母と暮せばのレビュー・感想・評価
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浩二の婚約者、町子(黒木華)は浩二のことを想い続けていた。 町子は「結婚する気はない」と伸子に告げるのだった。 苦悩の末に町子が出した選択とは?
動画配信で映画「母と暮せば」を見た。
2015年製作/130分/G/日本
配給:松竹
劇場公開日:2015年12月12日
吉永小百合
二宮和也
黒木華
浅野忠信
加藤健一
本田望結
広岡由里子
小林稔侍
辻萬長
橋爪功
山田洋次監督
長崎で助産婦をしている伸子(吉永小百合)。
戦地で長男を亡くし、長崎の原爆で次男、浩二(二宮和也)も亡くした。
浩二は死後3年経って、伸子に会いに来るようになった。
浩二は頻繁に現れて、伸子と長く会話した。
戦後の庶民の生活の苦難も描かれている。
庶民は闇物資などに頼った生活を続けていた。
浩二の婚約者、町子(黒木華)は浩二のことを想い続けていた。
町子は「結婚する気はない」と伸子に告げるのだった。
苦悩の末に町子が出した選択とは?
満足度は5点満点で4点☆☆☆☆です。
いつまでも続いてほしかった
戦争の悲しさ、親の有り難さ、ささやかな幸せの尊さ、いろいろなものが詰まった作品だった。
望んだことが現実になる悲しさは何とも言葉で表現できないが、この映画でよく伝わると思います。
戦力ばかり増やそうとしている今の日本。ぜひ今見てほしい映画です。
死者とはいっしょに暮らせない
古事記においても語られているように死者と生者は一緒にいられない。愛する妻に会いに黄泉の国へ行ったイザナギも、変わり果てたイザナミの姿を見て逃げ帰る。
これは直接的な話として描かれているけれど、たぶん、死者、いや、追憶の中にどっぷり浸って生きようとすると、生命力を失い、弱っていくということなんだと思った。
我々は追憶の中から何かを学んだり掴み取ったり、ときには癒されたりすることがあってもいいが、追憶とズブズブだと、未来をなくす。そういうメッセージを感じた。
たとえ死んだ人とまた出会えたとしても、それを生活にしてはいけない。
前を向いて生者の世界を生きていかなきゃいけないんだ。
親子が成仏するまで
丁寧に昭和の理想の女性像を映像化しているからこそ、
元々クリスチャンが多い地域の長崎で、
元々お人好しな部類の方であっても、
「何であの子だけ?代わってくれたら良かったのに」
と最後に母伸子が口にするのが効いてくる。
亡くした家族が大切だから、
誰しも、他の家庭で家族と同世代の子が生きていたら、
いいなと思う感情を抱いて普通だと思う。
夫を結核で亡くし、長男を戦争で亡くし、
次男までも原爆で亡くし、
失意をどうにか次男の恋人の町子に支えられて3年過ごして、町子を娘のように想う伸子ですら、思うのだ。
吉永小百合も黒木華も、
監督や男性の考える理想的な女性で、
原爆の実際の中では、画にできている部類の生活なので
作品で扱う登場人物それぞれの感情はまだ美しさ優しさを残せている方。
それでも充分もう散々に悲しい。
明らかに憎むべきは戦争そのものなのだが、
負けたアメリカから流れる闇物資で
少し生活に贅沢が出るのもまた事実。
理想的な女性達に、「現実」のスパイスを加える上海のおじさん。
出兵した男性達もまた、元々は女性から産まれて、
お母さん大好きな男の子達だったわけで。
戦時中辛い時寂しい時、母の優しさを思い出した者は沢山あっただろう。
幽霊という設定がゆえ、それを声に出して伝えてくる。
マザコンと叩く評判はわかるが、実際男性ってマザコンな生き物だよなぁと。
もし生きていたら、20代男性はあんなにペラペラと恋心や胸のうちを母親には話さないし、とっくに浩二は町子と新しい家庭の大黒柱。
霊だからこそ童心に還り、全てを言葉に出している。
母には、たとえ息子がいくつでも、大切な子供。
戦争なんかに奪われて、悔しさ悲しさ寂しさこの上ない。この作品を見て、亡くした家族と重ねて、浩二が発する台詞に救われる遺族はきっといると思う。
