エンドロールのつづきのレビュー・感想・評価
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Respect for film
映写機からスクリーンに映し出される映画の神秘的な部分が表現されていて良かったです😊
少年と友達が頭が良く、自分たちでなんとか映画を再生できるように努力する部分も良かったです!
個人的には、あらすじでヒューマンドラマという表現をしていますが、フィルムが中心になっている作品という印象でした…
フィルムを捨てるだけではなく、装飾品として生まれ変わる表現は映画のラストとしてまとまっているかなと思いました!
映画中の料理が美味しそうでインドカレーを食べたくなりました笑
フィルム映画からデジタル映画へ
映画が大好きな少年が、街の映画館に潜り込んで、映画をタダ観するために知恵を絞ったり、最後には、映画フィルムを仲間と盗んで自家製の映写機で上映しますが、やがて、映画はフィルムからデジタルに取って代わられ、少年が愛したフィルム映画の機材やフィルムがリサイクル工場廃棄されるまでの悲哀を描いています。
フィルムカメラが衰退して、街の写真屋さんが廃業していったのを思い出しました。
幻想的なシーンや、貧しいインドの暮らしぶりが印象に残りました。
お母様のお手製のお弁当が芸術的!
映画に憧れる少年のヒューマンドラマです。
普段父親の手伝いで駅のチャイ売りをしている主人公サマイが映写技師のファザルに出会い、お母さんお手製の凄くおいしそうなお弁当と引換えに映写室で映画をタダ観するところからストーリーが動き始める具合です。
枠組みとしてはトルナトーレ監督の名作「ニュー・シネマ・パラダイス」みたいな感じですが、これはオマージュなんでしょうかね?
ただ、「ニュー・シネマ・パラダイス」が感動的、情動的な演出に傾倒しているのと比較し、本作は画面構成としては光を意識した点で芸術的であり、近現代のインド社会の格差問題の移り変わりを盛り込んでいたりと、ちょっと落ち着いたイメージでした。
サマイ君は近所の悪ガキ仲間と映画を観たいがために派手にやらかすんですが(笑)、そんな中でも時折り「映画は光の芸術」みたいな大人びた視点・・・芸術的演出が挿入されるところをどう見るかで、この作品の評価は違ってくると思います。
ただ何より芸術的?だったのは、サマイ君の若くて綺麗なお母さんが作る料理のシーン、そして美味しそうなお手製のお弁当です!何度もその調理過程やお弁当に詰める工程まで詳細に示してくれていて大変印象深かったです。
お母さんのサマイ君と家族に対する深い愛情、そして優しさがそのシーンを見るだけでひしひしと伝わります。いちいち語らんでもこの家族は、見た目は控えめなお母様が頑張って支えてるってのがよくわかる演出だと思いました。
エンタメ感動作とはちょっと違うかもしれませんが、何度か見返したくなる味わいのある作品と思います。
では。
思ってたのと全然違った作品(汗)
勝手に感動作と決めつけてたのが仇となった感じ。
映画作りの作品と思ったらちょっと違った。
9才のサマイと映写技師を中心に進む展開。
映画作りじゃなく、ある物を作るストーリーがメイン(笑)
3時間の映画のうち1時間は闇を観させられているとか勉強になります(笑)
サマイが可愛いのに犯罪行為を連発。
サマイのお父さんは怖い。
サマイのお母さんが作るご飯は美味しそう。
インドの景色は美しかった。
唐突な展開で話の前後に繋がりが無いシーンも散見。
何だか都合の良い方向に進む感じで引き込まれ感は低め。
ある映画に関係するものがスプーンとブレスレットになるとは思ってもいませんでした。
ブレスレットの柄で監督の名前が連想出来るのにビックリ( ´∀`)
カースト制のバラモン出自を背景に持ちながら異様なまでに映画にのめり...
カースト制のバラモン出自を背景に持ちながら異様なまでに映画にのめり込み、
貧困から抜け出す夢を持ち、
村を捨て、家族からの離別をも後押しされ走り出す。
その行き先は、
映画フィルムに焼き付けられた数々の名画を生み出した映画監督への憧れなのだろうか!?
