友だちのうちはどこ?のレビュー・感想・評価
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押し花が光った
アバスキアロスタミの初期の作品らしい。一般論だが、イランの映画を見ていると最初の20−30分は何がおきているかわからなく、そのうち何かがわかってくるという映画が多い。キアロスタミの作品もまさにその通りだ。しかし、『ともだちのうちはどこ』はかなり早い時間に作品の内容の検討がつく。
そして、忍耐強く大人に話しかけていくシーンは一般論だが、イラン映画の代表的シーンだ。子供の食いついていく力強さがはっきり出ている。子供だけじゃないんだなあ、先生、お母さん、おじいさんのもこの何度も繰り返す執拗な性格がうかがえる。好きだなあこういうシーン。それに、イラン映画は子供を使った映画が多い。なぜなら、芸術に対する政治的な検閲が厳しいからだそうだ。友達にノートを返そうとしてポシュテにという村まで、返しにいくシーンは善後策を顧みない子供の行動だが、これが友達を助けようとする一心不乱の行動なのを、この映画でなんとも良くとらえている。キアロスタミの画策が良さを出している。
最後のシーンの先生の言葉、『よくできた。』これだけしか云わない。『宿題をノートにかかなかったら退学だ」とか言ってたんなら、生徒の筆跡ぐらい注意してみろよと言いたいが、アハマッドの心の優しさの方がずうっと価値があるので、不正(カンニングの一種)であっても、許してしまう。かえって、先生に見つからなくてよかったと思う。宿題をノートにすることが大切か?それともどんな紙にでも宿題をやることの方が大切か? こういう文化は日本の文化と似ている。『先生の板書は美だ』と言っていた日本の某有名大学の教授と同じで、何が本当に大切なのか本質がわかっていない。
アハマッドが教室に遅れてきて、友達のノートを差し出した時、友達はなにがおきたのかも、どんなに苦労しても友達の家を探せなかったかも何もしらない。その時の友達の顔は愉快だった。人生において、取り越し苦労をしても相手に理解されない時のようだ。
それにまして、押し花が宿題の間にあったのに、まるで、関心も示さない先生(教育の狭さ、情操教育の無さ)にも偏見承知だが、イランの1987年の教育を垣間見た感じがする。
いつの作品かを気にしてみていなかったが、これは田舎の人里離れたところに(散村)に違いない。Kokerというところにこの少年アハマッドの家族は住んでいるが、私は地図で探すことができなかった。以前地震のあったカスピ海の内陸部らしいが。
アバスキアロスタミは個人的に好きな監督で、彼は小津安二郎のファンだったと聞いたが、小津安二郎感覚を共有している。
少年の頭をもしゃもしゃっとして抱きしめたくなる!!
少年が友人のノートを届けに行くと言うそれだけの映画
なのですが、そこには色々な日本では理解できないような
様々な家庭の事情や大人の事情が入っていて
考えさせられます
少年は小学2年生。まだまだ自分の気持ちがうまく
伝えられない世代
それでも、友だちがノートがないと大変なことになると
家を飛び出すさまは、観ていて心が洗われる
泥まみれの汚い大人心にはたまらない作品だ
見知らぬおじいさんと友人の所へノートを
届けに行くクライマックスはまさに
心がキュンキュン、子を持つ親はわーっと
叫びたくなりそうです
そのシーンを思い出すとまた涙が・・・
これで撮ろうって思わない
これで撮ろうって思わないもの。そこに驚かされるし惹かれる。
子供の頃にこんな危機感て、誰もが味わったことがあると思う。大人になって思い返してみるとなんて馬鹿馬鹿しいことで追い詰められていたんだと、アホらしくなるが当時は真剣そのもの。
程度を下げるようで申し訳ない例えだが、はじめてのおつかい、てこれと惹かれるポイントが近いような。あれ、なんか見てしまうでしょ笑
しかし。もうちょっと声でんか?とイライラしながら見た。終始遠慮がちで、でもまあ、教育がこういう感じの文化圏なんだろうな。今日本で「しつけ」て死語みたいなもん。宿題ノートに書かなかっただけで退学て、虐待とかなんとか言われて、先生が吊し上げだろう。ニュースとかなって。いや、関係ないか。。
子供の目線という共通の鍵を使って 国や民族を超えた人間の普遍性を見事に謳いあげています
素晴らしい映画に出逢えました
子供の世界は国が違えど民族が違えど同じです
宿題をやってきたかと先生に問われてドキドキしている表情を通してイランの知らない町の出来事でも共感できるものです
そしてわかってくれない大人たちの世界も同じ
自分たちの子供のころの感情をみずみずしく甦らせてくれます
そして彼の両親や様々な大人、おじいさん、おばあさん、イランの田舎の寒村の暮らし
監督は彼ら彼女らの人生がどうでであったのか、どのように育って来たのか、そしてどのように老いていくのかを様々な登場人物に語らせたり、暮らしぶりを見せて推察させたりしていくのです
そうしているうちに私達は全く知らない国でそこで生まれ死んでいく様々な人生を知り、本作を見ているうちにまるでそこに子供の頃からそこで育ってきて、そこで老いていくかのような錯覚を覚える程にその世界に吸い込まれてしまうのです
そうして、そこには国や民族の違いを超えて、普遍的な人間の暮らしがあり、私達と何も変わるところはない人間の営みがあることを知るのです
世界中のどこの村でも、街でも成立する物語のなです
つまり人間皆同じ、変わりはしません
大きく言えば人種、民族の平等を歌い上げた人類讃歌といえるでしょう
子供の目線という共通の鍵でその扉を開いて見せているのです
カメラの見つめる視線の暖かみ、その場の空気感を伝える間のあるカット回し、そして色彩
光と影
素晴らしい技量の監督だとおもいます
ラストシーンの押し花のハッとする効果的な一撃は長く記憶に刻まれるだろう見事なものでした
名作であると思います
すごくすごく良い子が精一杯走る。大人はわかってくれなくても。 頭の...
