散歩する侵略者のレビュー・感想・評価
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面白かった(細かいバレはありません)
好みの別れる映画のようだが、個人的には非常に面白かった。SFが好きで、シリアスな展開をじっくり観たい方におすすめ。ラストのCGの"つくりものっぽさ"も、映画館の爆音に囲まれるとあまり気にならない。最後の、"侵略の代償"とも言える結末はSFらしさを感じる。観てよかった!
世界観やセリフは良い
原作は劇団イキウメの演劇ということを知った上で鑑賞しました。
世界観や哲学的な会話は楽しめましたが、映画的演出のチープさが好きになれませんでした。
ある日宇宙から侵略者が来て、知らないうちに人間に紛れ、人間から概念を奪っていく。という設定はどこかのSF小説でありそうですが、それを演劇でやった劇団イキウメはすごいのでしょう。
私自身演劇には疎いので、劇団イキウメという名前を聞いたのは、同じ劇団原作の映画太陽の時です。
限れたスペースでやれることの限られらる演劇でSF作品を表現するのは難しいと思っていたのですが、今作では演劇の限界を最大限に生かしたSF設定だと思います。
その中で、概念を奪うという何とも哲学的なことを会話劇中心で進めていくのは演劇っぽいところではあります。
そんな原作を映画化した本作はさぞ、映画的な演出を加えているのかと思っていたのですが、期待しすぎでした。
確かに会話劇は面白い。概念を奪うという抽象的で難しいことを、セリフだけで何となくでも理解させることには成功していると感じます。
所有の概念を失った引きこもりの若者が、所有と概念がないからこそ言える戦争反対の理論など、ハッとさせられる言葉や哲学的な深い言葉が全編を通して散りばめられています。
しかし、それは演劇というリアリティラインが低く、大抵が許せるからこそ成立するのであって、映画というリアルを追い求める昨今の映画的には違和感を感じてしまうことの方が多い。
そのようなセリフを言う場面で急に台の上に乗って大声で叫んだりするとこは演劇的ですが、映画内においては、概念を奪われた以上の異変が起こっているようにしか見えなく、どうにも腑に落ちない。
と言うのもすぐにわかることですが、どうやら概念を奪うのは侵略ではなく、人間を学ぶためだと言う。
侵略者自体も概念を奪うことで、どんなことが起こるかわからないと言う。
しかし、普通に考えてある一つの概念が奪われただけでそんなにも奇異な行動を人はするものなのだろうか。
概念などの難しいテーマを扱っているわりには、その辺の説明はなくどうにもやりきれない。
さらに説明不足だと感じたのは、三人?三匹?で侵略の前段階をしていると言うことだが、彼らが概念を奪ったにしてはことが大きくなりすぎな気がしてしまう。中盤病院に駆け込む場面で、いかにも終末的な病院パニックが起きているが、三人が概念を奪った人たちがそんなに多いとは考えられない、少なくとも視覚的にはそんなシーンはなかった。
そこがさらにモヤモヤを加速させてしまいます。
何よりも納得がいかないのは、あんだけ概念概念言っといて、いざ始まる侵略は、安いチープな特撮でミサイルみたいなのが飛んでくるだけって、、、。
そう言ったエイリアンの侵略モノなら、ハリウッドレベルまでとは言わないまでも、もう少し映像作りを頑張って欲しかった。抽象的な侵略で人類を滅ぼそうとするだけではダメだったのだろうか。
そっちの方がよっぽどそれまでの話しと会っていたような気がします。
総じて、セリフには一定の面白さがありますが、映画としてはつまらない作品だと思います。原作が演劇なのできっと演劇なら純粋に楽しめるのでしょう。
そう思って、イキウメの何度目かの再上演「散歩する侵略者」のチケットを探したら全日程売り切れてました。
演劇の方を機会があったらぜひ見て見たい。そう思える作品でした。
変な映画
変な映画。ぶっちゃけ最近観た映画の中で一番好きだったんだけど、これって一般受けはしないのかな…?設定の突拍子もなさといろいろ巡ってからの結論のチープさ(あるいは普遍さ)としては絶対に舞台でやった方が面白いと思うのだけれど、キャストが宝箱すぎて最高。前川知大節のエクスタシー。
極上のエンターテイメント
64本目。
この秋一番のおすすめ映画。
昨日見て、今日レビュー書いているのだが、
まだ余韻が残っている。
正に、極上のエンターテイメントを味わった気分だ。
見に行って良かった。
日々是好日。
愛こそすべてとかいいたいわけ?