映画フィルムから再生されたプラスチック腕輪がサリーで着飾ったうら若き女性達の腕に幾重にも幾重にも身に付けられた姿が華やいでエンドとなった。
本編のあらすじ
インドのチャイ売りの少年が映画監督の夢へ向かって走り出す姿を、同国出身のパン・ナリン監督自身の実話サマイとして描いたヒューマンドラマ。
サマイは母が作る弁当と引き換えに映写室から映画を見れる交渉が成立し、
サマイは、映写窓から見る様々な映画に圧倒され、自分も映画を作りたいと思うようになる。
映画に憧れる少年たちが映画作りに奔走し、わちゃわちゃする様子が描か...
映画に憧れる少年たちが映画作りに奔走し、わちゃわちゃする様子が描かれる。背景として、インドの貧困、階級格差、教育格差がさらりと出てくる。
散々言われ尽くしているようにインド版ニューシネ。
だけど物語はそこまで展開しない。
映画とは何か、光とは何か、画的なカタルシスで魅せる映画。物語を期待してみると肩透かしを喰らう。
母の料理と愛
片田舎に住む少年サマイは基本、楽しいことに貪欲です。物語の序盤の様子だと「一匹狼タイプ」なのかな?と思いきや、実は他人を楽しませることが好きで、またサマイの刺激的な提案に触発されて一緒に楽しむ親友達との「廃品と想像力(と、時折の拝借?)」で切り開く遊びに、観ていて自分の子供時代を思い出し懐かしさを感じます。
そんなサマイ、好きなことへの強い情熱と執着から、巧くいかないとき物に当たったり、ややチートが過ぎたりとちょっと心配な点も見せますが、それでも彼を見つめる大人たちはサマイの本気を理解しています。
特にサマイの初めての「師匠」となるファザルとの関係、映写室シーンが印象強く、この映画の紹介にちょいちょい「インド版ニュー・シネマ・パラダイス」というのを見かけますが、それより何より言わずにいられない魅力は、ファザルも夢中になるサマイの母が作る料理、そしてその母親役リチャー・ミーナーが素晴らしい。息子の隠していることに何となく気づいていても、信じてサポートしてあげる優しさで、終盤の展開はすっかり彼女に感情移入してしまいます。
シーンによってはリアルよりも、サマイが見て感じているような幻想的な世界観で表す見せ方も効果的で、サマイの将来に期待しつつ心が洗われるような気持ちで劇場を後にする日曜の午前中でした。
ママのお弁当、美味しそう!
インドの田舎の豊かな自然と、仲良し6人組の生命力あふれる子どもたち、ママがスパイスから作るお料理。素敵な映画でした。
サマイの演出する「映画」の一場面を紙袋越しに覗くシーン、映写機作っちゃうところ、みんなで音声をつけて上映するシーン、カラフルなガラス越しに街を眺めながら駆け抜けるシーン、好きでした。
ちょっと、あまりに急な展開があったり、工場見学的シーンには、ちょっと、ん?と思いましたが‥‥
単純なストーリーだが切り口の幅が広い
インド映画は初めて観る。監督の少年時代の映画制作への夢の第一歩となった作品だが、色々考えさせられた。映画制作への夢となるとニューシネマ・パラダイスなど似た作品との兼ね合いがどうだったか。むしろこの作品で注目したのはインド文化と社会。インドの食文化がお母さんがお弁当をチャイに渡すシーンなどからわかるし、カースト制度の現実もこの映画から知ることができた。インド社会、文化を知ることができただけでも観る価値がある。
実話
3000人から選ばれたサマイ!
とっても映画好きなんですね!
映画館で働いていたおじさんは、出会いに感謝ですね。
最後は、お父さんが光の勉強に賛同してくれて良かったです。
でも最終的に映画製作はどうなったの?
ちょっと悪たれだがひたむきなインド人少年(天才肌)の映画道。カレー好きの皆さんもぜひ!
