逃げきれた夢のレビュー・感想・評価
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この日々、このやりとり、この彷徨を見続けてしまう
決して大きな出来事が起こったり、何かが劇的に変わるタイプの物語ではない。劇中に音楽はなく、観る者の感情を揺さぶったり、今この瞬間がハイライトだと強調することもしない。つまるところ全ては観客に委ねられている。光石研演じる主人公についても、本人は何かしら問題を抱えてはいるが、それが動力となって物語を牽引するわけではない。主人公はずっと喋っている。が、だからと言って心情が正直に詳述されることはなく、彼が何を考えているのかわからない顔つきで歩き、飯を食らい、定時制高校の教頭先生として学校で教職員や生徒と接するその「姿」を我々は絶えず目撃し続ける。彼はこれまでどう生きてきて、これからどう生きるのか。受け止め方は自由だ。誰も強制はしない。なのに不思議なもので、光石の一挙手一投足を見ているだけで、日常の一部を共有しているように感じ、彼のことがどこか気になり、この彷徨を見届けたいと感じてしまう映画である。
ひねったタイトルに想像をかき立てられる
二ノ宮隆太郎監督の映画を観たのは、萩原みのり主演作「お嬢ちゃん」に続き2作目。どちらのタイトルも割とシンプルなのに予想がつきにくく、鑑賞後も「どういう意図でつけたのだろう?」と一層想像をかき立てられる。本作に関しては、アラ還世代の男が主人公と聞けば、バブル期の少し前に苦労せず就職して年金の心配もなく……といった“逃げ切り”のことかと思ったがそういうわけでもない。
2作の共通点としてもう一つ、冒頭の印象的な長回しを挙げておきたい。本作では光石研が演じる丁寧な言葉遣いの主人公・末永周平がある施設で受付を済ませ、室内へ歩み進むのに合わせ、光石を正面からとらえたカメラが徐々に後退するにつれてそこが高齢者向けの介護施設だと判明し、やがて車いすの老人に面会に来たのだと分かる。車いすに座る父親(実際に光石の父が演じたという)に正対しないまま語りかけるのは、周平がこれまで家族をはじめ誰とも本気で向き合わないまま生きてきたことをうかがわせる。
周平は北九州の定時制高校の教頭で、定年を前にして認知症の初期症状が出ているようだ。思い立って妻(坂井真紀)や娘との関係を修復しようと試みるが、まるでうまくいかない。酔って帰宅した場面で、LDKの中間のドア寄りに両ひざをついてだらだらと話し続ける周平と、リビングのソファに座る娘、ダイニングのテーブルそばで立ちすくむ妻、3人の位置で心の距離を象徴した構図が巧い。
自分自身のことや対人関係が、本当に今のままでいいのか、もっと何かできることがあるのではないか。そんな生き方についての内に秘めた焦りや葛藤も、二ノ宮監督作の「お嬢ちゃん」と「逃げきれた夢」に共通し、観客の心を揺さぶる重要な要素だと感じた。
この男はオレだ!いちいち胸に刺さる!でも最後まで観ちゃった!
当方61歳、妻、娘、仕事、友だち、親、すべてが現実に充ちていて、観ていられない感じでした。で、希望もない!年を重ねることとはこういうことなんだろうなあ。リーアムニーソンかハリソンフォードの映画が観たくなった!ただ主人公より女優陣の演技が完璧!定年直前の人はみんな見た方がいいと思う。何も起こらないけど、「逃げ延びた」のだから!