息子の霊が、3年間母が諦めないから出てこられなかったと言っている通り、母が息子の生存を信じているうちは霊にもなれずにいたということか。
そして母が、現実として息子は亡くなっていると理解できる頃を見計らって出て来ている。
夫や長男と違って、遺体や遺品さえも全くないから、希望を消して亡くなったと認識し生活を進めるのは非常に難しい。
作中、伸子に現実を突きつけるのは、息子の霊にしか出来ない役割なのだろう。
終戦して3年経っても、国民の生活も苦しく、癒えぬ傷を沢山抱えている中での話。
決して良いななどとは言えないが、
身寄りがなくなるまで家族を亡くした母親が少しずつ、息子の霊と共に生きている世界から離れていき、息子のお迎えがある状態で息を引き取り、長く経つことなく発見されて、悲しみ悼まれながらミサまでして貰える最期は、あくまで最期の形だけで見ればかなり恵まれていると思ってしまった。
ミサで、伸子だけでなく遺品もなかった浩二も一緒に天国に送って貰えているという表現があのCGなのかなと。もう霊になることもなく、成仏するのだろう。
伸子はそれまでどれだけ、品位を落とさず、ひとり抱えて苦しんできたか。
町子すら結婚を決めた時、この世に生きる意味も幸せも未練も全てなくなって整理がついたのだろう。
ただし、町子の結婚は町子のご家庭と町子が決めることで。今頃孫が産まれているかもとか想像してしまうのも、浩二が町子を大好きだからすっぱり送り出せないのもよくわかるのだが、あれだけ関わりがありながら町子のご家庭は会話にすらも全く出てこないのがとても謎。
そして、子供をたくさん産んで、って当時の価値観での言葉が何度も出てくるが、現代だと叩かれちゃうかも。
浩二への想いは嬉しく有難くも、断腸の思いで町子には浩二を諦めて幸せになって欲しいと結婚を勧めたが、結婚相手となった黒ちゃんは戦争で足を失くされた方。
恋仲だった女性が、別の者と結婚し幸せになって欲しいと想いを切り替える時、大好きな町子の結婚相手にどこかしら不自由がない方が珍しいほどだったことを、浩二は想像していただろうか。
町子はどの選択をしようとも、お世話をする人生。
それでも、生き残った者が背負う罪悪感や苦悩を、ひとりで感じ続けるよりずっと良い。
話し相手がそばに居続けるだけで良い。
それも難しくなった伸子には、寂しさからか本当なのか、次男の霊との会話をする日常が始まっていき、次第に現実との境目がつかなくなっていったのでは。
それは寂しすぎて、認知症のような状態が進んだのか、一種の逃避だったのか、わからない。
それでも掃除まで欠かさず、助産師の仕事まであって、稼ぎ手がいなくて分家の未亡人でありながら、髪や身だしなみも、言葉も優しさも乱れない伸子は、戦後の、戦死した男性、生き抜いた男性達全ての、理想像。
伸子のお隣に住むおうちこそ実際。
身なりも何もはっきり違いをつけて、画でそれは示してある。
見た目だけでも美しい中で語られる、
状況ではなく気持ち。
まだ学生設定、息子設定だから二宮和也はまぁよく喋るが大人になりきっていない男性の演技がとても上手。
霊になったことで子供に戻ったかのようにお母さん大好きが溢れ出る。笑う演技のみぎこちないが、メンデルスゾーンに大粒の涙を流し、台詞はないが生きていたら良かったのにとやるせない悔しさ悲しみがひしひし伝わる演技がとても良かった。
医大学生が高校の頃には中学生の町子と出会っている。
どんな馴れ初め?
出演者は恥しくないのか?
『人間のすることじゃなか!』
さて、気持は分かるが、寧ろ、それが人間のするあやまちだと思う。実際の台詞は『鬼のアメリカ軍め!』となる。つまり、それが言えないから、誤魔化した台詞。三島由紀夫先生が自決した理由がそこにあると私は考える。
しかも、東京大空襲の指揮を取ったカーチス・ルメイの存在になぜ触れないのか理解出来ない。
学校で『背比べ』を歌っているが『柱の傷は一昨年の、、、』と続く。『プルトニウム爆弾』が投下されたのが、三年前。柱も吹き飛ばされた長崎でそんな歌歌ったのか?
