良いしもつものも自由だが、集団化組織化は必要のない話。それが本作の問題提起w
最後に、いちいち冒涜を叫ぶ時のあの声がホラーで最高のコメディだったよ(^^)
奇跡と狂言
奇蹟を起こすと言われる修道女のベネデッタと若き女性バルトロメアの秘密の関係と、彼女を取りまく修道院と教会の複雑な物語を描いた作品。
初っ端から悪党と小鳥のフンの展開で、只者じゃない雰囲気を漂わす少女のベネデッタ。大人になり、ついにはキリストと会話したと言い出す彼女の体には、聖痕と呼ばれる傷跡が発生し、彼女に対する畏敬や疑念が渦巻く物語が始まっていく。
なかなか難しい作品ですね。ワタクシ自身は信仰とかは無いのですが、序盤はすっかりベネデッタの話は全て本当のように感じたが・・・バルトロメアとのやり取りから、徐々にその心の内に疑いを持ち始め・・・。
勿論、純粋な信仰心などを持つ人達も描かれる一方で、やはりここでも影響力が強いのは「権力」なのか。クリスティーナと、彼女を守り切れない元院長の所とかモロにね。そして、それすらも利用する強かさよ…。
果てして、聖女とされるベネデッタの事を本当に信じた人はどれだけいたのか?民衆はともかく、お偉方たちの中には果たして一人でもいたのかな?そして何より、本当に信仰心を持っていた者は・・・?
ワタクシには感想を文字起こしするのは中々できませんな。ただ、信仰と権力と・・・はこの時代でもなかなか切れないものなのか。そのあたりをリアルに、生々しく描かれていて非常に見応えがあった。ラストに向けての流れはまさに圧巻でしたね。
ちょっと長すぎるなぁ~というのと、ワタクシに何かしらの信仰心があればより高評価、あるいは低評価だったのか、とか考えちゃったり、ちょっと過激な描写がしつこかったかな~という印象でこの評価だが、それでも終始引き込まれたし、☆4.5にも最も迫ったとも言える、なかなかの傑作だった。
信じる者は救われる
マリア像から削り出した衝撃の道具は出てくるものの、期待していたよりは毒気が少なく、「信仰」をテーマにした「まっとう」な映画に思えてしまった。
ベネデッタの聖痕は、間違いなく自作自演なのだろうが、そのことを、権力を手に入れるためのペテンではなく、神から啓示を受けた結果として描いているところが、まず、興味深い。
彼女は、上昇志向の強い詐欺師ではなく、思い込みの激しい狂信者なのである。
それ故に、すべての出来事を「神様の思し召し」として受け入れる強さを持っているのだろうし、愛や自由よりも神を選ぶラストにも納得することができるのである。
同性愛を糾弾する審判の場では、なぜか、彼女を尋問する場面がなかったが、仮に彼女に証言の機会が与えられていたならば、真実を洗いざらい打ち明けていたのではないだろうか?実際、審判の直前に、そのようなことを言っていたし、そうしていれば、バルトロメアが拷問を受けることもなかったかもしれない。
その一方で、彼女を糾弾するために教皇大使を連れてきた前修道院長が、ベネデッタの処刑の場で心変わりをした理由が、今一つよく分からない。
自分が町にペストを持ち込んだことに罪悪感を覚えたからなのか、ベネデッタの存在によって神を信じる心を取り戻したからなのか。
いずれにしても、最期の瞬間、彼女の魂は救われたのだろうが・・・
OPPAI
かなり口コミが良さそうだったので鑑賞。今年1本目のR18+作品。
んー分からなかったというか相性が悪かったというのか…作品のテンションに乗り切れない自分がいました。
女性同士の性描写のシーンは思っていたより映っていなかったので興奮も何もなく、拷問シーンは映ってないけれどマジで痛そうでした。シーン自体は多くないのにこんなにもゾッとさせられるとは思いませんでした。見る人によってはゾクゾク具合が限界に達しても仕方がないレベルだと思います。
自分は宗教とかは普段触れないので、何に崇拝しているのかとかもチンプンカンプンです。そのため、黒死病がたまたま起こらなかった地でベネデッタを神の嫁として讃える絵面の凄さは、圧倒的ではありましたが、よく分からないままでした。
火炙りにされる直前で、ベネデッタを信じている市民が大逆襲を仕掛けて教皇大使を殺すまでいきますが、それほどこの時代の信仰心は強かったんだなと思いました。めっちゃ殺すやん笑となりましたが、フィールドに大きな変化が無いので、絵面のインパクトはそこまででした。