ちゃーしぃー
二ノ宮隆太郎の映画に登場する主人公は、前作『お嬢ちゃん』の萩原みのり(主人公の名前もみのり)と同じように、それを演じる俳優そのものにかなり近いキャラ設定がなされているようだ。今回光石研演じる定時制高校教頭の末長はといえば、名前こそ違うものの、光石自身のお父様が父親役で登場、さらに光石研の故郷九州黒崎でオールロケが行われている。おそらく、ドキュメンタリー効果を狙ったこの監督オリジナルの演出法なのであろう、シナリオも光石研をあて書きにした代物だという。
そのちょいモキュメンタリーな物語で語られるのが、映画冒頭とラストに映し出される白いモヤモヤから分かるように、“誰かさんの夢”なのである。一見すると、光石研演じる教頭先生の“夢”のようでもあるが、それはどうも違う気がする。黒崎のような地方都市では、公務員という職業は安定性抜群の勝ち組仕事、定年を迎えた後でも高い年金がもらえる、非正規にとっては“夢”のようなお仕事なのである。じゃあやっぱり人生逃げきれた男の話なんじゃねと問われるのだが、やっぱり素直にうんと頷けない。
この教頭先生、病院で余命数ヶ月の宣告をうけ、逃げきるどころか人生から強制退場させられてしまう寸前だからなのである。不治の病におかされている割には、定食屋の支払いを忘れる程度で記憶力は抜群。学校の生徒や、認知症の父親が世話になっている施設、地元の幼なじみをたずねてまわり、残り少ない人生を有意義にすごそうとするのだが、どうも気持ちは満たされない。それどころか旧友(松重豊)から「自分勝手」とさとされ、定食屋でバイトをしている生徒からは(冗談で)退職金をせびられてしまう。
妻や一人娘との家族関係はとうの昔に破綻していて、「学校をやめてもいいか」と伝えても「どうせ後一年だし、別にいいんじゃない」のつれない返事。要するにこの末長という男、みんなに好かれようと周囲に気を遣いすぎたあまり、逆にうざがられていたことに気づくのである。ラスト「後悔せんごつ、生きてもいいんか」と生徒を置き去りにして、さっさともと来た道を帰っていく末長。それは、観客に好かれるような商業映画に決別を告げ、人生後悔しないよう撮りたい映画を撮ろうと決意した二ノ宮隆太郎の後ろ姿ではなかったのか。そうこの映画は多分、二ノ宮監督自身の“(鬱陶しい世間のしがらみから)逃げきれた夢”だったのだろう。
逃げきれた?逃げきれなかった?
よく分からないのは、『逃げきれた夢』という題名。
誰が何から逃げたのか。夢はどこにあったのか。そもそも夢って、未来に望みを描く夢のこと?それとも寝ていて見る夢のこと?
そういえば、「父親から逃げる・・・」ていうセリフがあった。「夢みたんよ。父親の夢・・・。」もあった。それ以外に、『逃げる』も『夢』も多分、見当たらない。
もしかしたら、この映画の軸は主人公、末永周平とその父親との関係にあるのではないだろうか。
組み立ててみよう。
周平の子供時代は父子家庭。権威的で怖かった父親と離れたくて家を出て、でもその父は今、認知症で施設に入っている。
で、自分にも認知症の兆候が見られる。家族との関係はといえば、奥さんや娘との間に壁ができ、すっかり嫌われている。娘には見せてこなかった一面を見せて、関係を修復しようと試みるも気持ち悪がられるだけ。奥さんとの関係はとうに終わっている。
病、家族との関係。結局、自分も父親と同じ道を歩んでいたのではないか。父親を嫌って逃げだしたはずが、父親の後を追っていたことになる。
周平は、父にまつわる実体験を夢で見た。こわかったはずの父親は、なぜか授業参観で息子の担任のまねをして、友達たちを笑わせていた。実はひょうきんな一面をもっていたにもかかわらず、子どもの前では見せてこなかったのだろう。
それって、給料を運んでくる自分以外を見せられなかった、そして他の一面を見せれば家族から「こんな人だったっけ。死ぬの?」と言われてしまう、そんな周平自身と同じじゃないのか。
父から逃げるために家を出て、ひょうきんな姿の父の夢を見て、父と同じように家族にうとまれ、父と同じように認知症で記憶を失おうとしている。これって、父親から逃げきれなかった自分、なりたくなかった自分じゃないんだろうか。逃げようとしても、齢をとるほどに父に似てきてしまう自分に気付かされる、そういうものだろう。
「後悔のないように好きに生きていけばいい、後悔したっていいか」そう言える相手は、家族ではなく他人。なんでか、家族って難しい。一番大切な人たちのはずが、一番大切な思いを届けられない。
だから、哀しみと諦めから定年後を始める。好かれようとせず、きれいごとで済ませず。後悔しないよう好きに生きて。それでも、後悔するようなことになったとして、それをも受け入れよう。元教え子に伝えた言葉は、自分へのエールなのだろう。
