劇場公開日 2023年2月17日

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「ラスプーチン?」ベネデッタ 津次郎さんの映画レビュー(感想・評価)

3.5ラスプーチン?

2023年11月7日
PCから投稿

ダニー・ケイの映画に虹を掴む男(1947)というのがある。後年ベン・スティラー主演でLIFE!/ライフ(2013)としてリメイクされたが、原題はどちらもThe Secret Life of Walter Mittyである。スティラー版をご覧になった方は多いと思うが主人公ウォルター・ミティには重篤な妄想癖がある。妄想というより白昼夢という感じでいったん入り込むとまるで幽体離脱しているかのように現実生活が疎かになる。妄想の中に住むウォルター・ミティ、ゆえにThe Secret Life of Walter Mittyなわけである。

ベネデッタを簡単にいうと妄想癖をもった女がまきおこした騒動である。妙な解釈に思われるかもしれないが、一連の事件は奇跡が信じられている17世紀の修道院ならじゅうぶんに有り得る。加えてベネデッタはメンヘラを患っている。もともとなにかと小賢しい(こざかしい)少女だったのが、禁欲的な修道院という特殊環境で精神疾患(メンヘラ)が伸び伸びと増長し、且つ妄想癖と合体し、ベネデッタというトンデモ女がうまれてしまった──という話である。

こういったメンヘラ女(男でもいいが)は案外珍しい存在ではなく、わたしたちの身の周りや著名人の界隈にもいる。彼女(彼)は腐った果実のようにたったひとりで周囲の健全な人々を精神的にあるいは肉体的に破壊していく。あたかも謀略のようだが、本人は無自覚だ。謂わば「自作自演という天然」をもった怪物である。

ベネデッタの惑乱は教区にいることでさらに増長する。さまざまな現象に対して信者らは“神の意思”をからませるからだ。
彗星が降ってくるシーンでは神がお怒りだと言って恐れおののく。ペストだって神の怒りである。こういった神憑り・迷信によってかれらは怯懦である反面、みずからの欲望が犯したことの申し開きにも神は使われる。

たとえばサドのジュスティーヌで悪徳僧侶たちはジュスティーヌを凌辱するたびにそれを主のせいにする。性欲をコントロールできなかったのは主の御心かもしれない──という曲解によって責任のがれをはかりみずからの精神的安寧を保つわけである。

聖職者にはある種の欺瞞があると思う。

たとえば遠藤周作の沈黙という小説がある。小説よりスコセッシの映画として知られているかもしれないが、沈黙は誰が沈黙しているのか──といえば“神”である。残酷な宗教弾圧に遭いながら、神に忠信を尽くしているのに神はいっこうに応えてくれない。その状態を“沈黙”と言ったのだ。ヴィスコンティやベルイマンが使った“神々の黄昏”とか“神の不在”も同様に「人間界は神がいないかのようにヒドいor愚かしい」ということを示している。しかし“神”なんて現実には存在しないのだから応えないのは当然である。

ところが宗教信者は人間が悪をはたらいたり自らが救われないことを神がいないからだ──という立脚点をとる。その依存を欺瞞だと言っているのだ。
やがて、世の悪を神のせいにするばかりか、みずからの犯した悪をも神のせいにする。宗教信者にはそのような欺瞞が生じやすい。(のではなかろうか。)

いま行われている戦争もそうだが信者・宗教人というものはあるていど“神のせいにする人たち”という見地をもったほうがいい。

そのように現実をも曲解する信心によってベネデッタの奇行が守られたことでベネデッタは一時的にせよ恣(ほしいまま)の状況をつくることができたのだった。

反対に、ランプリングが演じているフェリシタ修道院長はまともな人間性をもっている。少女時代のベネデッタにマリア像が倒れてきたにもかかわらず無傷だった──という出来事があったとき、娘のクリスティーナにこう言った。
「奇跡なんてキノコみたいにやたら生えてるもんじゃない。それに想像以上にやっかいなものよ。」
フェリシタ修道院長は立場上奇跡じたいは否定しないものの奇跡なんてものはあり得ないという現実主義に立っている。宗教人なら信者である前にまっとうな人間であることが必要だという亀鑑のような存在だ。しかし、まともであればあるほどメンヘラには脆い。そういう理不尽が描かれている。

したがって映画の紹介には同性愛のことがメインに揚げられているが、ご覧のとおり、ベネデッタで強烈なのは同性愛が描かれていることではなく、たった一果のメンヘラ女がまっとうな人間たちを駆逐してしまうこと、むしろそれを主題とした映画、言ってみりゃラスプーチンの女版といえる。

imdb6.7、RottenTomatoes84%と90%。
アメリカの歴史家Judith C. Brownの著作「不謹慎な行為: ルネサンス期イタリアのレズビアン修道女の生涯」をアレンジしてある──とのこと。

バーホーベンは復調が継続しておりオランダ時代のように生生しいが、わざと露悪・扇情的なつくりという感じはあった。

ベネデッタは自作自演に無自覚だが自身が神の嫁であるという境遇について疑いをもっていなかった。すなわち無敵だった。が、時代も彼女を神のつかいとみなすような時代だった。真面目なつくりだが前作エルみたいな一種のブラックコメディといえる。(と思った。)

見応えはあったが不愉快な女だった。w。

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津次郎