完璧に監督の性癖が全開な映画でした。とにかく全裸を見せまくるので、R18+に相応しい作品にはなっていました。自分にはどーにもハマりませんでしたが。御免被る。
鑑賞日 2/19
鑑賞時間 19:30〜21:50
座席 H-4
これは本年最高のアクション映画だ。
幼いベネデッタを父母が修道院へと送る途上に襲い掛かる野盗連中が、
ベネデッタの見せた奇跡の片鱗に何を納得したのかあっさり引き揚げてしまうというファーストシークエンスは、本作が並みの新作から隔絶した位置にあることを早くも予感させる。
この嘘のような呆気なさ。
本作はまさしく、本年最高のアクション映画であるのだ。
それは、17世紀フランスのルネサンス式教会の中で、修道女たちを前にした司教を被写体として、フォード張りの“同軸上のアクションつなぎ”が用いられているだとか、
或いは、ベネデッタが院長となり、その広い院長室にて初めて肉体を交わす機会を得た時にバルトロメアが見せる、前院長を外に締め出し、鍵をかけてからベッド脇のベネデッタに飛びかかるまでの驚異的な素早さだとかいった露骨なアクションを見るまでもなく、
バルトロメアが初めて修道院で過ごす夜、薄いレースの仕切りの向こうで身体を洗う彼女へ向かって、その仕切り越しにベネデッタが石鹸を投げ渡す仕草が1カットの中に収められているのを目撃するだけで確証できてしまうことなのだ。
アクション映画を撮ることしか考えていないヴァーホーヴェンにとって、
ベネデッタが神の啓示を受けた聖人なのか、或いは恐るべき知力と演技力を兼ね備えた策略家なのかなどという問いは心底どうでもいいらしく、
教皇大使を出し抜き刑罰から逃げおおせるクライマックスで、ベネデッタの振舞いを作中唯一明らかな作為によるものとして描いて説話を持続させつつ、
その後のベネデッタとバルトロメアの別れのシーンでは、設定の一貫性への考慮など一切なく、「そう決まっているから」とでもいうようなぶっきらぼうさで二人を離別させてしまうその姿勢は、
やはりアクション映画の素振りでしかあり得ない荒唐無稽な単純さを志向している。
であるから、二人が騒然とした広場から脱出する瞬間、画面の左から右へ向かって駆ける二人をフォローパンした別々のショットが3つ、パパパッといささか足早につなげられるのをみて無償の感動を覚えない人は、よもやいまいと思う。
そういえば、いまひとつの本年最高のアクション映画たるロウ・イエ「シャドウプレイ」にも共通する、説話的必然をいささか欠いた過剰さとして現れる“燃え上がる女”というモチーフは、
映画史に敏感な監督であれば身に着けておくべき時空を超えた映画的主題とでもいえるのだろうか。
剥き出し
感情も何もかもが映像として剥き出しになっているところがこの映画は凄いなと感じます。
凝った映画を撮る監督やテクニカルな映画を撮る監督、心情表現が上手い監督は結構いますが、凄いなぁ〜これって思わせる監督は個人的にはラース・フォン・トリアーと彼ぐらい。
毒キノコ
17世紀に実在した同性愛に目覚めて糾弾された実在の修道女ベネデッタ・カルリーニを題材にした話。
幼い頃テアティノ修道院の修道女になるところから始まって行くけれど、修道院も院長も何ともまあ生臭い。
そして18年後、父親に殺されると修道院に逃げ込んで来た少女バルトロメアを、ベネデッタと居合わせた両親の口添えで修道院に招き入れたことで動き始めて行くけれど…。
聖なる幻視に聖痕に、タイミングの良すぎる冠に、17世紀だから、とも思ったけれど、現代においてもオカルトを本気で信じる人もいるし、そもそも前例で挙げられた人達だって…ねぇ。
それに声の変化は頻発すると悪魔にもみえるw
自分は信仰心はないし、ベネデッタも知らないし、ましてやキリスト教の何たるかも良くわからないけれど、敬虔な方がこれを観賞したらどうなんでしょう。
色々な方面に配慮している感じはあるものの、ベネデッタだけでなく修道院長に出席司祭に教皇大使にと、兎に角権力のある人がことごとく生臭くて、まあそういうものだよね…と思わせるところまで画かれていてなかなか面白かった。
ただ、ラストのその後の説明のテロップを読んで、何だか急に冷めた。大したこと書かれていないんだけどなんでだろ。
女性が虐げられていた社会で権力を握るために、神からの刻印「聖痕」を...