愛が漠然とありがたがられると、途端に反抗したくなる性分なので、タイトルのような気分になるのです。すみません。
そんなに尊いでしょうか?
というか、愛って何よ。
牧師が語ったように言葉が作り出したお題目なんじゃないの?
もっとぶっ飛んだ考えを期待していたから(それがどんなものかわからないけど)、結局愛かよそれしかないんかい、って思ったのです。
うーん、好みではないオチではあるが、先が読めなくてその点は楽しめました。
縛られていた概念を奪われてスッキリしちゃう人、狂っちゃう(ように見える)人、様々でした。その意図はわかるようなわからんような。満島真之介の戦争云々の演説はから回ってる感じを得ました。
信じられないことだろうが想像してみてくれと叫ぶ桜井にはちょっと惹きつけられました。
天野くん役の男の子が不気味でいい感じでした。
あと松田龍平が宇宙人ってのはなんともフィットしてるなーって思いました。長澤まさみもよかったです。
侵略の手段が火の玉で焼き尽くすことだったのにびっくりしました。私は精神支配して自滅させるんかと思ってたので、火の玉で焼き尽くすんなら事前のリサーチいる?いきなり火の玉でええんちゃうの?と思いました。
愛ですよね
全然関係ないかもしれないけど、あらゆる戦争を終わらせたり止めたりできる唯一の救いが愛だよと監督は言いたかったのかなと思いました。
今こういう時代だからこそ、愛だよと。
そんなメッセージを感じました。
映画でこんなストレートに愛を語るってかっこいい。
黒沢監督好きだわとあらためて思いました。
人間になるということ
黒澤清作品を初めて観たのは『回路』だったと思う。デジタル世界に囚われ、文字通り実態を無くしていく現代の人々を描いた作品だったと記憶している。前作の『クリーピー』もそうだが、ホラーやサスペンスそしてSFと、ジャンルを微妙に変化させながらも、現代社会を鋭く描く作風は変わらないと感じた。
今作で言えば、さまざまな「概念」に囚われ無意識に苦しむ現代人と、その「概念」を奪うことで地球を侵略する宇宙人との交流を描くことで、いかに生きるかを問う内容と感じた。
「概念」を奪うことで一見すると人間らしくなっていく宇宙人と、「概念」を奪われることで自由になっていく人間。しかし、終盤には「概念」を奪われた人間が回復していく旨が伝えられる。
やはり肝は、「概念」を獲得して人間らしくなっていたはずの若い二人の宇宙人ともう一人の宇宙人の違いだろう。その違いはガイドに選んだ人間の違いでもある。彼ら宇宙人は「概念」を奪い人間らしくなっていく。そこに宇宙人と人間の違いはほとんどないのだ。違うとしたら、そこに愛があるのかどうか。「概念」は人から貰うことはできる。それこそ学校や社会、インターネットで私たちは獲得していく。しかし、「愛」のかたちは様々であり、それこそ自分の中や他人との間で学び、育てていくものだ。それができなかった二人の宇宙人は「概念」を奪って人間らしくなったようでも、殺し合いを躊躇しない。ただ、それは宇宙人だけだろうか?
教会のくだりもおもしろい。「愛」を理解せずに「愛」を歌わされる子供達。教典を読み、「概念」を並び立てて「愛」を説く神父。とても空虚で、奪うべき「愛」はなかったのだろう。
地球の危機だというのに政府機関?の役回りはとてもチープだ。我々が抱える危機は一人一人がどう生きていくかにかかっている。そこに大がかりな機関が介在しても無意味だろう。その点、ラストで「愛」を奪われたヒロインにはハッピーエンドが待っていると予感させられた。彼女にはともに「愛」を育てる人がいるからだ。
実は宇宙人と人間の純愛映画?!