メンデルスゾーンはドイツの作曲家だが、メンデルスゾーンはユダヤ系の作曲家。ナチス・ドイツがどう言った扱いをしたかきちんとリサーチすべきだ。
演出家や脚本家が誰か知らずに見た。分かっていたら見なかった。
ファンタジーと言えど、作品づくりに人称を意識しないとそれは反則になる。
死んだ人間に対して、操を立てる神経が分からない。結局は主人公もやがて死ぬんだろうから、地縛霊のお話。
アメリカ交響曲は1945年の映画。ゆえに主人公が知る由もない。
結論、『皆さんPLAN75に入ろう!』って事か。
皆に優しい母が最後口に出してしまった言葉が本音だろうな…
ネタバレ
泣いた。
原爆で亡くなった息子と、1人で生きている母の話。
泣いた…。
母は原爆症で亡くなったのか、心臓?悪化して亡くなったのか…。
亡くなった人を思い続けまちこを縛り続けるのは良くない。
最後母のセリフ、まちこが代わりに亡くなればよかったって子を持つ親ならみんな思ってしまうんだろうな。
最後までまちこをみんなを大切にしていた母が見せてあの姿がね…。
つら…。
ピカっと光ってインクの瓶が一瞬で溶け、そこから爆風がきて。
戦争はよくない。
23.8.12 テラサ
感動。息子がお迎えに来た説を強く推す
まずは批判も多いラストですが、あれは原爆で亡くなった方々への鎮魂と、祈りだと強く感じた。レクイエムを歌う老若男女、お母さんと手を繋いだ子供、一瞬で失われた沢山の、普通の方々の魂だと思えて涙が溢れた。戦争と原爆というものを書くからには、祈りと鎮魂が込められなくてはいけないと、思うので、ラストの特撮の出来の問題は置いておいて、あれで良かったと思う。あのラストは戦争と原爆で亡くならなくてはならなかった方々へ送られたものであり、「オチ」では無いのだ。天国へ行って欲しいと祈る祈りと共に私は泣きながら見た。
二宮さんは独特の哀愁がある役者だ。黙って見つめただけで悲しみを表す。泣く演技をしなくとも悲しいのだと感じさせる。セリフで説明するわけではない悲しみを内在した存在を演じさせたらピカイチだと私は思っている。
本当はどうなのかはわからないが、母は息子を探して、投下翌日から長い間被爆地を彷徨った時に被爆したのではないかと推察した。
母は無意識に自分の死期が近いことを感じ取っていたのではないだろうか。だからマチコにしつこいくらいに息子を忘れて幸せになって欲しいと言い出し、おじさんに世話になる関係も清算しようとしたのではなかろうかと感じた。息子が未練で亡霊となって近づいてきたのではなく、母があの世に近づいていたから息子が見えるようになったのではないだろうか。ラストで息子がおやすみという時の、悲しいような怖いような表情。息子は母の死が近いことを知っていた。母を心配しながら、たくさんの話の中で息子は、母にこれからの幸せのことや、長生きしてねというような未来の話を一度も言わないのである。
リアルで、老健施設に勤めている家族から聞いた話。気難しい利用者が、「〇〇丁目の角まで、亡くなった息子と旦那が迎えに来ているので、タンスの中のものを風呂敷に全部詰めて欲しい」と訴えるようになったそうだ。その数週間後にその方は亡くなった。私には、風呂敷にぎっしり身の回りのものを詰めて背負ったその方の魂が、旦那さんと息子さんの待つ〇〇丁目の角まで、歩いて行く姿が想像された。全部持って行こうとして、旦那さんと息子に、あの世には持っていけないよと言われたりしなかったであろうかと、想いをはせた。
その話を聞いた後のこの映画である。
なので、息子がお母さんを迎えに来たんだなと、即思えた。お母さんが亡くなる前にマチコが決心できるように誘い、母子共に心の整理もして、何も心配することを残さず行けるような作業を共に行なった。母と暮らした大事な時間だ。
2人芝居の舞台を見ているように進む、淡々と積み重ねる時間は、別れの言葉も言いにこれず、自らの死で母に大きな悲しみを与えてしまった息子の、親孝行の時間であったと思えた。亡くなる前に、息子と想い出を語り合い、ひとときの喜びを感じ、小さなずるさを清算し、立派な母が、悲しさに心の奥も吐露した。マチコへの愛情と複雑な想い。マチコの罪悪感と、そうして確かにある愛情。その時間の切なさ。それを退屈だと感じる人には、死はまだまだ遠いのだろう。