だとすれば、まだ終わっていない。逃げきることを夢見て、逃げ続けてきて、逃げきれなかったけれど、新たに、まだ逃げよう。結論はまだ出ていない。そんな周平の決意。
『逃げきれた夢』にピッタリの解釈、とは言えないけれど、う~ん大体そんなこと、かな。私自身、周平にけっこう近い境遇で、彼の状況を笑いながら共感しきり。楽しく見させてもらいました。
感動系ではない。
定時制高校のやんちゃそうな高校生とトラブルが起きるわけでもなく、家庭の問題が解決するわけでもなく、淡々と進んでいく物語ですが、光石研さんがハマり役で長回しで語るシーンではじわじわ引き込まれました。
邦画らしい出演陣で作る邦画らしくない作品
秘密の終活を始めた主人公・周平が、過去の思い出を掘り起こしたり、最期を気分よく迎えたくて「普段と違う」ことを重ねていく物語。
周平が会話する場面の多くで、相手の距離感やシーンの撮り方に違和感を覚えたため、もしかして周平にはこう見えているだけなのでは、と深読みさせられた。
周平の終活がこの方向で行くのか、また方針を変更するのか、エンディングの後が気になる作品だった。
話の構成や落としどころがフランス映画のようで、邦画らしい佇まいをした光石研さん主演で作られた邦画らしくない作品だという印象を持った。おそらく出演陣、特にベテラン陣を知らない人が観るとまた印象が違うのだろう。
本作が出品されたACID部門は「市場原理に抵抗する芸術的な作品」をとりあげる部門だと知り、納得がいった。
死生観や家族観が異なる他国版を観てみたい。
また北九州の方言をそのまま使っているセリフが多くあり、特に短いフレーズの標準語に直訳しきれないニュアンスを海外上映にあたってどう訳したのか気になった。
しゃ〜しぃー
多分、一番記憶に残った台詞であり、キャッチーな方言なのであろう 北九州弁という、およそ関東圏内には馴染みのないその音源は、九州との隔たりを依り一層際立たせる言い回しである
今作に於ける"50代"の男の無責任且つ拗れた実情をこれ程作品化した内容として、同じ世代として同期するプロットである そう、50代は、本当に責任感がない どんな立場、どんな人生を経たとしてもこの年代には背負うリュックは圧倒的に小さい 今作は資本主義経済に於ける"持つモノ"、"持たざるモノ"を明確に表わし、その重なる部分の居心地の悪さを醜悪に演出して魅せた作劇として秀逸である
公務員、もうすぐ退職金受領の男、そして最早男の存在感の不必要を表わしている家族、そして男の無責任さを如実に暴露する元教え子 50代男のこれまで培ってきた人生の事なかれ主義をここまでテーマにした作品はあっただろうか? あるだろうね(苦笑←50代男の無責任w
結局、どうでもいい自己肯定、勘違い、そして何もベットしない日和見、その醜悪な負の側面を映画のプロットとして演出してみせた制作陣に敬意を表したい
今すぐ、50代は洩れなく、エトランゼとしてウクライナに派遣すべきだし、自分は喜んでいく所存です
この日の本に、50代は不必要だしね・・・
いぶし銀
2021年 「いのち知らず 」と言う舞台を
観に行った時(仲野太賀目的w)
光石研のいぶし銀な生演技に感動した時の
記憶がフワッと鮮明に思い出されました。
本作がその舞台と似てるとかではなく
単に光石研の演技のうまさと空気感が好きだなと
思った事を思い出したのです。
北九州を舞台に、博多弁(?)の柔らかさと
おじさんたちの友情と
冷えた夫婦関係、娘との微妙な関係と
校長になれなかった教頭の悲哀を感じる
(まさにサラリーマンの悲哀)
冴えないおじさんの物語で
中高年の一生懸命「家族のため」と思って
(考え方が古い)
家庭を省みず働いている現代のおじさんたちを
見ているようでした。
共感とか感動とかという次元ではなく
全体的によく分からなかったのですが←
ただただ光石研の哀愁漂う疲れオジを見ていると
なんだか切なくなる、優しくならなきゃ。なんて
思ったりした瞬間がありました。
上手い
役者さんだとは解ってます、でも何か生理的に受け付けない。「観察」も「共喰い」も最近では「波紋」も。今作はそんな彼のいわばPVですがいつになくすんなり入ってきました。坂井真紀ほか若い二人の女優さんもキレイでした。エンドロールでやっと流れ始める曽我部恵一、細かい説明不要。
なんかおかしくない?
これからの人生のため、これまで適当にしていた人間関係を
見つめ直そうとする周平だったが……。
と、映画の紹介にあるけど
生きてる間じゅうずっと一部のすきもなく緊張して
人間関係保とうとしてる人間なんかいますか?
しかも見つめ直してなにがどうなるん?
この映画の中でだって見つめ直して関係を修復しようとするわけでもないし。
なにが伝えたいのか意味不明な映画でした。
生徒の未来の夢や教師の責任から逃げられた?
