志乃ちゃんは自分の名前が言えないのレビュー・感想・評価
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児童文学にまで引き上げる様な実写化アレンジ
個人評価:3.8
原作ではあまり感じる事が出来なかった大事なテーマを、実写化する事により、眩しくきちんと伝わってくる。児童文学になりそうな位いい作品に仕上がっており、原作に対して作り手の愛情が深い事が伝わってくる。
また主演の2人が言うまでもなく素晴らしく、すでに名女優なりそうなオーラを出している。
いい実写化だ。
後味の残る作品
観賞後、すごくモヤモヤとした印象が残る(でもいい意味で)。1つの文章にはまとめられなかったので以下箇条書き。
・友人を独り占めしたい感覚。自分から逃げたい。自分と向き合う。友人を作ることで世界が広がる。自分の存在を消すこと、空気みたいになることはズルい。
・菊池くん…。彼の辛さが痛いほど分かる。
・有名な俳優が出ていなくても充分良い作品になり得る。むしろ、そっちの方が良い?(有名な俳優だとその人の俳優としての「人格」が滲み出てしまう?)
・海が「青」が「青」春を演出している、
どんどんわるくなる
いつもの日本映画なんだろうな、と思って見た。
が、抑制があった。
素朴な田舎の高校生である。
それを描写する映画も、お涙頂戴や承認欲求や岩井俊二風や、吃音に対する特別な問題提起を用いていない。
また、ここでの演技があがなわれることで、別のステージが拓けるアイドルが演じているわけでもない。
無欲で、ピュアな映画だと思った。
のは、菊池君の加入までである。
孤独が躁になって顕れてしまう奴はいるし、志乃が心を閉ざすきっかけとして、分かり易いが、あまりに過剰だった。
人と対峙したとき、感情をつかさどるのは、相手のデリカシーである。どもりがあろうとなかろうと。
すなわち彼が必要悪となり、そのオブセッションを乗り越える曲線が描かれるはずだった。ところが菊池君、あまりにけたたまし過ぎて、志乃だけでなく、観る者の感情をも著しく乱してしまうのである。そこで、雰囲気を崩したついでに文化祭の演劇風さらけ出しで、凡庸な映画になった。
実体験に基づく原作であることを顧慮したい気持ちが無いでは無いが、個人的には菊池君が強すぎた。文部科学省選定映画が関山であろうかと思う。
寂しげな志乃、クールな加代。海辺で、光りのおびただしい土地である。顔にあたる光彩がまばゆい。うつむいて泣いたとき、鼻水の条がきらきらと輝いた。かえすがえすも残念だった。
【”ずっと独りぼっちだったけれど、もう魔法はいらない・・” 葛藤しながらも自らのコンプレックスと向き合い、新たな一歩を踏み出す少年少女の姿が心に沁みいる作品。】
■今作の魅力
1.キャラクター設定の妙と演じる若き俳優さんたちの姿
・志乃(南沙良):人前に出ると、緊張のため吃音になってしまう高校一年生の少女。美しい唄声を持つ。
・加代(蒔田彩珠):音楽が大好きで、ギターを奏でる事で自分の居場所を保つ少女。少しだけ、音痴のため友達と距離を持つ。
・菊池(荻原利久):おバカキャラを出そうとするが、クラスの中で浮いてしまうちょっとイタイ男子。中学時代に苛められていたらしい・・。
という、様々なコンプレックスを抱えた高校一年生を演じる、南さん、蒔田さん、荻原さんの姿。取り分け南さんが演じる志乃の姿は沁みる。
白眉は、ラストに近いコンサートでの志乃の魂の叫びのシーンであろう。
又、ツンデレだが、心優しき加代を演じる蒔田さん。イタイキャラを演じる荻原さんの姿も印象的。この三人が奏でる演技のトライアングルが素晴らしいのである。
2.1970年代のフォークソングの使い方
・随所で奏でられる”あの素晴らしい愛をもう一度” ”翼をください”のメロディが醸し出す風合。
3.1990年代のJ-POPの使い方
・曲数は少ないが、”ザ・ブルーハーツ”、”ミッシェル・ガン・エレファント”と、上記フォークソングとの相乗効果。
4.盤石の”足立紳”の脚本
・3名の若手俳優の名演を引き出す安定の脚本。劇中の音楽の使い方も素晴らしい。
今作の素晴らしさは、足立紳の脚本と南沙良さんを筆頭とした若手俳優3名の方々の演技に依って成り立っていると言っても、過言ではないであろう。
