劇場公開日 2017年9月9日

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「映画『散歩する侵略者』評」散歩する侵略者 シネフィル淀川さんの映画レビュー(感想・評価)

4.0映画『散歩する侵略者』評

2017年9月23日
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☆映画『散歩する侵略者』(2017年松竹・日活その他/黒沢清監督作品)評

-闘争に明け暮れる現代の地球人の反動として侵略者が知る愛と友情で結ばれる事の優位を黒沢清監督は冷徹な眼差しである夫婦をパラダイムとして極めて聡明に描いて観せる。或いは映画のテクスト化を目論むに当たり物語の内省を矩形のフィルムという表層に塗り込める際に映画的引用を施す事で成就するフィクション化された現実を物語る映画が僥倖に恵まれた容貌を観る者全てに感受させるのだ。黒沢清監督にとって映画とはフィクションを料理する際に生成される光と影の戯れが犇めく空間が叙事的リアリズム作りに貢献する事で催す感動そのものの霰も無い姿であろう-

 これは映画が映画であることの優位を示唆する為に愛の概念を構築する事で成立する越境性に満ちた夫婦愛の確認をパラダイムとして加瀬夫婦に従事させる作業を実に聡明に描いた黒沢清監督の1950年代の映画の経済学を遺憾無く発揮させた近未来映画の傑作である。それはこの年代の近未来映画の殆どがB級予算で成り立っていた事実を世界映画史を敷衍させる事で証明させた彼自身の映画の記憶装置の披瀝であるだろう。
 ここには卓抜なフォルマニストとしての黒沢監督の相貌が実に端的な表象体系で刻印されている。それはジャーナリストである桜井氏が宇宙人の男性・天野氏と女性・立花氏により地球ガイド役に抜擢される辺りから遍在する過剰性溢れる記号体系として扇風機や車のハンドルそして常に外さぬサングラスや自らが運転するバンのルーフに設置されたパラボラ・アンテナに代表される円形への固執である。
 それはガイドとして責任を負った自負と共に宇宙人は勿論地球人の暗殺組織からも守られる守護神的な代替作用を及ぼす記号として君臨しているのだ。コミュニケーション能力の育成が博識な知性と正義の人としての他者性を纏ったこの人物にヒューマニズムの痕跡が窺えるのだ。
 ここに越境の美学を感得するのも人類の英知を司る人間愛の根源を認識するからに他ならない。そこには例えばスティーヴン・スピルバーグ監督が『E・T』で示す人差し指でコミュニケートする宇宙人を不覚にも天野氏に演じさせるのと同じ引用作法で同監督の秀作『未知との遭遇』に於けるフランソワ・トリュフォー演ずる科学者の優しい視線が桜井氏のサングラスの奥底で見つめる双眸にも酷似している気がするのだ。
 同様に地球人の女性ガイドに抜擢された加瀬氏の妻・鳴海氏もこの桜井氏の女性版をなぞる如く宇宙人を自称する夫・真治氏を寛容性に富んだ献身的な姿でバックアップするのもポスト・モダンな生活が育んだグローバルに満ちた性格によるものかも知れない。そこには他者性は勿論妻の座が行使するジェンダーの優位性を説く事で夫婦の紐帯をその視線の交錯により醸すのだ。この包容力溢れる女性性が振る舞われる事で真治氏はラスト近く不覚にも彼女から愛の概念を盗み取る仕儀に至るのだ。
 そんな彼女がラストでは宇宙人の夫との倒錯的関係に陥り茫然自失した姿で夫に介護される時この逆転の構図は観る者に夫婦の視線の戯れを殆ど沈黙で描く事でこの越境的な説話的磁場を病院というトポスに配置する黒沢監督の慧眼が発揮される。この磁場にはまさしく愛の概念が執拗に纏い付いておりそのラストシーンが冷徹且つ簡潔であればある程黒沢監督作品に通底するナラトロジーが実に心地良く確認できるのだ。それは感動を催すに足る極めて豊穣な最期と謂えよう。
 そこに至るまでの軌跡がこの荒唐無稽とも謂える物語を虚構とは一線を画するリアリズムで彩るのもそれが黒沢作品の真骨頂でもある説話的磁場に概念をも透かす独自の倫理観に基づく普遍性を露呈させるからに他ならない。
 単純化と聡明さへの希求が映画にテクスト化された現実性を操作する為に偉大なる先達の映画の引用行為に及ぶのも彼の映画文体の特徴とも謂えよう。例えば殆ど豪快とも思える立花氏のマシンガンの炸裂には黒沢監督も魅せられたに違いないリチャード・フライシャー監督の犯罪映画やロジャー・コーマン監督作品『血まみれギャングママ』の記憶が息づいていよう。
 そして加瀬夫妻の愛情の高まりを示す愛の概念の伝授にはジャン・リュック・ゴダールの『勝手にしやがれ』のベッド・シーンや或いは同監督の『アルファビル』のモチーフが綿々と引き継がれている。
 これらを全て包含するこの映画の黒沢清監督は映画のテクスト化を目論むに当たり物語の内省を矩形のフィルムという表層に塗り込める際に映画的引用を施す事で成就するフィクション化された現実を物語る。そこに他者性に富む視点をカメラに仕込む事で独自のリアリズムを構築させるのだ。
 その時映画は僥倖に恵まれた容貌を観る者全てに感受させるだろう。彼にとって映画とはフィクションを料理する際に生成される光と影の戯れが犇めく空間が叙事的リアリズム作りに貢献する事で催す感動そのものの霰も無い姿であろう。
(了)

シネフィル淀川