逃げきれた夢という題名。謎でした。予告編で光石研演ずる主役の定時制高校の教頭は認知症になって定年を待たないで退職する決意を家族に話したということはわかるのですが、誰の夢?なにから逃げた?執拗に追いかけられる夢を見て、逃げきれたということ?
二ノ宮隆太郎監督の映画を観たのは、萩原みのり主演作「お嬢ちゃん」に続き2作目。
ヒューマンドラマですが、テレビやラジオでは放送事故になりかねないスローな間の長いセリフ。
この映画に対するわたしの一方的な感想としては、定時制高校の教師は大変だなぁとリスペクトを感じつつも、教え子の人生に対する責任を全うすることが出来ず、自分の家庭も思い描くような未来を作れなかった男がアルツハイマー病になったことから記憶も曖昧になり、現実逃避の言い訳ができて、教え子の夢から逃げきれたと安堵しているんじゃないかな?といったちょっとイジワルな感想を持ってしまいました。お金を払い忘れ、お金持っているのに、また財布に戻してすぐに払わない。教え子の彼女が立て替え、お礼しなきゃねの一言に期待してしまった彼女の複雑な思いの吐露にビビる周平。
若い二ノ宮監督の視線はとても鋭いとおもおますが、同時に人生に対する虚無感、無常感がつよくて、かなりつらい映画でした。
役者さんの演技はベテランも若手も完璧でよくまとまっていました。
博多(小倉)弁がよくわからなくて、蕎麦屋のアルバイトの彼女のセリフがかなり重要なのに肝腎なセリフの意味がよくわからず。そのへんは字幕で解説を入れたほうが親切じやないかと思いました。視聴覚教室にポツンとひとりだけいた女の子が自分の本心を正直に言ったら、先生はどこまでも親身になってくれる?見たいなセリフがあって、それが一番ひっかかりました。教師に対する猜疑心や諦めが強くて、同じ定時制高校を描いた作品として、坂上二郎の学校の先生とは対極に位置する虚無感が全体を被う映画かと。
さらに、定年を目前にした周平とまだ40代と思われるチャーミングな妻(坂井真紀)のリアルな演技はかなりショックでした。パート先の社長とセフレになっているとしか思えない開き直った態度に周平がたじろぎながらも、家族を続けようとする。
このへんの若い二ノ宮監督の視線はとても残酷で、ダンサーインザダークのラースフォントリアー監督に近いものを感じでしまいました。ある意味老成していて怖い。
火曜日の武蔵野館で鑑賞しましたが、同列のE-5に二の腕にタトゥーを入れたスレンダー美女がいて、前半は大きなあくびを何度もしていましたが、松重豊が出現するとガハハーと笑っていました。終わってみると、彼女の鑑賞態度が正解だったような気がしてしまいました。
お先真っ暗なのに、新たな人生の出発を応援するみたいな予告編にもかなり違和感を感じました。配役などから若い人が好んで見る映画ではないので、ターゲットとなる中高年には一定の幸せな人を除いてかなり身につまされる映画だと思います。
エンドロールに曽我部恵一の名前。音楽(劇伴)なかったから、最後の単音ピアノのみ。うーん、ロックギタリストもこうするしかなかったのはよくわかる。曽我部恵一、すっかり活動拠点を映画にシフトしています。
脚本の失敗?
主人公にしゃべらせ過ぎ。
光石さん、松重さん、吉本さん、よかったのに。
これでは役者さんたちがかわいそうだ。
あと、三角公園って、どこにもあるんですね。
追記
役者さんたちがかわいそうだ、とは書いたものの、光石さん、松重さん、吉本さんがいいなあ、と思えたので、これは監督の手柄? 「のぼる」であんなに輝いてた工藤さんをこれだけ、えー?と思わせる演技をさせるのも、考えてみたらすごいのかも。
忘れる怖さ、忘れる辛さ
自分が認知症と診断されたら、自分ならどうするだろう。人に言えるだろうか、相談できるだろうか?家族に言う、親友に言う、職場で話す?主人公の葛藤、今覚えていることを誰かに話したくもなるだろう、自分の地元である北九州の街並みに合わせて、切なくなってしまった。
個人的には、松重さんのセリフが突き刺さる。
どしたん?