なぜあなたが生きてて自分の子供が死んだのか。と言われた人を実際に知っている。なぜうちの子だけが。と考えてしまうほどに子供を失うということは悲しい。世の中で、それ以上に悲しいことはないのではないかと思えるほどに悲しい。そう言った実際の悲しみを知っているかどうかで、この映画への感じ方は変わり、評価も変わるのかも知れない。
この映画には戦争という大きな悲しみを産み出したものと同時に、「悲しみを抱いた普通の人」の人生。〇〇人と、数字で語られる被害者一人一人の生きた時間に対する想いがあり、祈りがある。ずっと心に残るであろう良い映画であった。
また、現実時間軸では息子が出てくる時の唐突さ。家の暗闇にスッと消えて行く様は実にリアル。お化けってこういうふうに出るよね〜と面白く見た。
比してあの世の家ではライトアップされる舞台的非現実感で差別化されているのも(そっちの演出はあまり好みでは無いが)面白い。
長い朗読を聞かされているようだ
過去にあった事などを会話であんな事あったよねーと説明されても、レストランで隣の席の人の話が聞こえちゃったくらいの興味しか湧かない。
ただのマザコン君のお話にしか感じられなかった。
良い映画を観れた幸せを感じました
自然と感動の涙が溢れ出ました
降り積もるようにいろいろな想いが積み重なって、いつの間にか胸が一杯になっていました
元々舞台の為の原作なのだから舞台劇ぽいのは当たり前のこと
それをここまで映画にしたのはやはり山田洋次監督の力でしょう
山田洋次監督作品だから、人情もの、笑い声のあがるユーモアを期待する向きもあるのでしょうがそのような作品では有りません
劇中、劇伴の音楽が要所ごとに鳴っているのですが、それと気付かない程に自然なものです
それ故に浩二のかけるレコードなど、劇中で実際に流れているものだけがクッキリと浮かび上がって記憶に刻まれます
劇的に盛り上げることなく、淡々と静かな日常生活を描いていきます
私達はその日常生活の中で一緒に暮らしている印象を受けるほど
それだから冒頭の坂本龍一の格調高いタイトル曲と、それが展開されたラストシーンの葬送曲とエンドロールに流れる賛美歌のようなコーラスが圧倒的な感動を呼び起こすのだと思います
吉永小百合は、少女時代の彼女自身の性質と彼女の役が一致していた頃のように、役と自身が久々に高いところで入り混じり折り重なった演技を見せています
彼女の作品で初めてその演技を素晴らしいと思えました
長崎ぶらぶら節に続いての長崎弁がとても彼女に似合います
もう70歳
なのにそれでも美しさが失われてはいません
十分、二人目がもう医大を卒業しようかという歳になった子を持つ、50代半ばぐらいの母親に見えます
彼女の役は、家族を全て失い、健康状態も悪く、栄養も取れずに孤独に生きている女性なのですから、実際なら彼女以上に老けていてもおかしくないのです
だからちょうど良いぐらいです
二宮和也も、黒木華も素晴らしい演技だったと思います
良い映画を観れた幸せを感じました
イエスの奇跡
たまたま録画られていたこの映画
そしてたまたま今日は何も用事がなかったので見始めたらなんと長崎のこの日からの話だったのですね
あまりの偶然に驚きましたよ
こんな風に亡くなった人と暮らせたならどんなに幸せかわかりませんね
やはりこの時期になると「戦争」がテーマのものが映画やドラマなどで増えてきますね
人は人を愛し慈しみ幸せになってほしいと願うもの
よほどの出来た人でもなければ羨ましがったり妬んだりしてしまいがちですよ
そんな事思っちゃいけない事は誰だって分かる、分かるけど考えてしまう、そしてまた苦しくなってしまう
そんな思いをした方がどれだけ沢山いたのでしょうかね
この作品は深いメッセージとは裏腹にとてもテンポ良く楽しくお話が進むのが良かったです
息子は明るくとてもよく話 母は嬉しそうに二人の時間を楽しむ
冒頭に出てくるシーンの続きを見ているようです
是非時間を作って長崎という土地へ行ってみたいものです。
あのお墓のある場所から長崎の街を眺めてみたい
「父と暮せば」は名作なのに…
初めにお断りしますが、
山田洋次は私の大好きな映画監督の一人です。
「男はつらいよ」シリーズはもとより、
特に「息子」「たそがれ清兵衛」「故郷」
は素晴らしい作品だった。
しかし、この作品の出来は?
