友だちのうちはどこ?のレビュー・感想・評価
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テーマが素敵
学校で友達のノートを持って帰ってしまってから次の日の学校が始まるまでという期間だけの映画って言うところが面白い。
主人公の設定は小学生2年生の8歳らしい。
母親含めて大人が全然子供の話を聞いていないことがやるせない。。たまにムカついた。
昔のイランはこんなに子供は蔑ろにされていたのか?
一昔前の日本もこんな感じだったのだろうか。
大人からしたら大したことないことでも、子供からしたら一大事なことってよくある。
自分が親になったらちゃんと子供に寄り添って話を聞いてあげようと思った。
唯一話を聞いて着いてきてくれたおじいちゃん良い人だった。でも結局さっき行った違う人の家に着く訳だけど、主人公がおじいちゃん傷つかないように、ノートを隠して届けたテイでいたの可愛くて素敵だった。
結局は友達の分も宿題をやって一件落着。
テーマも子供も可愛いし、ほのぼのしてるけど割と見応えがあった良い映画。
イラン制作映画は初体験
記録用
1987年公開ということでか画質が悪い。わざとじゃないよね。
10歳の男の子が大人からぞんざいに扱われて、それが当たり前のような生活で腹だたしい。
山道をどこまでも走りまわって、足腰鍛えられるな。
大人は分かってくれない・・
小学生の友情物語、純真無垢な一途さが胸を打つが反面、教師や家族の無知や身勝手さが鼻についてたまらない。友達にノートを届けるという寓話のような単純ストーリー、子供は宝、大人たちはもっと真摯かつ謙虚に子供たちに向き合うべきと言うメーッセージ映画でしょうね。
ノートに書かなかったからと言って宿題をサボった訳では無い、退学まで持ち出して脅すのでは教師失格、先生の言うことは絶対であり口答えさえ許されない、これはもう教育ではなく調教だ。
母親も育児や家事で忙しいのはわかるが息子が必死で話しているのに耳を貸さない。心無い大人たちに胸が痛みます。
イラン映画だから本当の庶民の暮らし方、実態が分からないが子供の人権を軽視しすぎ、もっともタリバンなんて未だに女子の教育すら認めていないのだから何をか言わんやですね。
大人が優しくないんだ。コレが。全く。
イラン人監督アッバス・キアロスタミによる1987年の作品。トラベラーと同じく少年を主役としながら、トラベラーとは打って変わって、コチラは、とっても良い子の物語り。
これも、明確に傑作と言えます。凄く良いですもん。
アハマッドの放課後数時間の出来事を、83分の短尺に収めますが、ポイントとなる「教師の叱責」「母親との折衝」「祖父からの命令」「老人との徘徊」、更には「アハマッド自身による家探し」は、リアルタイムな時間感覚でジックリと描写します。この自然体な場面の造り込みが効果的です。物語りに引き摺り込まれてしまいますもん。
それと。
画が抜群に良いです。絵画的。時に、遠近の対比を一つの画面に捉え。時に、明暗を対比させながら人物を移動させ。目当てのムハマッドを見つけたかと見せ掛けながら、少年の顔を隠し続ける演出も取り混ぜ。
日仏の影響を強く感じる、映画の手法。悪知恵とも言えなくは無い少年の機転に、止めが親切ながら役立たずだった老人がくれた花だと言う。
気の利いた、非英語圏の短編小説の様な映画は、キアロスタミが後にパルムドールを取る事を予感させるに十分な、密度のある小品でした。
邦画界の若手には、爪の垢を煎じて飲め、って言いたくなりますが。偉そうに言うと。
そんくらい。
良かった。とっても。
似てると思ったら兄弟だったのか!赤と緑で区別したよ・・・
小学校の小さな教室。三人掛けの机に2年生のアハマッドとネマツァデが並んで座っていた。ネマツァデは宿題をよく忘れる上に、今回はノートではなく紙切れに宿題を書いてきたので先生にこっぴどく叱られる。「3回目だな!次に忘れてきたり、ノートに書いて来なかったら退学だ!」と脅され、隣にいたアハマッドまでビビッてしまった。そんな恐怖の宿題だったのに、彼はネマツァデのノートまで間違えて持って帰ってしまった。何とかしてノートを彼に届けなければ退学になってしまう!
