破戒のレビュー・感想・評価
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映像で学ぶ近代文学入門
タイトルと作者は知るこそすれ、内容等は全然…だったので、張り切って鑑賞。「人間は愚かではなく、弱いから差別する」などの台詞を筆頭に言葉が刺さる、刺さる。流石は3度目の映画化である。名作とはこのようにして語り継がれるものなのだ。
【"我は穢多なり。されど恥じず!"非差別部落の出自を隠し生きてきた青年が、様々な経験をする中で、父の戒めを破り、新たなる人生を歩み出す姿を描いた、現代社会に対しても十二分な訴求力を持つ作品。】
ー 今作は、島崎藤村の小説「破戒」の3度目の映画化だそうである。
小説自体は、吉井すゑの「橋のない川」と共に、学生時代に読んでいる。-
■”決して、自らの出自を明かしてはならない”という父の戒めを守り、地元を離れ、小学校で教員をしている瀬川丑松(間宮祥太朗)。
だが、同じく被差別部落出身ながら、それを隠さず、自由や平等についての思索を深める思想家、猪子蓮太郎(真島秀和)の姿を見て、自身の生き方を自問自答する、丑松。
下宿先の寺で知り合った志保(石井杏奈)へ、想いを告げる事にも躊躇していた丑松であるが、猪子の非業の最期に、彼の心に変化が訪れる。
◆感想
・父から穢多である事を隠して、生きろ!と幼き時から言われて来た丑松は、小学校の善き先生になるも、秘密を抱えて生きる日々。
- 丑松を演じた間宮祥太朗の抑制した演技が、丑松の哀しみを表している。良い。-
・下宿先の寺に奉公していた零落したとは言え、士族出身の志保との出会いのシーン。
- 志保が読んでいた与謝野晶子の"乱れ髪"彼女が先進的な思想を示すシーンである。何気ないシーンだが、ラストの志保の行動が腑に落ちる。-
・志保と同じく、文学好きな丑松が彼女に惹かれるのも、良く分かる。だが、彼は自らの出自と士族出身の志保に想いを告げられない。
- 現代でも、部落出身と言う理由だけで、結婚を相手の両親から拒否された話は、時折聞く。-
・心酔していた猪子に手紙を書いていた丑松の所に猪子がやって来る。その際に彼が言った言葉は忘れ難い。"人間は弱いから、差別する。"
- 金言である。-
◼️白眉のシーン
・丑松が生徒達の前で、自らの出自を明かすシーン。先生は皆に隠し事をしていた。許して欲しい、と涙ながらに詫びるシーン。だが、それまで級友で穢多の少年を馬鹿にしていた志保の弟を含め、誰も丑松を責めずに涙を流し、"先生!"と言いながら、丑松の周りに集まる。
- 彼が、如何に生徒達に慕われていたかが、分かる。そして、間宮祥太朗さんの渾身の演技に、涙が出そうになる。-
・丑松が学校を去るシーン。其処に現れた、唯一、丑松を支えて来た土屋銀之助(矢本悠馬)と、志保。銀之助は明るく"君は何も言わずに、一人で行くつもりか?"と言い、志保を彼の側に連れて行く。
- 真の友の粋な計らい。彼は丑松の気持ちも志保の気持ちも知っていたのである。躊躇なく、丑松の側に立つ志保の恥じらいながらも、嬉しそうな表情。-
・途中から、子供達も付いて来る。其処に現れた愚かしき旧弊思想の先生二人に銀之助が言い放った言葉は、スカッとしたなあ。
<穢多・非人差別の始まりは、諸説ある。
が、その差別により、多くの方が辛い生き方をして来た事実は、明らかだ。
そして、その差別は現代の日本でも、綿々と続いている。
だが、今作品のラストには、希望がある。
一人一人の人間が、自らの心の弱さや、相手より上位に居ると言う気持ちを払拭し、"自由と平等、そして人としての尊厳"を尊重する事で、戦争や言われ無き差別は無くなる筈なのである。
この物語は現代社会が抱える諸問題に対する、一つの答えを示した作品でもある。>
人間はなぜ、同じ人間に対して差別をするのか......