女性が虐げられていた社会で権力を握るために、神からの刻印「聖痕」を矛にしてのし上がり、民や周囲をコントロールしようとするベネデッタ。これは神からの使命か、はたまたペテン師か。倫理や信仰、男性優位社会に強烈な楔を打ちつける。あまりにも鮮烈な一撃。
・女にも性欲があることを剥き出しに惜しげもなく描き切る。よくぞキリスト像をあのような使い方にしてくれたというか…さすがというか、唖然というか…
・バルトロメアを男らの暴力から匿い、自分が神の申し子を名乗ることで男たちに虐げられてきた村社会にメスを入れるとか、そんなところでは確かにフェミニズムなのかもだけど。
ただ「痛みに耐えてこそ強い女」像は前作「ELLE エル」でも同じように描かれてはいたが、特にあの拷問シーンはどう捉えていいのか。ストレートなフェミニズム映画ではないし、前作同様、これはフェミニズム?なのか??と思ってしまう過激な性描写もしばしば。(ああも裸体晒しすぎて女優のダメージ気になる)フェミニズムどうのこうのよりも、倫理やモラルに揺さぶりかけたいどころか、なぶり倒して混ぜっ返したいってだけのような気もする。
今回はそこに信仰や神という視点を据え置いた。すごい変だし、ものすごい捻れている。見てる方の、ジャンル決めつけの脳みそを、ぐちゃぐちゃに混ぜっ返したい。野心と狂気しか見えない。
・ペテンなのかマジもんの超人なのかはどうでもよくて、「神」を引き剥がして丸裸にされたのは人間の欲とか業とかでした。ぐらいのことなんだろうとは思う。
・バルトロメアの恥辱の行進は、ゲースロのサーセイを思い出した。
神を信じる者は救われたのか?
同性との情欲に溺れる破戒尼僧?であるベネデッタが時に周囲を欺きながら、時に人間としての欲望に忠実に強く生きた話・・・といったら現実派、理性派の皆さんはなんとなく腑に落ちるかと思います。
ただ、私の評価は全く逆で「神の声を聞いたベネデッタが、同様に神を信じて疑わない善良な人々を当時、黒死病と恐れられたペストから救った話」と確信しています。いや、史実はそうなってますしね。
後者のスタンスをとった場合、捉え方によっては色情狂、そして異端とされるベネデッタを神格化することにも繋がり、これでは厳格な宗教界から総叩きにあうでしょう。
だから監督はわざわざバランスをとり評価を曖昧にするために彼女が肉欲に溺れるシーンは大胆に、より煽情的に描く必要があった訳です。
このシーンに至るまで監督の小出しの人の情欲の見せ方、盛り上げ方、煽り方は本当、一流と言わざるを得ません。必要悪?とはいえ、結果として随分と目の保養になったことをここに告解いたします!