しかし、のんびりスローライフのイランの片田舎。家の手伝い、畑の仕事、おつかいまでしなければならないけど、宿題が先。焦るアハマッドはとにかく友だちにノートを届けなければと先を急ごうとする。何とか手伝いを避けて家を探そうとするが、遠い地域なだけに全くわからない。地域だけはわかっているので大人たちに尋ねまわるのだが、要領を得ない。おじいさんたちにつかまり、与太話を聞かされたり、間違った情報を聞かされたり、町内はネマツァデ姓だらけだったりと散々な結果に・・・親切なおじいさんは歩くのが遅く、結局は先ほど行った間違いの家だったりするのだ。ここでおじいさんに気を遣ってノートを隠すのが絶妙!
夜遅く、まだ夕飯の時間には間に合いそうだったけど、諦めて自宅に帰ったアハマッド。要は明日学校でノートを渡せばいいのだから、彼の分も宿題してあげなよ!と、ずるいやり方だけど、祈る気持ちでいっぱいになった。だってそれしか方法はないんだもん(笑)。結末はあっさり、祈り通りだったけど、とにかく走れメロスの少年版のような展開は素人が演じてるとは思えないほどの演技力。目だけで訴える少年の純粋さはとても感動的。やっぱり泣きの演技は素人にしかできないリアルさが感じられた。
小津安二郎が好きだというキアロスタミ監督。思い出したのは戦前作品『生まれてはみたけれど』の子役中心の映画でした。
少年の頭をもしゃもしゃっとして抱きしめたくなる!!
少年が友人のノートを届けに行くと言うそれだけの映画
なのですが、そこには色々な日本では理解できないような
様々な家庭の事情や大人の事情が入っていて
考えさせられます
少年は小学2年生。まだまだ自分の気持ちがうまく
伝えられない世代
それでも、友だちがノートがないと大変なことになると
家を飛び出すさまは、観ていて心が洗われる
泥まみれの汚い大人心にはたまらない作品だ
見知らぬおじいさんと友人の所へノートを
届けに行くクライマックスはまさに
心がキュンキュン、子を持つ親はわーっと
叫びたくなりそうです
そのシーンを思い出すとまた涙が・・・
子供の気持ち
小学生のアハマッドが帰宅して気がついたら友達のノートを間違えて持ってきてしまっていた。実は、その友達は今日学校で宿題をノートに書いてこなかったことで先生から厳しく叱責されていた。『今度同じことをやったら退学だぞ」と。彼は遠い隣村まで何とか返しに行こうとするが…。
とにかく子供達の演技が真に迫りすぎています(どうやら演出に仕掛けがあるらしく完全に演技というわけではないらしいですが)。悲しみ、不安、焦り、真剣さが画面からビンビン伝わってきて苦しくなるほどです。
見ていて自分も幼い頃の気持ちを思い出しましたね。大人にとってはどうということもないことかもしれないけれど、何気ない言葉かもしれないけれども、子供にとっては一大事。
出てくる大人たちが、これまた彼の話を聞いてくれないんですよ(苦笑)。それは、電化製品や輸送機械などが殆ど普及していない中で壮年達は日々の生活に精一杯だったり、また「子供は年長者の言うことを黙って聞くのが当たり前」という伝統的な価値観が根強かったりするためで、日本でもひと昔前はこんなだったんでしょうね。
一人だけアハマッドの話を親身に聞いてくれて案内を申し出てくれた老人がいました。でも散々歩き回った挙句たどり着けませんでした。後から考えるとその老人も行き先を本当に知っていたのかいささか怪しい。元々はドア作り職人だったらしいその老人は、歩きながら「あそこのドアは昔ワシが作った」だの「今は鉄製のドアばかり売れるようになってしまった」だの問わず語りに話します。それどころではないアハマッドとの噛み合わないやりとりが笑えるのですが、どうもその老人は話し相手が欲しかったのではないかな?「若い者は皆街に出て行ってしまう。ワシは街は嫌いだ」みたいなことを言っていたし、孤独に暮らしているらしい描写もある。
伝統的な共同体の中で人々が生きる様子と、一方でそれが少しづつ崩れつつある姿。そうした社会背景も伺うことができます。
ともかく主人公と一緒にハラハラドキドキしながらの85分。粋なラストでほっこり。
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