一見タイトルや映画の番宣を観ても日本映画のSF?の様な感じの印象が強く一体どんな映画かと恐る恐る観に行ったと言うのが本音です。
のっけから人間の姿形をした宇宙人の残虐な一家殺人から始まり、かなりPG15やR18色が強く感じられるシーンから始まりますが、、、長澤まさみが演じる鳴海の夫の真治(松田龍平)との絶望的な夫婦関係を、真司の体を支配する宇宙人が少しずつ、その夫婦関係を修復するという結果になっていきます。宇宙人は三人いますが、真治の体を支配した宇宙人は、その中でももっとも温厚な宇宙人なのですが、少しずつ鳴海の、自分自身である夫真治への愛を感じ始めます。真治(宇宙人)は自分が真治になってしまったのか、それとも真治の体を支配しているのか、よくわからなくなってしまうのです。
鳴海も自分が宇宙人であるという夫の真治を半信半疑認める一方、やはり宇宙人ではなく真治が本当に改心してくれたのだと思っているのです、むしろ、改心したと信じたいのだと観ていて思いました。
最後のシーンは、、ぜひ観てください。私はやっぱり『愛の概念』について、そうなったかと思いましたが、、最後の最後のシーンは、宇宙人の真治なのだと思います。
宇宙人も普通にごはん食べるんだ
宇宙人の地球侵略を描くホラーSF映画かと思いきや「愛」を描いた映画でした。人間愛というより、もっと大きな愛。
平凡過ぎる日常が一気に破壊される、その危険が知らない間に忍び寄っている感覚は今の日本のようで怖かったです。なんとなくあるかもという思いが一気にきてしまう感覚が怖かった。
人間中心の独善的な考えが戦いをもたらすとも。どこかの国の独裁者、大統領、首相の顔が浮かびました。この映画、とってもタイミングよく作られたようです。意外な拾い物と言っては失礼ですがオススメです。
面白かった。確かに面白かったけど…これはやはり舞台劇だ。
いや面白かったですよ。いい意味でも悪い意味でも面白かった作品。しかしこれは、残念ながら映画としての面白さではなかった。
元々この作品は舞台原作と聞いているが、その延長線で劇団芝居を映画の体でみせられてる感がハンパないのだ。ほら、劇団新☆感線を映画で観ようみたいな感じ。
純粋に映画作品という視点で見れば、何より黒沢監督の詰めの甘さが目立つ単館「インディーズ映画」という趣か。間違ってもロードショウ作品ではないのは確か。
とにかくガンアクションや兵器の描写が雑、すべてに「映画的なリアリティ」がない。映画にガチガチなリアリティは必要ないが本当に見える(思える)ウソは必要なのである。それがないととたんにチープで稚拙になってしまう。
まずマシンガンで撃たれて動き回るのはまぁ「エイリアン憑依してるからね」補正でいいけど、銃創がまったく違う。今時マンガでもあんな銃創は描かないよ。
唐突に登場するブレデターの放つミサイルはターゲットをまぁ外す外す。あれは衛星と連携した必中兵器なので、まずターゲットはずさない。仮に直撃はなくても普通は爆風で簡単にバラバラになるか衝撃で死ぬ。爆風で衣服は吹き飛び裸状態になる。しかもこのブレデター、エイリアンばかりを狙い、横で怪しげな怪電波を出してる中継車は放置かい!衛星監視してたんだろ!と小一時間(笑)
何よりこの唐突な日本の監視衛星設定がもうね、あまりにご都合過ぎ(笑) アメリカ映画の見過ぎだろう。走り回る車をそう都合よく衛星は見つけられない。監督は「衛星軌道」という言葉を知らないらしい…。
とにかくこの辺、監督の不勉強さに呆れる。あまりに詰めが甘いというか、脳内ご都合主義すぎる設定と演出だ。
それからCGがクッソしょぼい。泣きたくなるほどしょぼくて、終末に襲ってくる火の玉の到来などはもう一昔前の東映の特撮モノか!と突っ込みたくなるほどの表現でズッコケた。失笑モノである。
それから…これは特に言いたいのだが、撮影監督がひどい。なんか眺めてるような撮り方に終始してるし、ハンディはぶれぶれだし。人物をうまく押さえきれてないから心理描写もいまひとつ弱い。なんでこんなの使ってるのか?