共に井上ひさしの原案で登場人物が、
「父と暮せば」の
死者と生者、親と子、男と女、
それぞれのひっくり返しだが、
そこで同じテーマを扱おうとするのは無理が
あるのでは?
「父と暮せば」では
反戦テーマと
戦争に苛まれた娘の再生物語が
上手い絡み合いとなって傑作となっているが
「母と暮らせば」では
人物をひっくり返した結果、
再生物語の部分が主役の親子間では
意味を持たなくなってしまった。
母は一時的な混乱はあるものの
初めから息子の許嫁の結婚を望むことの
出来る等
なにかと完成された人間像だし、
息子は既に亡霊なのだから人間として
今更再生しても、という存在。
結局、早く母を連れてあの世に行くしか
なくなってしまう。
生き残る方が若年であることが
重要な要素ではないのか。
そうでないと子を亡くした親が
単に子を忍ぶお涙頂戴物語に
なってしまう。
黒木和雄監督は原案のその辺りの
無理栗感が解っているから
「母と暮らせば」の方は映画化しなかった
のでは?
しかし、山田洋次は何故?
(井上ひさしの発想では「父と…」と
「母と…」の人物入替案は初めから
セットであったものなのか
(では沖縄編では?)、
又は「父と…」が先にあって、
後でちょっとした発想の元で追加的に
「母と…」が生まれたものなのか、
御存知の方がいらっしゃいましたら
是非教えて下さい)
亡き息子の許嫁が結局は別の男性と結ばれ、
それを納得する親の話は珍しくも無い。
反戦の意図は解るが、
その他の要素はあまりにもまとまりに
欠ける。
映画の出だしは素晴らしいものがあり、
白黒画面の間は期待一杯で観入った。
しかし、カラー画面になっていきなり
ボルテージが下がった。
特に二宮が出てる画面は頂けない。
彼が出ている場面のなんと臨場感の無い、
間の抜けた雰囲気はなんだろう。
まるでプロの中にアマチュアが一人いる
ような感じだ。
私の映画鑑賞の最大の参考手引書は
キネマ旬報のベスト・テンの発表だが、
彼のキネマ旬報の主演男優賞は
青天の霹靂だし、
各映画祭での受賞も信じられない。
専門家は彼の何を評価しているのだろうか?
また浅野忠信の登場は「父と暮せば」への
オマージュを通り越して、
パロディか悪ふざけとしか思えない。
それらに加えて
母が亡くなって、息子と共に自分の葬儀を
見てから一緒に天国へ向かうラストシーン、
何か三流映画でも観せられているようで
悲しい気分になったのは
自分だけだろうか。
私には、山田洋次監督の
終焉を告げるような作品としか、
思えなかった。
もう息子には会えないと、思っていました。
2020年8月2日
映画 #母と暮せば (2015年)鑑賞
#黒木和雄 監督、#原田芳雄、#宮沢りえ 主演の #父と暮せば と対になった作品
#浅野忠信 は両方に出てる
ラストにコーラスを入れるのは #吉永小百合 さんの最近のブームなのかな?
最後の時間を子供と過ごせてよかったという感じなのかな?