<ある視点から、様々なコンプレックスを抱えた若者たちを描いた青春映画の秀作。改めて、足立紳の書く脚本の凄さを認識した作品でもある。>
<2018年9月 シネマテーク高崎にて鑑賞>
ー鑑賞当時、激しく心に沁み入ってしまい、とても恥ずかしい思いをした挙句、鑑賞記録を紛失・・。-
<2020年6月 別媒体にて再鑑賞>
南沙良さん凄い
吃音に悩む志乃と、音楽が好きだけど音痴の加代がバンドを組むことに。
空気が読めず孤立してしまう菊池を含めて、3人が成長する様子にホロッとする。
この映画、とにかく志乃を演じた南沙良さんが素晴らしい。緊張して話せないもどかしさ、惨めさ、自己嫌悪みたいな思いがとても伝わる。
しかし、タイトルが残念。原作が漫画だから仕方ないか。。
「ありがたくない個性」の話。
先に結論から言っておくと、良い映画だったと思う。
アバンタイトルでグッと掴まれて、序盤は泣きっぱなし。
海辺の町の夏の風景の懐かし美しい雰囲気もとても良かった。
でも最後までは乗り切ることができなかった。
これは僕が『ムーンライト』や『ワンダー 君は太陽』で感じた乗り切れなさなんだと思う。
映画の中で語られているのは、“ハンデ”なのか、“個性”なのかという話。
例えば、ムーンライトの主人公はゲイで黒人。それがハンデとして語られるなら、LGBT差別とか人種差別とかを考えさせられつつ、観客は道徳心でもって主人公に同情的な感情移入をする。
また例えばワンダーの主人公は顔が醜い。それをハンデとして語るなら、「人を見た目で判断しちゃダメ!」って道徳心で主人公の頑張りや成長に割増しで感動する。
でも、本当にそれらを差別しないんだったら、ゲイとか黒人とか顔が醜いとかドモリ症とかって「個性に過ぎないんじゃない?」って話になってくる。
「ありがたくない個性」なんて誰もが背負っている。そして多くの「ありがたくない個性」は“ハンデ”として同情されたり、免罪されたり、救いの手を差し伸べられたりしない。
体に障害がある人への差別は社会問題になるけど、例えば性格に障害がある人への差別は、ただ嫌われ者の自己責任になるだけだよね。
例えばセクシャルマイノリティとか身体障害者の日常生活と、
例えばフツーにブサイクで性格悪くて嫌われてしまう者の日常生活と、
どっちが同情されるべきだろうかみたいなことを考えちゃう。
僕にとって、登場人物が「ありがたくない個性」を乗り越えて成長していく話を観るのは大好きだけど、そこに“ハンデ”という要素があると、それが逃げ道になったり、無駄に感動を煽る大袈裟さに感じられてしまって苦手だったりする。
そのへんについて本作は、ちゃんと言及していてエラかったと思う。学校から一緒に帰る道の場面だったと思うけど、加代は志乃に「あんたはいいよね、吃音って障害というエクスキューズがあって」というような意味のことを言う。つまり志乃のドモリには吃音という“やむを得ないレッキとしたハンデ”があるけど、加代の音痴は障害でもなんでもないから、“ありがたくない個性を、純粋なコンプレックスとして背負わなきゃいけない”んだっていう話だよね。
「レッキとしたハンデを持つ弱者」からの視点で映画を観ると、「ちょっと迂闊な物言いをする先生」も、障害者に理解がなく無神経で独善的な、すげー悪役に見える。でも僕は「あぁ、この登場人物、観客にすげー悪役だと思われて可哀想だな」って思っちゃう。もちろん志乃という主人公が、この教師を悪役の位置に立たせてるわけじゃないし、この主人公もまっとうに可哀想なんだけど。
そういうひねくれた見方でこの映画を観る僕には、いちばん可哀想だったのは、この菊池という男子だった。単に僕にキャラが近いから不要に感情移入してるだけなのかもしれない。
「ウザいヤツだけど、悪いヤツではない。」でも、「悪いヤツではないけど、やっぱりウザい。」
物語が主人公に対してする救済みたいなものは、菊池には与えられない。それは「彼のウザさは自己責任であってハンデではない」からなのかもしれないし、ただ単に主人公じゃないからなのかもしれない。この映画に映る彼の最後の場面はとてもリアルで残酷だったと思う。その残酷さに多くの観客はたぶん見向きもしないだろうという残酷さ。
志乃と加代は、「しのかよ」としてまた一緒に音楽やるのかな?