すごくすごく良い子が精一杯走る。大人はわかってくれなくても。
頭の中にわーーーっていろいろ湧いてくる。
どうってことのないストーリーなのに傑作。
めちゃめちゃ良い。
子供の気持ち
小学生のアハマッドが帰宅して気がついたら友達のノートを間違えて持ってきてしまっていた。実は、その友達は今日学校で宿題をノートに書いてこなかったことで先生から厳しく叱責されていた。『今度同じことをやったら退学だぞ」と。彼は遠い隣村まで何とか返しに行こうとするが…。
とにかく子供達の演技が真に迫りすぎています(どうやら演出に仕掛けがあるらしく完全に演技というわけではないらしいですが)。悲しみ、不安、焦り、真剣さが画面からビンビン伝わってきて苦しくなるほどです。
見ていて自分も幼い頃の気持ちを思い出しましたね。大人にとってはどうということもないことかもしれないけれど、何気ない言葉かもしれないけれども、子供にとっては一大事。
出てくる大人たちが、これまた彼の話を聞いてくれないんですよ(苦笑)。それは、電化製品や輸送機械などが殆ど普及していない中で壮年達は日々の生活に精一杯だったり、また「子供は年長者の言うことを黙って聞くのが当たり前」という伝統的な価値観が根強かったりするためで、日本でもひと昔前はこんなだったんでしょうね。
一人だけアハマッドの話を親身に聞いてくれて案内を申し出てくれた老人がいました。でも散々歩き回った挙句たどり着けませんでした。後から考えるとその老人も行き先を本当に知っていたのかいささか怪しい。元々はドア作り職人だったらしいその老人は、歩きながら「あそこのドアは昔ワシが作った」だの「今は鉄製のドアばかり売れるようになってしまった」だの問わず語りに話します。それどころではないアハマッドとの噛み合わないやりとりが笑えるのですが、どうもその老人は話し相手が欲しかったのではないかな?「若い者は皆街に出て行ってしまう。ワシは街は嫌いだ」みたいなことを言っていたし、孤独に暮らしているらしい描写もある。
伝統的な共同体の中で人々が生きる様子と、一方でそれが少しづつ崩れつつある姿。そうした社会背景も伺うことができます。
ともかく主人公と一緒にハラハラドキドキしながらの85分。粋なラストでほっこり。
追悼キアロスタミ
この映画を観たのはいつだったかな?
確か初上映の時だったと思う。
間違えて持ち帰ってしまった友だちのノートを返すために彼の家を探し回る少年の姿をリリカルに捉えた傑作。
イランって宗教戒律が厳しいお国柄何じゃないの?って先入観はいらない。
何か一昔前の日本と変わらない牧歌的な人々がいる。
子供は純粋だし、近所には口喧しいお爺さんはいるし。
ラストカットの衝撃と感動は忘がたい。
テーマである思いやりをこんな形で表現してくれるとは、何とも心ニクイ演出なのだ。
この瞬間、映画館内に「アッ」とささやかな驚きと感嘆の声が上がったのは今も覚えている。
手元に置いておきたい映画
随分前に観たので筋は感想を書ける程ではないのですが、最近になってもう一度観たくなり探し回っている一本です。
男の子が友達の家を探して。。。というストーリーなのですが、印象にとても残っています。
風の音までも、もう一度聞いて感じたい映画。
特に何も起こらないけど。
子どもも仕事がある。
子どもにも仁義がある。
子どもにも知恵がある。
遅くなって怒られるけど。
クローバーが素敵。
大人がきちんと大人。
ギチギチに管理しなくても、子どもは酷い危険は冒さない。
パラダイスに見えるけど、無茶苦茶不便。
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