まあたしかに、インド版『ニュー・シネマ・パラダイス』って触れ込み通りの映画ではあるわけだが、あまり『ニュー・シネマ・パラダイス』みたいなのを期待すると、なんとなく思っていたのとは違うってことにもなりそうな気も(笑)。
まずもって、どちらも映画に「夢」を仮託した映画であることに変わりはないが、
『ニュー・シネマ・パラダイス』が基本「ノスタルジー」の映画であるのに対して、『エンドロールのつづき』は、むしろ未来を見据えた映画だということができる。
すなわち、前者における映画は、過去へとつらなる郷愁と懐かしさの漂う文化的遺産の側面が強いのに対して、後者における映画は、技術革新と科学の成果物であり、理系的才能が田舎を脱して世界を目指すためのよすがとして描かれている。
映画は、少年を過去ではなく、未来へと導いてくれる近代文明の灯なのだ。
それから、どちらも少年と映画技師との心の交流を描く映画ではあるのだが、
『ニュー・シネマ・パラダイス』の技師アルフレードの場合、少年トトにとっては明快に「父親代わり」の役割を果たしていたのに対して(トトの父親は戦争に行って行方不明になっていて、そのうち戦死認定が下される)、『エンドロールのつづき』の技師ファザル(なんか見覚えのある顔だと思ったら、チャールズ・マンソンによく似てるんだな、この俳優ww)は、少年サマイとはギブ&テイクの共犯関係にある「同志」に近いような存在だ。
サマイには、厳格ながらも愛情深いチャイ売りのお父さんがちゃんといて、「父と子」の話はそちらで十分に出てくる。少年に村を出ることを諭して送りだすのも、『ニュー・シネマ・パラダイス』ではアルフレードの役割だが、本作ではお父さんの役割だ。
ファザルは、「街に住む叔父さん」とか「趣味の先輩」のような存在であり、ラストで「サマイがファザルを救う」ところなんか見ても、じつは「対等」に近い関係なのでは、と思えてくる。少なくとも、サマイがファザルに「依存」したりしている気配はまったくない。
あと、どちらも映画狂の少年が映写室に入り浸って、さらに映画にのめりこんでいく話だが、
『ニュー・シネマ・パラダイス』のトトが純粋に「映画」それ自体が大好きなのに対して、『エンドロールのつづき』のサマイは、映画の内容以上に「仕組み」のほうに興味を持っている「技術者」肌の天才少年だ。
いっとう最初に彼が、映画館で「映画にハマる」際に、まずはいきなりスクリーンの白い布を触りに行き、そのあと「映画の映るスクリーン」ではなく、ただひとりだけ観客とは「逆向きに立って」、多色の光線を発している「映写機」の方を凝視していたあたりに、彼の真の関心が奈辺にあるかが窺い知れる。
このあと、サマイは順調に「映画自体の魅力」にもはまっていくのだが、「映画好き」としての衝動が駆り立てる先が「映写機づくり」だというのも、やはりサマイの一風変わった特質を表している。
彼の心をわしづかみにしたのは、なによりオプティカルな仕掛けとしての面白さ――光の魔術だった。彼の映画とのかかわりかたの基本にあるものは、監督のそれというよりは、エジソンやリュミエールのような「発明家」のそれだ。
もう一点、一番観客の印象を左右しかねない「相違」がある。
どちらも子供たちの姿を描いた「児童映画」ではあるが、『ニュー・シネマ・パラダイス』のトトが純朴でいたいけな愛らしい少年だったのに対し、本作のサマイははっきりいって悪童である。
悪さもすれば、不法侵入もするし、盗みもする。しかも、えらくナチュラルに。
怒られても、あまりこたえていないというか、へこたれない。
その意味では、むしろフランソワ・トリュフォーの『大人は判ってくれない』に近いジャンルの映画なのかもしれないし、悪童たちが自転車で疾駆するシーンは、同じトリュフォーのデビュー短編『あこがれ』(原題は「悪たれたち」)を明らかに意識した演出だと思う。