今までにも映画やドラマとして、何度か映像化されてきた名作「破戒」が60年ぶりに映画化。1世紀以上前の原作でありながら、「破戒」の中で描かれる人間の愚かさや弱さは、未だに変わっていない。
インドにおけるアウト・カースト(カーストにも属さない)のような、身分による差別がかつての日本にはあった。それはえた・非人と呼ばれるものだ。時代は変化し続け、新たな文化や価値観が世界を変え、日本も変わっていく中で、四民平等、人間は同じ存在であると言いながらも、えたの人々は差別を受け続けた。
石を投げられ、塩をまかれ、人間ではない汚らわしいもののように扱われていたのだ。今作の冒頭や全編にわたっても、そういった描写がされている。
平等であるはずではないのか……。平等とは言いながらも、その平等からは外れたものを差別する。そんなものは平等ではない。つまりこの世界には平等なんてものは存在していないのだ。
主人公の瀬川丑松 は、えたであることを隠し教員の職業についているが、生徒たちには差別のない未来を築いて欲しいと心から願っている。しかし、自身がえたであることを隠し通さなければならないという、信念との矛盾に葛藤する日々が描かれながら、脳裏から離れないのは、父の身分を隠せという言葉だった。
ことあるこどに、その父の言葉が蘇ってくる演出が、少し『タイガーマスク』の「虎だ、お前は虎になるのだ」みたいで、やりすぎな演出にも思えるものの、それほど、身分を明かす恐れと事実を隠すもどかしさが瀬川を悩ませていた。
そんな中で東京から赴任してきた新たな教師・勝野が波風を立てる。この勝野という男は、新たな文化に寛容であり、女性の社会進出を後押しするようなリベラル的な思想を持っていると表では思わせておいて、実は差別主義者である。女性差別はないのかもしれないが、別の差別意識は持っているのだ。 しかも厄介なことに、この勝野という人物は一般的に見て、非常に多い人物像なのである。
人間が差別をするのは、愚かであると同時に、弱いからである。自分と違う存在を恐れているのだ。ひとつの差別がなくなっても、また別の差別が生まれる。 そしてそれを認識していないのも問題なのだ。
そんな人間が差別を繰り返すサイクルというのは、無くなるものではない。「差別など絶対無くせる、人類は平等だ」なんて言うのは偽善でしかない。しかし、立ち止まって、改めて考えてみることは誰にでもできるはずだ。
そんな一度立ち止まる機会を与えてくれるのが今作であるといえるだろう。舞台設定は確かに古いが、人間が差別をしてしまう構造というのは、昔も今も、外見上の形やきっかけが違うだけであって、全くであるのだから。
現代の私たちは胸を張れるだろうか。
生まれながらに差別を受ける人達がいる。時は明治。新しい時代が到来してもなお、人々の心から差別は消えない。そしてそれは令和においてもきっと続いている。いわゆる部落、同和と言われる地域。当時はその土地出身者を“穢多”と呼び、あらゆる暮らしの隅へと排除していた。
土地を離れ長野で小学校の教壇に立つ丑松。子供達からも慕われ、誰にも素性を明かすことなく静かに日々を過ごしている。しかし新しい出会いを通して、出身を偽り続ける事への葛藤が大きくなってゆく。自分は穢多であることを恥じているのか。子供達が差別のない平等な未来を歩く為に、今、最後の授業が始まる。
紛れもない傑作で、本当に観て良かったです。差別がテーマですが、罵詈雑言が飛び交い、激しい暴力を受けるとかではなく、もっと心の部分にフォーカスをあてています。美しい言葉遣いと清んだ景色、そして人は平等であるべきだという思想。まるで純文学でも読んでいるかのような凛とした映画でした。
間宮祥太朗がめちゃめちゃハマリ役で、淡々とした丑松の微妙な変化を見事に表現していて本当に素晴らしかったです。和装も似合ってました。
いつの時代も人を貶めることで自らの評価を上げようとする連中がいます。それに比べ幼い頃から重いものを背負い歯を食いしばって生きてきた人達は心が強かったです。世界から差別がなくなりますように。まずは自分自身に問いかけてみようと思います。
差別はなぜ起きるのか? それは人間が弱いから
この映画は全編人間の弱さに満ちています
この映画を観ることは、そうした弱さと真摯に向き合うことの出来ない自分という人間を改めて知るいい機会でもあります
世間体ばかり気にして後悔したりしてませんか?
他人の目を過剰に気にするのも人間の弱さじゃないですか?
ちなみに傍観することも個人的には人間の抱える弱さだと考えます
ああ、強くありたいなぁ・・・強く。
見れて良かった。
友人役の矢本さんが良い人で救われました。
出自が分かっても変わらず友人でいてくれた。
生徒達も「先生は先生だよ!」と涙ぐんでくれて、救われました。
勉強が助けてくれるからしっかり逃げないで勉強してください、の教えが響きました。
上映場所が少なく、上映してても1日1回とかなので、見れるタイミングが合って良かったです。
主演の先生は、東京リベンジャーズの映画は見ていましたが完璧に当時の先生の雰囲気、礼儀正しい言葉遣い、佇まいが馴染んでいた良い演技でした。
ほぼ満席に近く、皆静かにスクリーンに見入っていました。見れて良かったです。
原作を読んだことはありませんが 映画で読書の代わりができるなんて素...