やれたらいいなとも思うし、やらなくてももういいのかなとも思う。
そのどちらかを、正解として押し付けてこない。そこもこの作品のエラいところだと思う。だから良い映画だった。良い映画だったけどスッキリと泣けなかった。だからこそ良い映画だったんだと思う。
志乃です!加代です!しのかよです!
吃音によりコミュニケーションがとれないことはよくある話。ところが音楽というツールによって発声がスムーズになる。どこかで聞いたことのあるような設定ですが、生活をすべてミュージカルにしちゃえばいいじゃん♪などと催眠術を勧める母親を見て思った。あ、でも踊りだすのはやっぱり変だな・・・
スキャットマン・ジョン(1942~1999)がメジャーデビューしたのが52歳の時。自身の障害である吃音症を逆手に取ったスキャットソングで、いきなりのミリオンセラーを記録した。彼は日本の吃音者団体である全国言友会に寄付した。意味を持たない言葉だったら自由に喋ることができるということ、当時はかなり話題になったものだ。その代表曲「スキャットマン」を初めて聴いたときには愛川欽也のパック・イン・ミュージックのジングルを思い出したものですが、コピーするのも難しく、何十回も聴いたことをも思い出しました。
で、この作品は音楽映画であるのか?「あの素晴らしい愛をもう一度」や「翼をください」といった懐かしのフォークソングを歌うあたり、またしても『ダンスウィズミー』と世代的に同じところを狙っているような気がする。しかし、加代ちゃんがとても下手だったり、歌よりも加代志乃の百合っぽい映像に惹かれてしまう。文化祭のコンサートの「魔法」というオリジナルは下手すぎて歌詞にばかり気を取られてしまうほど。
彼女の心の中は誰にも伝わらない。加代ちゃんだって孤独な少女なので、作詞によって思いを伝えることしかできないのだ。空気を読めずにずけずけと彼女たちに割り込んでくる菊地が緩衝材となってるところもいい。それがなければ二人の絆はただ楽しいだけの関係になっていたのだろうから・・・とにかく壊れやすい乙女心。俺も昔はわかってなかったな・・・・
きれいな絵づくり
吃音の女子高生、アコギギターを弾くのが大好きだけど歌が下手な女子高生、はしゃぎすぎの浮いた男子高生、3人共にうまく友だちをつくっていくようなキャラではない設定。内容よりも、引いた構図、逆光のライティングの織りなすきれいな映像がとても良かった。ラストは3人ともに友だちと群れない絵をみせていて現実感ある。
運転手さんそのバスに僕も乗っけてくれないか
漫画読んで泣いてしまった。
ので
すごい気になってた映画、、
内容分かってたので、最初の自己紹介の場面から
半泣き状態に…(涙腺弱っ!)
あの女の子ふたりに泣かされぱなっし!
最後の方は漫画と違うような感じ
したけど
映画の終わり方、、こっちもなんか好きやわ!
うん うん これから始まるやな始まってるんやな!
おっちゃんも頑張らなアカンなぁー!