話はちょっとそれましたが、ベネデッタは聖職者としては論外で完全アウトじゃないかという濡れ場シーン、そして最後まで確定演出を出さなかった聖痕の自作自演の疑い、神のお告げが基本夢の中で、たまに変な内容になり信憑性に乏しい様(笑)・・・などで彼女自身の信憑性という点で煙に巻きますが、終始一貫して変わらないことがひとつ。
「神の存在を疑わず、絶えず崇拝してること」なのです。これを示すシーンのひとつで、ベネデッタの遠くを伺う様な視線は神の指示をリアルタイムで仰いでいる様で印象深く、非常に好演だったですね。
これとの対比で鮮やかだったのが、元院長と教皇の存在です。どちらもベネデッタ以上に欲望まみれ(笑)ですが、「立場上、見かけ上は神を崇拝してるようにみえるが、心の底で神様なんかいる訳ない」と考えています。態度に如実に現れていて、こちらの演技も良かったですね。
彼らが悲惨な目にあって自滅した結果論からしても、「神を信じるか信じないかが問題」であり、個人の欲望の追求、倫理観の欠如などは、「神への愛」が前提としてあれば十分許容されるという主張が映画の中で示されています。
また監督がベネデッタが妄想を叫ぶ狂人、もしくは狡猾で嘘ばかりついていたのでなく、実際「神の声を聞いていただろう」シーンをさらっと入れていることにも注目です。
夜空を不吉な光(実は彗星の尾)で彩られたのをみて、聖職者は不吉の前触れペストの襲来の予兆だと言い民衆を煽りますが、それを制止する様に彼女は「神に守られている証拠」と言い、暴徒化するのを防ぐシーンがありました。
彼女はこの民衆への大声での説明(煽動)の前に「あれは彗星」みたいなことを独り言で呟きますが、これって実は彼女が生きた17世紀において、こと修道院の教育、知識環境においては知り得ない事実です。
またペストの感染経路についても相応以上の知識があったと言わざるを得ません。都市ロックアウトは想像の範囲内ですが、教皇の脚を自らの手で洗う際にペスト感染者(後に発覚)の脚に噛みついているノミを意識的に潰してます。
ペストは患者間で飛沫感染する他、ネズミなどに寄生するノミを媒介して人間にも拡がります。
彼女はこの知識がベースにあって感染経路をつぶす対策が出来てたんじゃないか、と疑わざるを得ません。ペストの感染経路のメカニズムなんて、もっと後の時代に判明したのは言うまでもなく、彼女のこの知識は、彗星の存在を認めたことに並び、時代を超えたオーパーツ(時代考証的にあり得ないもの)であると考えられます。
これらの先見的な知識が神によってあらかじめ彼女にもたらされ、最終的に同じく神と彼女自身を崇拝してやまない民衆だけが彼女に導かれペストの難から逃れた、というのが落とし所としては最適かと思います。
神を信じるものは救われる。その主義主張だけだと実につまらない映画ですが、その過程が複雑で美しくかつエロティックな良作でございました。
ネタバレかつ、長文失礼しました。
ビジョンは、 神からではなく、 個人的なエゴによる幻想の肯定。
信仰の巨大さと奇跡は、
信者個人の自己愛への没入度と全信者信仰心の総和より幻視されるようだ。
幽霊の正体見たり枯れ尾花
信者の中では、
多くのことは同胞愛として愛も嘘も方便として赦され、
信じる者だけが救われ、
そして教会が信者から儲けるのだろう。
そこには信者限定の法皇世界が広がっているのだろう。
信仰心が希薄な俺良には分からない。
でも、前修道院長が救われたのは花道だね。
信じないことだって、神の御業かもしれません
存在しないということが証明できない、されていないという意味では、神様も、幽霊や宇宙人やUFOと一緒です。
信心深い方であっても、人間の心のあり方を律する存在としての神、哲学的な対象としての神、奇蹟や罰のような現世に物理的な作用を及ぼすことのできる神、というように捉え方はさまざまだと思います。
信じる人にとって、神は存在します。