原作を読んだことはありませんが
映画で読書の代わりができるなんて素敵と思い、見ました。
見て良かった、本当に。
映画に詳しくないのでイメージで書きますが
配役も脚本も演出も何もかもが良かった感じ。
もちろん原作ありきで。
もっともっと話題になって、
もっともっと沢山の映画館で上映して、
沢山の人に見て欲しい映画でした。
もう一度【私のはなし、部落のはなし】を見たいと思った。
原作は知らず鑑賞
すごく心がかき乱されるとか感情が高ぶるとかではなく、鼻の奥がツンとしてじわじわくる作品でした。
時代は明治で、あ〜こんな時代もあったんだと思う一方で、今も変わってないな…と思うところもありました。
当時の社会情勢、差別や偏見の中で苦しみながらも生きていく様、主人公の心の動きや苦悩がよくわかりました。
差別や偏見の不条理にやり切れない思いになりますが、最後に友と伴侶と子供達の存在に救われた思いがしました。
蝉の声、ピアノの音色がよかった。
無音になる場面があって、その時は映画館の中がシーンとなって一瞬時が止まったかのような感覚になります。
劇場まで足を運んでよかったと思えました。
明治29年の小説の意味を現代人に問う、改めて今観るべき価値のある映画。
今回、令和の時代にあってどうしてこの時期にと思ったが、「全国水平社創立100周年記念映画製作委員会」というクレジットがあり、節目の年ということだったのだ。
私は、原作の島崎藤村「破戒」(明治29年(1906))を昨年読み、昭和37年の市川崑監督、主演市川雷蔵の映画「破戒」も観た。これは原作の進行通りではなく、特にインパクトの強いところを独特の映像美で重苦しい主人公の心の中を表現していたように思う。
今回は、市川崑監督のとは違い、原作のストーリ展開に沿った形でより現代の我々に受け入れられる作りになっていると思う。役者もよく、本当に涙が出るところもあった。
出自の秘密を隠し通すように言われて育ち小学校教諭にまでなった主人公ではあるが、部落民差別を当然のごとく主張し横暴な態度の同僚の教諭の出現によって事態は大きく動いていく。政治がらみもあり、100年以上も前の原作を映画にしたこの作品は、現代に生きる我々にとってもどこか根深いところでその本質が脈々と流れているのではないかと、考えさせてくれる映画であった。
どんな境遇にあれ、社会を正すために立ち上がる人間に対して、自己の地位・利益を保持し続ける上から目線の人間が当然のごとく罵倒する。一見、部落民という表立ったものはないかもしれないが、貧困や職業、病気など様々なところで社会から見放された人がいる。
今回、平日の昼頃の上映であったが30人ほどの観客がいた。若い人たちにも是非見てほしい映画である。主役の瀬川丑松(間宮祥太朗)とその同僚の銀之助(矢本悠馬)の二人のゆるぎない信頼関係に心打たれた。
キャストと演技は素晴らしい!