それでもまぁそこそこ面白かったのは、実は前出の通り「舞台劇を引きずっていたから」というなんとも皮肉なものだった。そこで唯一この映画をSFファンタジーとして担保できたのじゃないかと思う。うん、ぜひ芝居の方も観てみたいものだ。
───以下、その他雑感
長澤まさみ怖かった(笑) 彼女は怒ると三白眼になるのね。あとどうにも声が嫌いなんだよなぁ…キツい嫁な役にはぴったりか。旦那が浮気するのもまぁ…
この映画で光っていたのは、長澤まさみでも松田龍平でもなく、意外にもエイリアンを演じる高杉 真宙だった。その個性的な顔立ちと飄々とした演技で存在感があった。ダメなジャーナリスト役の長谷川博巳との掛け合いもなかなか面白かった。これからに期待。
映画『散歩する侵略者』評
☆映画『散歩する侵略者』(2017年松竹・日活その他/黒沢清監督作品)評
-闘争に明け暮れる現代の地球人の反動として侵略者が知る愛と友情で結ばれる事の優位を黒沢清監督は冷徹な眼差しである夫婦をパラダイムとして極めて聡明に描いて観せる。或いは映画のテクスト化を目論むに当たり物語の内省を矩形のフィルムという表層に塗り込める際に映画的引用を施す事で成就するフィクション化された現実を物語る映画が僥倖に恵まれた容貌を観る者全てに感受させるのだ。黒沢清監督にとって映画とはフィクションを料理する際に生成される光と影の戯れが犇めく空間が叙事的リアリズム作りに貢献する事で催す感動そのものの霰も無い姿であろう-
これは映画が映画であることの優位を示唆する為に愛の概念を構築する事で成立する越境性に満ちた夫婦愛の確認をパラダイムとして加瀬夫婦に従事させる作業を実に聡明に描いた黒沢清監督の1950年代の映画の経済学を遺憾無く発揮させた近未来映画の傑作である。それはこの年代の近未来映画の殆どがB級予算で成り立っていた事実を世界映画史を敷衍させる事で証明させた彼自身の映画の記憶装置の披瀝であるだろう。
ここには卓抜なフォルマニストとしての黒沢監督の相貌が実に端的な表象体系で刻印されている。それはジャーナリストである桜井氏が宇宙人の男性・天野氏と女性・立花氏により地球ガイド役に抜擢される辺りから遍在する過剰性溢れる記号体系として扇風機や車のハンドルそして常に外さぬサングラスや自らが運転するバンのルーフに設置されたパラボラ・アンテナに代表される円形への固執である。
それはガイドとして責任を負った自負と共に宇宙人は勿論地球人の暗殺組織からも守られる守護神的な代替作用を及ぼす記号として君臨しているのだ。コミュニケーション能力の育成が博識な知性と正義の人としての他者性を纏ったこの人物にヒューマニズムの痕跡が窺えるのだ。
ここに越境の美学を感得するのも人類の英知を司る人間愛の根源を認識するからに他ならない。そこには例えばスティーヴン・スピルバーグ監督が『E・T』で示す人差し指でコミュニケートする宇宙人を不覚にも天野氏に演じさせるのと同じ引用作法で同監督の秀作『未知との遭遇』に於けるフランソワ・トリュフォー演ずる科学者の優しい視線が桜井氏のサングラスの奥底で見つめる双眸にも酷似している気がするのだ。
同様に地球人の女性ガイドに抜擢された加瀬氏の妻・鳴海氏もこの桜井氏の女性版をなぞる如く宇宙人を自称する夫・真治氏を寛容性に富んだ献身的な姿でバックアップするのもポスト・モダンな生活が育んだグローバルに満ちた性格によるものかも知れない。そこには他者性は勿論妻の座が行使するジェンダーの優位性を説く事で夫婦の紐帯をその視線の交錯により醸すのだ。この包容力溢れる女性性が振る舞われる事で真治氏はラスト近く不覚にも彼女から愛の概念を盗み取る仕儀に至るのだ。
そんな彼女がラストでは宇宙人の夫との倒錯的関係に陥り茫然自失した姿で夫に介護される時この逆転の構図は観る者に夫婦の視線の戯れを殆ど沈黙で描く事でこの越境的な説話的磁場を病院というトポスに配置する黒沢監督の慧眼が発揮される。この磁場にはまさしく愛の概念が執拗に纏い付いておりそのラストシーンが冷徹且つ簡潔であればある程黒沢監督作品に通底するナラトロジーが実に心地良く確認できるのだ。それは感動を催すに足る極めて豊穣な最期と謂えよう。
そこに至るまでの軌跡がこの荒唐無稽とも謂える物語を虚構とは一線を画するリアリズムで彩るのもそれが黒沢作品の真骨頂でもある説話的磁場に概念をも透かす独自の倫理観に基づく普遍性を露呈させるからに他ならない。
単純化と聡明さへの希求が映画にテクスト化された現実性を操作する為に偉大なる先達の映画の引用行為に及ぶのも彼の映画文体の特徴とも謂えよう。例えば殆ど豪快とも思える立花氏のマシンガンの炸裂には黒沢監督も魅せられたに違いないリチャード・フライシャー監督の犯罪映画やロジャー・コーマン監督作品『血まみれギャングママ』の記憶が息づいていよう。