原爆。
息子を原爆で一瞬にして失った。亡くなった息子を受け入れられない母、吉永さゆり。息子に二宮和也。
吉永さゆりがひとり寂しさのなかで息子が帰って来たと妄想し息子二宮と話している。
吉永さゆりが楽しそうに話す。息子二宮も母と楽しそうに話している。
ふっと。寂しくなった時に現れる。
もし。愛する人を失くしたとき誰でもあると思います。亡霊をみなくてもどこかで会話、もしくは独り言を言っていることが。
吉永さゆりと黒木華(二宮の恋人)のさりげない会話と自然な演技がよかった。
二宮のちょっと過剰な演技が気になりました。
映画を観てから時間が経っているので記憶がとんでいておぼろげです。
淡々か漫然か
昔を思い出す母と子の愛情物語以上、被爆地の遺族の物語として絡めたい意図なら中途半端。母子の会話以外の情報が少なすぎて、映画に起伏も展開もなく終わってしまった感じ。
投下直後のはっとする映像以外は、苦労したはずの母も婚約者もあえてか触れないので、被爆後の凄惨さとか混乱とか伝わらない。かなり暗くならないと電燈をつけないところは、時代背景を感じさせるリアルさがあったけど。
徹底した平和教育を受けた60歳以上の世代か、長崎・広島に関係ある人じゃないと、単なる亡霊ものにしか見えないかも。
さて、何を感じれば良いのか、戸惑いを覚えるのです
普通に考えると、吉永小百合が妄想していると、それが自然なんですが。
二宮の演技がわざとらしくて、どうかな、そう思って。
ただ、原爆が、ユダヤ虐殺以上に非道だと、ただ、それだけは再確認した、のです。
子役の本田だけ、演技を評価します。
こういうテイストは、数分なら、良いのですが、延々観るものではないですね。
舞台の二人芝居のよう
映画なのに舞台の二人芝居のようでした。
斬新で驚きました!
戦争映画で戦後の日常を取り上げたものは貴重。
数日前、阪神大震災の被災者のその後を取り上げたドキュメンタリーを観て、戦後も震災後も残された人々の生活は似ているなと思いました。
戦争をテーマにしているのに、亡き息子が幽霊となって現れるというリアルとファンタジーの組み合わせの設定に仰天。
原爆の悲惨さを丁寧に扱いながらも、口から産まれたようなおしゃべり息子のおかげで楽しさもたくさんありました。
浩二の婚約者の町子のあっさり具合には涙…ちょっと早くない?
まだ、黒田と町子の二人の関係性が見れたらよかったけど。
でも、町子と浩二の母の関係は素敵でした。
本当に浩二が生きていたら、素敵な夫婦になってただろうに。
賛否が分かれるラスト!私は否の方です…。
なんで、いきなり?オカルトぽくて変過ぎると思いました。
浩二が母を躊躇なく死後の世界に連れて行ってしまうのも戸惑ってしまって。
母としてはその方が幸せかもしれないけど、浩二もそう思ってるようで恐怖に感じました。
最後だけ急ハンドルで方向転換!と感じたので-☆にしました。
【戦後70年の節目に山田洋次監督が世に送り出した静やかだが、強烈な反戦映画】
長男を戦争で亡くし、次男浩二(二宮和也)は長崎のを原爆で行方不明になる。
福原信子(吉永小百合)は次男の生存を頑なに信じ、浩二の恋仲だった町子(黒木華)と静かな交流をしながら、日々過ごしている。
そこに現れた長崎医科大生の姿のままの”浩二”との穏やかな遣り取りと信子を気に掛ける”上海のおじさん”(加藤健一)を始めとする人々の姿。
自分だけ生き残った事に負い目を感じ、自らの幸せを拒む町子の言動・・。
<穏やかな場面を描きつつ、山田洋次監督の強烈な反戦の想いが伝わる良作。>
<2015年12月17日 劇場にて鑑賞>
小説家・劇作家の井上ひさしが、広島を舞台にした自身の戯曲「父と暮せ...
小説家・劇作家の井上ひさしが、広島を舞台にした自身の戯曲「父と暮せば」と対になる作品として実現を願いながらもかなわなかった物語を、山田洋次監督が映画化。
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