ただ、「孤児だから」とか、「貧困だから」というような、観客を納得させてくれる切羽詰まった理由があるわけではなく、「まあ子供だったらこのくらいやるよね」くらいのノリで悪事をどんどん積み重ねるので(笑)、このへん「なんだこの悪ガキども?」となってしまうお客さんが、日本ならいてもおかしくない。
まあ、突き詰めて考えると、結局はお国柄の相違なんだろうなあ。
日本のやんちゃな子供が出てくる「児童映画」というと、小津安二郎の『おはよう』なんかが思い出されるが、ガキどももここまでの無茶はしてなかったもんね。
幼い頃から、泥棒行為がふつうに行われているからこそ、この映画に出てくるような、鑑別所というよりは一定期間子どもに罰を与える拘禁施設みたいなのが存在するわけで。
私は、どちらかというとふだんはスペインの『ザ・チャイルド』とか、あの悪趣味きわまる『ベター・ウォッチ・アウト』とかを腹を抱えて笑いながら観ているくちなので、しょうじきあまり気にしませんが。
サマイのぶっ飛びぶりというか、振り切れた行動力というのは、ある意味、天才ならではのアスペっぽさというか、若干発達っぽい部分があるような気もする。
自分も、京都の某有名塾に小学生のとき通ってたことがあるけど、特進コースとかにいるんだよね、まったく悪気なく、面白いからというだけの理由でろくでもないことばっかり思いつく頭のいいやつって(笑)。ちょっと、道徳観念が「面白さ」の追求に負けてるやつ。
サマイの場合、「映画が好き」だから、「好きこそ物の上手なれ」で成長していったというよりは、「もともと溢れんばかりの才能があって、その矛先が映画に向いた」タイプだと思う。
街の悪童たちのあいだでも、リーダーシップを発揮しているのは常にサマイだし、マッチを使ったお話の語り聞かせとか、もともとやっている「遊び」自体が独創的だ。
だから、彼は目的達成のためなら、平気で盗みもやる一方で、映画館の外装を塗り替えるような「善行」もする。彼のなかで、「善い悪い」は、じつはあまり重要ではないのだ。
もともと、その手の「道徳的な回路」でものごとを判断していない。
あふれる才能と決断力が、彼をつねに前へ、前へと衝き動かしている。
そういう人間だからこそ、「自前で」映写機を作ってしまったり、「自前で」村の子どもたち相手に興行を打ってしまったり、古い映写機とフィルムが捨てられると見るや、トラックを追撃して処理工場まで追いかけていったり、といった凄いことがさらっとできちゃうわけだ。
逆に言うと、彼は「英語と数学を身につけて、新しい映画の世界に対応するため」なら、「良い子」に自分の意志で変貌することができる。
サマイには、目的達成のためには、「善い事をしていたほうが、最終的には近道なんだ」と気づけるだけの「頭脳」がちゃんとあったということだ。よかったよかった。
映画としては、「泣かせる」ことを目的に手練手管を使ってくるようなことをしない、どちらかといえば、淡々として落ち着いた映画であると思う。
そのへんも、モリコーネ・ミュージックと情緒的な台詞で、徹底的に泣かしにかかってきた『ニュー・シネマ・パラダイス』とは、映画作りの方向性がかなり違う。
だから、観て「めちゃくちゃ感動した」といったタイプの映画では全然ないし、そこに期待しすぎるとたぶん肩透かしを食らうことになる。
かわりに、インドの風俗や映画カルチャーの受容のされ方、子供たちの生活ぶりなどが、とてもわかりやすく描写されているのが、ひとつの見どころとなってくる。
この「わかりやすさ」は、明らかに「他者」(非インド人)の視線を意識したもので、本作が必ずしも国内の映画ファン向けに作られたインド映画ではなく、世界公開・配信を念頭に置いて作られた作品であることを示している。