そして加瀬夫妻の愛情の高まりを示す愛の概念の伝授にはジャン・リュック・ゴダールの『勝手にしやがれ』のベッド・シーンや或いは同監督の『アルファビル』のモチーフが綿々と引き継がれている。
これらを全て包含するこの映画の黒沢清監督は映画のテクスト化を目論むに当たり物語の内省を矩形のフィルムという表層に塗り込める際に映画的引用を施す事で成就するフィクション化された現実を物語る。そこに他者性に富む視点をカメラに仕込む事で独自のリアリズムを構築させるのだ。
その時映画は僥倖に恵まれた容貌を観る者全てに感受させるだろう。彼にとって映画とはフィクションを料理する際に生成される光と影の戯れが犇めく空間が叙事的リアリズム作りに貢献する事で催す感動そのものの霰も無い姿であろう。
(了)
自動機械と
概念言語を獲得してから1万年。言葉の自動機械化となった現代人の多くは損得だけで内発性なんてないわけだ。そこに侵略者が催眠療法的に変性意識をコントロールされ概念を奪われる。奪われるということは、ゼロになることで、その概念を獲得する以前に戻るということだ。離陸前とおんなじ着地点に戻る。言語を獲得したが故に空洞化した表層の記号にとらわれる。「家族」「自分」「所有」「仕事」。最期に「愛」がなくなる。なくした者が言語を獲得するする前の子供に戻り「何も知らないが故の自由」に振る舞う姿。そこで問われるのは、概念言語をインストールする前の「なにも知らない状態」を幸せだと感じるのか。あるいは言語をインストールして、言葉の自動機械=損得勘定でしか動けなかったが、それに自覚して自己受容して、メタ認知的に自分を修正して、自発性から内発性に動く、それを幸せに感じることができるのかどうか。もうひとつの見所は最後の「愛」の概念の消失について。
キリスト的な言葉で定義した愛ではなく、内側からわき上がる愛だから当初の長澤まさみの考えた愛のイメージは「内発的な愛」であり、消えることはなかった。しかし、時が経つとなくしてしまった。侵略者が獲得した愛は継続的であった。
時間が経つと内発的な愛はなくなってしまう。常に愛のための訓練作法が必要であるということだろうか。非常に気付きが多い映画。ノアハラリさんのサピエンス、フロイトラカン的な言語解釈とその作用副作用の知識がなければ他のレビューになってしまう。社会学者宮台さんはどう観るのか。
ストーリーテラーのタモさんは?
映画版『世にも奇妙な物語』でしたね。
あのテーマソングが流れてきてもおかしくない!!
特撮雑!笑っちゃう!
設定、内容はおもしろいですけどね。
最後にあのテーマソングが流れれば逆にオモシロイ!!
B級映画でしたね。
これが黒澤清、、かな
監督の作品は今作とクリーピーの2作品しか観てません。そこでこの2作品から感じた共通点を少し挙げてみます。
先ずは作品として完成してない、いや、させてないのか。と想わせる結末。次に照明の演出意図があまり伝わってこないところ。そして俳優達の演技が際立って面白いのに、それが収斂していかずクライマックスが盛り上がらない。ここら辺が個人的に今ひとつ惹きつけられない所以です。
長澤まさみのパジャマ、変なジャーナリスト長谷川博己、やっぱりヘナチョコ笹野高史、チョイ役女優前田敦子、キモさ全開満島真之介など必見のパフォーマンスが盛りだくさんで楽しかったんですけどね。。
心理学的実験としては面白い
長澤まさみは単細胞でエロいだけのキャラクターを卒業しつつある。本作品でも強気なだけではない脆さや弱さを抱えた複雑な女心をうまく表現できていた。
日常的なヒロインとは対照的に、ストーリーは奇想天外に進んでいく。本来の姿を見せず人に乗り移って侵略を進める宇宙人のやり方が面白い。
人間の意識は身体を媒介とした五感の記憶で成り立っている。記憶の塊を分類し体系化することで世界を認識していく。同じものと違うものを区別出来るようになるのだ。三毛猫とチンチラペルシアでは見た目がかなり異なるが、両者を同じ猫として認識できるのは分類と体系化の能力によるところが大きい。いわゆる概念である。
概念は人によって異なるものである。人間とは何かについて10人に尋ねたら、10通りの答えが返って来るだろう。様々な概念についての個人個人の捉え方の違いが、即ち世界観の違いとなる。人間とは何か、決定的な答えが得られることは決してない。
人間は概念をひとつひとつ自分のものにすることで成長していく。ひとりの人間の中での概念は互いに連繋してひとつの思想を形作ってゆくのだ。だからパンドラの匣みたいにひとつの概念だけが思想や世界観を救うことはない。
終わり方に迷った挙げ句、底の浅い予定調和みたいなラストになってしまったが、映画のアイデアとしては秀逸だし、心理学的な思考実験として捉えれば、なかなかの傑作である。兎にも角にも長澤まさみがとてもよかった。
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