どんな形態であろうと、その人にとって神は存在しているのですから、その呼びかける言葉が聞こえること、姿が見えることに違和感はありません。
聖痕もまた、神様が命じたのなら、自分で傷つけたのだとしても、神の御業なのだと思います。
うそ
色々なテーマが絡み合う作品で、パンチの多いシーンが続くのだが、自分は表題についてのテーマに絞ろうと思う
『嘘も方便』 もっと言えば『鹿を指して馬と為す』 あの時代の狭いコミュニティの中に於いて、しかも科学が全然未発達で、宗教のみが人生観の殆どな世情で、勿論フィクションとは理解しているものの、あれだけの力強い女性が存在していたならばと言う仮定をストーリーに落とし込んだ監督の手腕に脱帽である 演出、編集としての主人公に偏重したカット、最後の種明かしの指摘でさえも強い意志で跳ね返す堂々たる勇姿 "神"という名を借りればそこに主体としての自分は消え去り、器としての肉体、強靱且つ薬物の力も図らずも借りてしまった意志が、単純に言えば"裸体"であっても恥の概念の削除という、禁断の実を食べる前のイヴと同化したかのようなエンドは、その世界観の滑稽さの上での気高さを演出されていた "毒をもって毒を制す" 全ての人間が出来ることではないからこそ、善悪を超越した一連の行動に、人は普遍性の上位概念を想像するのかもしれない
さて、自分だったら…凡人なので何も自ら行動せず、『苦悩の梨』を持った赤いベールの男のように石をぶつけられて殺されるのだろうな(苦笑
キリストの女
キリストの幻影、幻視から奇跡のように聖痕やら自作自演と疑わしくも、神と崇められる存在に全てが自らの茶番にはならず、同性愛として肉体で感じる性の悦びを、ペストの流行を今更ながら現代のコロナと引き合いに出す必要性は蛇足かと、これ位の時代設定が苦手ながらポール・バーホーベンの新作だからこそ、キリストを神と慕いながら生きる運命は様々な欲を誤魔化しながら、無神論者としては生きづらい、皆が人間は愚かで汚い、愛を貫くためか、神なのか、もう少し難解に描ける要素がありながらも単純に思える物語展開にセンセーショナルな題材が霞んでしまう。
お下品なトイレの場面はジュリアン・ムーアの『マップ・トゥ・ザ・スターズ』には敵わない、Byデヴィッド・クローネンバーグ!!
やっぱりすごい
ポール・バーホーベン監督の最新作が映画館で観れるという喜びを感じつつ、2021年に海外で公開されてから2年越しの日本公開で、やっと映画館で観れた!!という気持ちの方が強い笑 一時はビデオスルーになるかと思いました。
相変わらず良い人だろうが悪い人だろうが容赦なくボコボコにして描くポール・バーホーベン作!!
「スターシップ・トゥルーパーズ」だったり茶化してるのか、本気なのか分からない映画を撮るのが上手い!絶対に(100%!!)茶化しているんですが、本気で信じ込んでいる人には本気の映画になっているように作ってるし、「ブラック・ブック」や「ELLE」のように女性が差別や権力に反旗を翻す映画にもなっている。
また、本当なのか嘘なのか、最後まで分からない、この映画として答えを出さないというのもバーホーベン監督らしく、「トータル・リコール」でも「氷の微笑」でも嘘か本当か?どっちか分からないし、
「ブラック・ブック」ではナチス側もユダヤ人側からも差別を受ける主人公を描く、どちらが悪いかは描かない。非常に冷徹でフラットでフェアな監督だと思っています。
バーホーベン作の特長として、"まともな人が1人もいない"か、"1番まともそうな人が死ぬ"というのがあると思いますが、本作は後者で、とある人物が自害するシーンは衝撃的。まさに神の言葉(的な)ものに従ったが為に、1番大切な人を失うというもうどうしようもない悲しいシーンがあるのですが、このシーンでシスターフェリシタを演じるのは大ベテラン女優シャーロット・ランプリングで、このシスターフェリシタの境遇だったりラストに至るまで辛い。