ロック
志乃ちゃんのラストの独白、実にロックなメッセージ。「わたしがわたしを追いかけてくる」加代ちゃんに、作詞のセンスを見込まれただけある。ロックとは何か?この作品のモチーフ、裏のテーマかもしれない。
自信がなく、殻に逃げこむことで安堵する。加代を取られたという感覚じゃなくて、「こんなつまらない私ではなくて」と投げ出す感じかな。「二人でやろう」は志乃ちゃんにとっては解ではない。自分と向き合い自分を動機づけられるか?自閉に寄り添った深い脚本と演出、素晴らしいできばえである。
深いと言えば、驚くべきキャラに進展する菊地。演技、演出が実にきめ細かい。衝撃的な高校デビューから半年、周りの菊地に対する態度の変化が画面から滲み出る。菊地のキャラ作りは完璧。志乃ちゃんの菊地に対する頭部死球のような仕打ちは、罪はないにしろ、菊地に寄り添わなければならないとは、想定外の展開であった。
鼻水
自分は『どもり』である。だからこそ今作品の当時の上映時は敢えて避けた。それは自分にとっての幾つかのコンプレックスの一つである問題に今更向き合う事を馬鹿馬鹿しく思ったのが原因である。
そんな気持の中で、33回高崎映画祭にて上映される本作を観ようと思ったのは、心のどこかに引っかかるモノがあったからだ。
ストーリーは、3人の男女が、いわゆる通常の人間ならば当然のように持ち得ていて悩むことなどない能力がそれぞれ欠けている特徴を背負ってしまったが故のそれぞれの青春期由来の自意識さと相まった“こじらせ”を爆発させたコンセプトになっている。主人公の女の子の“吃音”が常に痛々しさ、居たたまれなさ、羞恥を色濃く作品に落としながらストーリーはそれこそつっかえつっかえ進んでいく。自分と同じ症状がこうしてクローズアップされる作品は本当に初めてであり、始終相当心に疲労感を覚える。ホラー作品が昔よりも怖がらなくなった鈍感さを感じている自分でも、この屈辱はスクリーンをまともに直視できない程である。劇中でもエクスキューズしていた母音が苦労する件はまさしく自分も同じで、そして自分もまた母音のせいで名前が未だに聞き取り辛い筈である。そして周りの奇異の目が常に自分を苛み、生きている価値を益々奪っていく。肉親である母親が良かれと思って勧めた催眠療法でさえ、そのデリカシーの無さに憤りを覚えるのも充分理解出来る。自分も市町村の児童相談所に母親に連れられていった過去があるから。そんな傷だらけの高校生達が、一緒にバンドを組む事で世界の転換を目論むのだが、そんな簡単には“こじらせ”は治る訳でもなく、直ぐに3人の関係性は崩れる。そしてそれが結局元に戻ることなく作品はエンドロールを迎える、非常にクールで突き放す収束に仕上がっている。前半の謝罪時の涙と鼻水は屋外の太陽の下の煌めき、そしてクライマックスのそれは、屋内のライトに照らされての嗚咽。その対照的なシーンは夢と希望とは違うビターな現実を物語る意味合いを充分演出している。主人公の女の子にとって、他の二人の抱えている問題である“音痴”や“ADHD”は取るに足りない障碍であるのだろう。少なくても二人はそれでも前向きに生きようと努力している。要は打たれ強いのだ。それに比べて自分の自己嫌悪を吐出す件は、そういうときに限って“どもりが”治まる。要は自分を曝け出すことでしか正常に話せない不条理さに、自分を呪うばかりなのだろうと思う。本来ならばそんな条件が無くても人は普通に話すことが出来るのだから。
ラストの、それぞれの道を示唆するカット、そして主人公へのジュースのプレゼント、それはいつかは又3人が邂逅するかもしれない、そんな淡い願いをそっと偲ばせた清々しいエンディングである。
クライマックスで、ホール内の何人かの客のすすり泣きを耳にした。その感情の由来は、彼女への憐憫なのか、それとも同情なのか、それは解らない。しかし今作品は決して哀れみを共有して欲しいと作ったのでは無い筈。多分、一番訴えたいテーマは、『想像力の育み』であろう。自分と異なるモノへの安易なシャットダウンが進歩を阻む最大の悪因であるとストレートに提起している大変良質な作品であった。
思春期の心の距離
吃音(きつおん)にコンプレックスを抱える少女が、音痴コンプレックスを抱えている少女と出会い、成長していく物語。