駅の売店でチャイを売る父親とそれをカップと急須をもって売りに行く子供とか、
野生のインドライオンを観察しにいく子供たちとか(生で観られるとかうらやましい!!)、
映画館内で歌ったり踊ったりと、かなりライブ感のある観客たちの姿とか、
サマイの弁当とか、体の洗い方とか、学校での様子とか、貸しチャリとか、その辺に停まってるフクロウとか、いろいろ面白すぎて追いつかないくらいだ。やっぱり、インド、異文化すぎる。
とくに「食」に関するシーンは、ふだんインド料理にそれなりに親しんでいるぶん、観ていてとにかく興味深かった(自慢じゃないが、僕は東京のカレー百名店のうち98店、エスニック百名店のうち70店に訪店済みのカレー愛好家である)。
ちょっと広瀬アリス似の美人お母さんが、クッソ美味そうなナスのカレーやオクラのカレーや包み揚げを丁寧につくるシーンが何回も何回も出てくるのだが、あれはマジでヤバいね。てか、監督これやりたくてこの映画作ったろってくらい、食事をつくるシーンに力が込められている(そういや、昔インドの弁当屋の映画があったな)。
インドでは外で料理つくるんだとか、ハーブが普通に植えられててそこから葉っぱこそぎ取って使うんだとか、「マジで右手しか使わずに料理つくらないといけないんだ」とか、観ていていろいろ勉強になる。インドで、「すりつぶす」系の調理法が発達してるのも、右手しか使えないことが影響してるのかもなあ。
もちろん、食べるのも手食。そういや、ついこのあいだ手食推奨の祖師ヶ谷大蔵の某カレー屋にいったら、真正面で青年が手でいってたが、おじさん気が弱くてスプーンで食べてしまいました。今度こそ、手食に挑戦してみないと(一緒に出てきた水が、飲用なのかフィンガーボールなのかわからなくて口がつけられなかったというw)
スプーンといえば、廃棄された映写機とフィルムの廃品加工のシーンも、映画全体のバランスを崩しかねないくらいに力を入れた形で扱われていた。
さすがにインドだからといって、あんな子供がうろうろしていて怒られないはずないので、あのシーンは一種のファンタジーというか、サマイを案内役とした「工場見学のドキュメンタリー」がああいう形で挿入されていると考えたほうがいいだろう。
あのシーンには、娯楽産業の「儚さ」や、過ぎゆく時代への憧憬といった感情もたしかにこめられているだろう。でもそれだけじゃなくて、逆を辿れば「映写機」も「フィルム」もたかだか「モノ」であり、人間の力で加工して作り上げられた「製品」なのだ、という思いも同様にこめられている気がする。
すなわち、古くなった映写機とフィルムはリサイクルをへて、新たな「製品」に生まれ変わった。では新しい映画機材はどうすればいいのか。それは、また「作ればいい」のだ。そして、使いこなせばいいのだ。
重要なのは、古いものにこだわることではない。
それを作り上げられる人間の確かな技術力と、新たなイノベーションを生み出せる発想力こそが「真の宝」なのだ。
古いものをいつまでも惜しまず、新たな技術革新にアジャストしていこう、という考え方は、ラストでのサマイの姿にも、どこか通底しているように思われる。
涙、のち、笑顔。
これが、強烈な男尊女卑と階級社会を内包しながらも、理系大国・技術大国でもありつづける、インドという独特な国の底力であり原動力なのだろうな、とふと思った。
(以下、ラストのネタバレです)
ラストで流れる声。
子供のサマイが口にする「偉大な監督たち」の名前は、みなインド人だ。
だが、大人の声になったサマイの口からは、世界中の偉大な監督たちの名前が、つぎつぎとこぼれだす。そのなかには、小津も黒澤もいる。なんでか勅使河原宏まで(笑)。
そう。
たしかに、彼は村を出て、世界を広げたのだ。
そして、映画の正統な歴史を学ぶことができたのだ。
大人になったサマイの声は、もしかして監督自身の声?