この映画が、どの程度の史実に基づいているかはわからない。また、原作も読んだことがないため、どこまで原作に忠実かもわからない。
キャストと俳優陣の演技は素晴らしく、この映画の見応えをつくり出している。
現代の日本では身分制度はないが、職業や学歴や家柄などで、人間というものは優越感を持ちたい生き物かもしれない。
時代背景から考えると、江戸時代から時代が変わったとはいえ、現代より差別意識は、より強かったことは確かだろう。
反戦についての思想は、現代にかなり寄せているようにも感じられる。
やはり、こういった作品は原作を読んで、時代背景を確かめないと評価は難しい。
興味のある方は映画館で、自分の目で確かめてみてほしい。
間宮さん釘付け
今、旬な間宮さん↗️ヤンキードラマも当たり役だけど、まじめな役柄も見たくて観賞しました。
先生役もいいです。自身の出身を隠し、しほさんへの思いにも苦悩し悩む姿には美しく、はかなく、演技に引き込まれました。観賞前はまさか泣くとは思ってなかった。3回泣きました、子供たちに出身を告白するシーン、同僚が最後まで優しすぎるシーン、お見送りシーン。観てよかったです。何か勉強を頑張ろうと思えるようになった。間宮さんの生徒になったつもりで(笑)苦手なPC 勉強します。
間宮さんの目力、ステキです、しほさんの控えめな演技もよかったし、眞島さんもよかった。
破戒の意味
原作は未読。
部落出身というだけで宿泊していた宿屋から追い出され、宿の畳を全部張り替えると言われ、挙句の果てに石まで投げつけられるという冒頭。時代感を描写する凄まじい始まり方だった。
その後も描かれるのは部落出身者の状況の過酷さ。そこまでひどい扱いだったのかと思わせるのに十分な展開だ。でも、本作のメインテーマは破戒(戒めを破る)ということ。自分が何者か、また何者かを明かすかどうかはとても大事なこと。アイデンティティを確立しようとするその姿はとても勇気をもらえるものだった。100年以上前の話だけど、現代にも通じる内容だった。とても重いがしっかりと受け止める必要がある。
唯一気になったのは言葉遣い。この時代の設定だと仕方ないとも言えるが、仰々しい感じがしてしまう。時代劇とは違うし、現代の言葉とも違う。昔の日本映画でも感じてしまうことだが、若干戸惑ってしまう。
被差別部落出身の教師の葛藤
島崎藤村の破戒を間宮祥太朗主演で60年ぶりに映画化したとの事。
亡くなった父から自身が被差別部落出身である事を隠し通すよう強く言われていた瀬川は、地元を離れ小学校の教員として働いていた。言葉使いも丁寧で、生徒に慕われる瀬川だったが、出自を隠していることを悩み続け、下宿先の士族出身の志保を好きになったが、告白出来なかった。そのうち瀬川の出自について学校内外で部落出身じゃないかと疑念を抱かれるようになり、瀬川の立場は危ういものになってきた。苦しみの中、瀬川は被差別部落出身の思想家・猪子蓮太郎に傾倒していき、そして・・・てな話。
日露戦争の頃だから120年近く前の明治時代の設定で、先日観た、私のはなし部落のはなし、よりはるかに差別意識が酷かったのだろうと想像し、主人公の気持ちになって悲しくなった。
アメリカの黒人に対する差別、かつてのドイツでのユダヤ人に対する差別、トルコなどでのクルド人に対する差別、中国でのウイグル人やチベット人に対する迫害、日本で現在も続いている在日朝鮮人への差別など、世界中で差別は決して無くならないものなんだろうと思う。
人類皆兄弟、自由で平等というのは理想だろうが、人間は弱い生き物だから、自分より下と思える人が居ないと精神的に持たないのかもしれない。明らかに肌の色が違うなど、見た目が違う差別より、隠し通せと言われるような見た目が全く変わらず、自分のルーツに関わる部落差別は奥が深いのかもしれない。
そんな事を考えながら、悲しく涙が出そうになった。
瀬川役の間宮祥太朗が素晴らしい演技を見せてくれた。
ヒロイン役の石井杏奈が凛として清楚な感じで良かったし、学校での友人役の矢木悠馬の友達思いの言動が素晴らしかった。
楽しい作品ではないが、多くの人に観て、知って、考えて欲しい作品です。
余韻にひたってます
本当によい作品
期待以上だった
間宮祥太朗さんはじめ
みなさんの演技力
映像のうつくしさに
感動、泣きました
主人公、親友、恋人、
尊敬する活動家‥
それぞれの葛藤と激情を
静かに抑えながら
希望は未来を照らすように
描かれてた
差別、偏見は今もある
自分に引きつけて
考えさせられた
まだ余韻です
多くの人に観てもらいたい
もっともっと上映館増えますよう🙏
我は穢多なり
明治30年代後期、差別部落出身の出自を隠し、長野の尋常小学校の教員をする青年の話。
明治になり身分制度が廃止されてもなお、色濃く残る差別を背景に、幼少期から父親に出自は隠し通す様に言い聞かされてきた青年が、身を置く寺で出会った女性との恋や、出自を隠さなければならない現実に葛藤するストーリー。
出身地方や被差別部落出身の文筆家にして思想家の猪子蓮太郎に傾倒する様から、隠していた出自についての噂が立って…。