北九州の定時制高校の教頭を務める末永。
家族とのコミュニケーションが減り、元教え子の定食屋で会計を忘れてしまう。
定年を間近に控えた彼は今後について考え、高校教師を辞めようと思い立つのだが…
光石さんの推し活として初めてムビチケ以外の前売り券を買い、楽しみにしていた本作。
観終わると同時に頭に浮かんだのは「それで?」の二文字。
『お嬢ちゃん』が素晴らしかったので、二ノ宮監督には過度に期待していたところがあったかもしれない。
はっきり言う。面白くはない。
ただ、それは次第に「監督随分と面白い映画撮るなー」に変わった。
どうやら二ノ宮監督は明確なテーマを持たないらしい。
名優光石研の全てを撮ろうとした映画であり、主題を汲み取ろうとしていた私が野暮だった。
「は?」「それで?」「え?」「おわり?」
特に何も起きないこの映画においては多分これが正しい反応だ。
若者には分からないかもしれないと誰かが言っていたが確かにそうかもしれない。
それにしても何かがおかしい。この違和感は、モヤモヤは、表しようのない気持ちの悪さは何だろう。
周りからもおかしいと言われ、心配され、気持ち悪がられる末永。
最後まで彼に取り憑いたその原因が明確に語られることはない。
一見“忘れてしまうの病気”のせいかと思うが、おそらくそういうわけでもない。
娘のプライベートを色々聞いたり、昔の思い出に耽ったり、妻にスキンシップを取ってみたり。
こちらも聞きたくなる。「どしたん?今日本当どしたん?死ぬ?」
だが、きっと彼は何でもない。
実際彼は映画の中で学校を辞めてもいない。
彼の身にも映画の画的にも、何もないからこそ何かあるのではと推測してしまうが、本当に何もないのだろう。
それでも何かあるように周りから見えるのは何なのか。
老い、定年、1人孤独な中年男。
そういった目には見えない圧力のようなものが彼にまとわりついて離れないのかもしれない。
二ノ宮監督の描く長回しの日常はリアルすぎて恐ろしいところがある。
邦画で活躍する俳優たちのナチュラルな演技がとても良かった。
個人的に「しゃーしい」にハマっちゃった松重さんがツボ。
カンヌで上映されたらしいけど、ある意味邦画離れしたカンヌっぽい作品だと感じた。
光石さん主演は絶対見なきゃと思い劇場へ。 非常に良い作品でした。光...
光石さん主演は絶対見なきゃと思い劇場へ。
非常に良い作品でした。光石さんのお芝居によって、
程よい笑いもありながら、切なさも感じられて、
鑑賞後は少し前向きになれている少し不思議な良作でした。
いやあ参った。どうしようかねえ、これから。
末永は、認知症にさえならなければ、あと1年で定年というこのタイミングで立ち止まることはなかった。普通に家庭に居場所がなくても、少なくともこれまでは間違って生きてきたとは露とも思わなかった。
それが、やはりこのタイミングで、わが身を振り返る。
家庭ではどうだったか。病気のことを話せない気まずさのある関係。不倫されてても強く出れない関係。触れることさえも毛嫌いされてしまっている関係。面と向かって話もしてくれない関係。それは、これまでの自分に原因があるのだという自覚がある。いまさら戻せないとわかっている。
友達はいる。会えば、その夜に都合をつけてくれる気のいい奴だ(松重豊の成りきり振りに感服するしかない)。だけど、本人は気付いていない。結局大事なことを話すことができなかったことを。
学校では問題なかっただろう、、と、本人は思ってる。中間管理職として頼りにされてきたと思ってるし、生徒の良き理解者と自負もある。ところが、実は「生徒に嫌われる先生の条件」をすべて満たしていることに気づいていない。それを、今の生徒にも見透かされている。「わかった。信じる。信じるけん、逃げんでね、先生。」のやり取りのあとの回収がないのがその証拠だ。卒業生の平賀(この子も定時制だったとしたら家庭か何かに問題を抱えた子だったのかもしれないので、感情の機微に敏感だろう)だって、病気じゃしょうがないという同情が、いつのまにかズルい大人を見る目に変わってしまっている。そして最後のあの無言の別れだ。あの長回しは意味深だなあ。平賀が何も言わないこと自体が、まるで何かを語っているようだった。
末永にとって、おそらく「定年」を一つのゴールだと生きてきたのだろう。それは家族にお疲れさまと言ってもらえる晴れ舞台であったろうし、その後の人生を平穏に過ごす、そう想像してきた未来こそが、彼にとって「夢」だったのかもしれない。だけどいま彼は、その夢の場所まで逃げきれそうもない。
断定的でないのは、この物語がまだ進行中だから。大したこともないようでいて、だからこそどこにである悲劇の物語の行きつく先が。
※同時上映中の「波紋」の光石研とキャラが被るせいで、2つの映画が脳内で若干シンクロしてしまうのは如何なものか。
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