主人公は幼少期より自分にたまたま起こった出来事を神の啓示と結びつけてしまい(最初の神の啓示が鳥の糞というのも馬鹿にしまくっていて最高です笑)、それゆえに一種の妄想に取り憑かれてしまう。ベネデッタは自分の見るビジョンが神からの啓示であることを最後まで一切疑わない。ここまでいくとある意味清々しく、ラストシーンの勇ましさと馬鹿馬鹿しさが共存する彼女の後ろ姿はどんな感情で観れば良いのかわからない笑
また、神からの言葉ということが当時の教会で女性が発言力を持つ唯一の方法であったことと、その言葉がある意味荒唐無稽なことであっても神の言葉ということであれば(それが怪しいと気付きつつも)従わねばならないというルールのバカバカしさを映画としてしっかりみせてくれます。こんな狂った世界で最初に死ぬのはやっぱり1番まともな人なんです笑 さすが、バーホーベン監督。
パンフレットやポスターまで、ポール・バーホーベンが大好きな高橋ヨシキさんデザインで、さすがの出来でした。
色んな批判を受けても全く映画スタイルを変えない84歳のポール・バーホーベンを見ているだけで1番元気が出ます笑
性なる自由✕信仰
私は見ました!キリストを見ました。"家政婦は見た"ならぬ修道女は見た。排泄からの痛み、そして昇天。痛みを感じることは罰ではなく、それは即ち神に近づくこと。神を身近に感じる、いや、目撃する。目の前に危険が迫ると、人は藁にもすがる思いで怪しいものでも信じてしまう…?そして、それは何もベネデッタに踊らされる周囲の人々だけでなく、何よりベネデッタ自身の女性に惹かれる後ろめたさから来るもの。足枷のように信仰心が後ろ髪を引く、どころか顕著に体を傷つける。
『グレート・ウォリアーズ/欲望の剣』を彷彿とさせた。少女時代のファーストシーンから主人公ベネデッタが、その信仰心故に、周囲/人の心を操ることに長けていることが描かれる"信頼できない語り手"のような二面性と力強さ。断食少女のようでもあり魔女のようでもあった。あなたの信仰心が試される、実話から着想を得たらしいキリスト教を揺さぶるスキャンダラスな歴史ドラマはなんともヴァーホーヴェンらしかった。女性性を感じさせながら、決して男どもの踏み台や単なる犠牲者になることなく、逞しく生きる。本人にとって都合悪いときですら、都合よく転がしてみせる。だから主人公がシャーリズ・セロン姐さんに見えてきそうなくらいだった。
神に仕える身でありながら、女性同士の許されざる関係。それも時代を考えると尚の事だろう。それを端的に象徴するような聖母像から衝撃の小道具(!)も出てくる。途中までシャーロット・ランプリング含むメインどころ3人がクワイガン、オビワン、アナキンに見えたけど、途中から「いや、アナキンとパルパティーン?」ともなったし、けど結局のところそれらとはまた違うような関係性がなんともエロチックかつスリリングに見る者を煙に巻き、当惑させるようだった。痛みがセックスの代替としてメタファーのように機能していて、例えば、考え過ぎかもしれないが、ベネデッタの傷が虫眼鏡でアップになっているところなど少し性的であったかもしれない。そして、本作の製作年の早さを考えると違うかもしれないが、ペストはコロナとも重なるやも…。
勝手に関連作品『グレート・ウォリアーズ欲望の剣』『セイントモード狂信』『クルーシブル』『聖なる証』
刺激的でなかなか狡猾です
人間が狡猾に生きていこうとしている姿が色々と見ることができて、なかなか興味深かったです。ことごとくうまくいっていないことばかりだったのですが、その描き方含め狡猾だったかと─。
見ようによってはひょっとしたらという表現にも見えたので、やっぱ巧みだなーと─。
思ったよりも重さがなく、さらりと楽しむことができましたが、それで果たしていいものかどうか微妙なところだと思うのですが・・・
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