産まれも育ちも東京の自分の周りでは、幼い頃から既に所謂同和問題なんて聞こえて来なかったし、学校でも同和教育なんてなかったけれど、就職した際に会社で同和教育なるものがあり、西の方の出身の同期に学校でもあったと聞いて驚いた記憶が…。
ネットで情報が入ってくる現在に於いては、色々とキナ臭い話も聞こえてくるけれど。
今作の時代の世間では当たり前にあったし、教育者や政治家にあっても発言に矛盾するところのある部落差別問題が罷り通っていた状況下。
こんな簡単な話しではないとは思うけれど、人に惹かれる人にはそれなりの理由があるし、子供は純粋だしみるべきものをちゃんとみて感じているということですね。
映画化するのであれば
企画、脚本、監督、構成、カメラ、配役、音楽すべてにおいて中途半端な映画になってしまった。
最初の宿のおかみ、校長、しほ、住職、丑松ほか、ひとりひとりの技量どうこうではなく、配役ミスだと感じた。
小説を読んだときは胸が苦しくなるほどにつらかったが、この映画では丑松の心の極限の描き方が浅すぎた。丑松の感情のピークを、教員室でのやりとりに持ってくるべきではなかった。ただ大声を出させただけ、演出ありきの演技になってしまった。
カメラワーク、音楽もそう。
まるで時代劇のような撮り方では映画としての値打ちがなくなる。ドラマでもよかったのではないか。
音楽も効果的に使われたシーンが一度もなく、あえてそうした可能性もあるけれど学生作品の静かなドキュメンタリー映画を観ているような感覚に陥った。
もったいない、もったいない。
この題材を映画化するのであればなぜもっと詰めることができなかったのか。
じゃあ、監督や役者は誰がよかったのか?と聞かれても思い浮かばない。
日本にはもうこういう役を演じることができる若手の俳優がいないのかもしれない。
ドラマも映画も同じ顔ぶれをグルグル使いまわしているだけ。
監督も中の上はたくさんいるけれど、このテーマを撮ってもらうならこの人!という人はいない。
島崎藤村の破戒を熟読したスタッフはどれだけいたのだろうか。
われは穢多なり。されど穢多を恥じず。
個人的に最近、被差別側の小説や映画に凝っている。サンカや非人、穢多の話は、今では歴史的にも、人々の記憶的にも、そしてなにより彼らに対する差別意識自体が薄れゆくものとなっており、それは望ましいことだと思う。裏返せばそれだけに、この映画の訴えるものがなんの予備知識もない人にどこまで伝わるのかの老婆心はぬぐえない。
先日観た「橋のない川」一部、二部の中で、しきりに島崎藤村「破戒」の名が出てきた。それきっかけで読みだしてみると、偶然にもまもなくこの映画が公開するという。そこで今日の鑑賞に間に合うべく読み進み、場面は選挙応援演説の弁士として猪子蓮太郎が登場するところで昨日(7/8)の昼はいったん休止。そこに、安倍元総理の銃撃事件のニュースが飛び込んだ。心がざわつきながら読みだしたら、その猪子が暴漢に襲われる場面へ。鳥肌がたった。まさに、現実と小説の中がシンクロしてしまった感覚だった。いっきに明治の信州飯山の空気の中に身を置いてしまった気分になった。
映画の中で丑松は、常に悩み、苦しみ、迷い続ける(間宮祥太朗がこの苦悶する丑松を実によく演じている)。それは自分の素性ゆえだ。その丑松は言う。「差別と言うものは人の心から簡単にはなくなったりはしないと思うんだ。また新しい差別が生まれるだけだ。」と。その訳を「人は愚かではない。弱いのだ。」と。それが本質だとするならば、支え合わなければいけない。自分の弱さを人に晒し、人の弱さを補ってあげ、そして互いに良きところは称えるべきだろう。・・と、この言葉を打ったところでハッとした。今、広告機構のCMで「叩くより称え合おう」ってやってるじゃないか。それだよ、それ。でも人は、やはり弱いのだ。称えることが、怖いのだ。だから自分の居場所を守ろうとして、自分と意見の違うものを攻撃したり排除しようとする。その浅ましき人物(たとえばここでは校長や勝野)はいくらでも現れる。だから、自分が強くなるしかない。その手段として丑松は、勉強をしなさい、と説いていた。彼の説く、勉強をしなさい、は深い深い意味が込められているのだよなあ。
東京に旅立つ丑松には、志保という良き伴侶がいる。そして、銀之助というよき友人であり理解者もいる(矢本悠馬がまた実にいい)。彼もまた東京に出るのだから、また心強い友に支えられて生きていけるだろう。この先待ち受ける困難も、たぶん丑松なら乗り越えられる、そう思えた。
小説と比べると、やはり現代的な倫理観による演出が随所に。それはそれでいいのかなとも思う。ラストも、丑松たちが目指す場所がアメリカテキサスから変えられて東京になっている。これも、これでいい。だって、その方が身の丈に合っているじゃないか。それに、アメリカというと、どうも、逃げたような印象があったもの。しかも小説の終わり方が唐突な感じだったので、映画でしっかりお見送りができてすっきりさせてもらえた気分だった。
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