吃音であるが故に、うまく人間関係が結べない少女。
自らの心が若いが故に彼女の心にづけづけと侵入する同級生。
私は大人だから分かってると勘違いして接してくる先生。
そんな中、1人の少女と出会い、映画は徐々に心の狭さ、豊かさを観る側に与えてくれる。
路上ライブにて唄う姿はザッツ青春。
挫折理由もあるある。
最後も好きよ私。みんなハッピーエンドにするよりかは、これからが始まりって感じで。
完全に泣かせにくる映画よりかは、この様な心の距離を描く映画の方が好きだ。人と人の距離感も上手く映像で表現。
別映画「聲の形」にも似たような感覚。
この作品も私は若い人達に観て頂きたい。
どんな頭が良くても、心が養えていない大人は多い。
心が養える映画。
「あの、素晴らしい愛をもう一度〜♫」
こんな映画が増えて欲しい。
今、学校では道徳性のある映画観賞など実施しないのかねぇ…
有名俳優出ずしも、良い作品は創れる。
おすすめします。
苦手だが好きなシーンも多い
吃音症により上手く話せない志乃は入学先の高校で人を寄せ付けない少女、加代と出会い…。
全編が沼津で撮影されていて地元民としては景色だけで既に満足。恥ずかしいと言う点で苦手な物語ではあるが映像の撮り方や友情の描き方など好きなシーンも多かった。
キラキラして、切なくて、染みる感じ。
前から気になっていた作品で、公開があらかた終わってから、観なかった後悔と猛烈に観賞意欲が沸いて、ポスターの画像を観る度に“映画館で観たかったなぁ…”と思いが募り、他府県に遠出して観ようかと思っていた矢先に下北沢のトリウッドで上映される事を知り、観賞しました。
鑑賞前の期待値をかなり上げてましたので、少し肩透かしはありますが、それでも切なくてなんかキラキラして羨ましく思える。
それぞれの苦手な事にコンプレックスを抱くのは思春期の女の子なら当たり前で、志乃が心の底から泣くシーンはまさかの鼻水を出しての号泣。それが2回もあって、思春期の女の子にここまでやらすか!?のまさかの泣きの表現にビックリ。
志乃の吃音も加代の音痴も途中からまさかの合流の菊地の空気の読め無さからくる孤立もそれぞれが抱えているコンプレックスに悩んで葛藤しているけど、志乃がそれと真正面から向き合えなくて固く殻にこもってしまう。
しのかよの解散も個人的には志乃の頑固で多大なワガママが原因に映ります。
だから、余計に加代が男前に映って、加代が可哀想。
ただ、10代の頃の感情の爆発とコントロールが出来ない葛藤って、誰もが経験していると思うし、いろんな事が重なりあって、1つの理由では説明がつかない事の方が多々ある訳で、その気持ちは十二分に分かるんですよね。
勇気を出して取り組もうとしても、解決できないコンプレックスに自分でもどうしょうも出来なくて、落ち込んで、自ら孤立していく気持ちが切なくて、そんな青春の理不尽があるから、はつらつとした場面が対比してキラキラに見える。
この映画の陰日向がいとおしく感じます。
ちょっとした台詞の言い回しも好きだし、加代に“なんか面白い事を書いて”と言われて、まさかのお○ん○んと書く志乃の下ネタにもビックリw
でもクスッとしてしまう。
ただ、ラストは現実的にこういうもんだよなぁと思いながらも、個人的には志乃と加代の仲直りの場面を期待してたので、ちょっと残念。
それでも沼津の海辺の綺麗な風景や90年代の音楽シーンも良くて、加代と志乃の自転車を漕ぐシーンはやっぱり良いんですよね。
あと、ブルーハーツは偉大だなぁw
観たかった作品が観れたのと久しぶりに良い青春映画が観れて満足です。
クソ映画(これは映画とは呼びたくない)
それっぽい人間をそれっぽいストーリーで撮影し繋げただけでこれは映画とは言えないなと思った。
全ての人間のする行動に過去が見えてこない。無理やり映画のためにそういう人を作ったに過ぎない。音楽もピアノからギターと出会いを気に変わって行くが弱い。全てが浅はか。感動する事はしているがその奥にあるエモーショナルが確実にない。
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