たぶん、そうなんだろう。
そしてエンドロールのあとからは、この映画が始まる、というわけだ。
ほんのちょっとした名前の「羅列」だけで「その後」のすべてを暗示する、なかなかにうまいラストだと思いました。
ちなみに終わり方は、なんかベルイマンの『仮面ペルソナ』みたいだったな(笑)。
サマイ君とても可愛くて広瀬すずっぽかった。
インドの少年が映画作りに憧れる話。どうしてもニューシネマパラダイスと比べてしまうよな。残念ながら予想と違い、感動よりもモヤモヤな2時間でした。
サマイは父親の手伝いで駅でチャイを売っている。ある日。映画嫌いな親と一緒に観た映画に興味をそそられ、もっと観たいと行動を始める。こら!チャイの売り上げ盗んで映画館行っちゃダメだろ!それも学校さぼって。あら、盗まない時は忍び込んで観てた。そりゃ見つかって追い出されるよ。つか、何度目だったの?と思ったら、運命の人に遭遇。はぁ?弁当と交換に映写室からタダで観せてあげる?それバレたらやばくね。その後もフィルム泥棒したり、ゴミ泥棒したり、やばい事ばかり。警察も緩すぎ。
何より嫌な感じは、現代なのにインドの社会が汚すぎる所。建物、乗り物、道路、鉄道、まるで100年前かと思えるほどボロボロ。母親が料理するキッチンは家の外側で地面に座って素手でぐちゃぐちゃ。国によって文化は違うのは分かるけど、インドって貧富の差凄そう。それに、英語ができないと新しい仕事できないんだ。何じゃそれ。
サマイが友達とやってる事は、映画を作るって感じゃなく、機械を作って楽しむ事。ストーリーに影響受けたシーン無いんだもん。モヤッ。
最後も時間全然無いのに、沢山の知り合いに見送られる。どうやって?サマイはインド映画ばかり観てたのに、世界中の有名監督の名前。伏線なし?
全てが納得いかず残念でした。
キラキラキラ
宝石箱のような映画でした。
光に興味のある主人公の視点で映される色とりどりの風景映像や
子供たちの好奇心、探求心、創造力
インドのカラフルな雑貨、
美味しそうなご飯にチャイ、
Galaxyという名の映画館。
色々なものがキラキラしていて、
観終わったあとにじんわり心に残っていて
ああ、良い映画だったなあと思いました。
映画を観たって感じです。 主役の少年の母が手料理を何回も作るんだけ...
映画を観たって感じです。
主役の少年の母が手料理を何回も作るんだけど、色んな家庭料理が映るから、それが良かったかな〜。包丁はなくて、まな板みたいな板に刃が付いている器具で調理していた。
インド人はこうやって生活してるのかなと勉強になった。
映画好きな少年が仲間たちと盗んだ映画フィルムを使って映像を建物の壁に映すが、何故かうまく映像が動かない。映写技師の話だとどうも昔ながらのフィルムの場合はコマとコマの間に闇を挿れる必要があるそうだ。私は館内で瞬きしてしまった。
昔を懐かしむような映画だった。少年の通う映画館も昔ながらの映写機やフィルムは廃棄され、映写室にはコンピューターが設置された。
映写機は溶けてスプーンになり、フィルムは女性たちの腕輪に変った。スプーンというのが面白く、インドでは素手で食事するようだが、その食文化についても変わるんだなぁと。
まぁ、面白かったのではないでしょうか。何か訴えるようなものがあった気がする(笑)。そう思わせれる映画は凄いんじゃないか。
見ているとき なんか社会科見学みたい って思って、 見終わったとき...
見ているとき
なんか社会科見学みたい
って思って、
見終わったとき
あれ?これってインド映画だったよな?
って思った
廃棄フィルムが生まれ変わると
上映前にパン・ナリン監督とこがけんのトークショーで期待値が上がる上がる。映像のクオリティは間違いなく高いし、ダンスも大仰な演技もないし、映画愛も伝わってくるんだけど、なぜか感動までは至らない。
盗む行為に引っかかったかなぁ。映写技師とのふれあいはよかったんだけど、感情移入するところまではいけない。
こがけんが飯テロムービーって紹介していたけど、これはホント。グジャラート州は、ベジタリアンが多いらしいんだけど、肉を使わないかわりにスパイスを使って油で揚げた野菜が美味そうで、ヨダレがこぼれそう。インドのオクラ料理は必見です。
最後は、キレイにまとまってましたね。廃棄フィルムが生まれ変わり先にビックリです。
好きって、凄いな。
わくわく感が、私にも伝わって。
まあ、やんちゃなところは😅ね。
好きって、大切
好きって、残酷
腕輪を、見るたび思い出しちゃうかもな。。
居場所が見つかるまでは、人生に違和感を感じながら、ここじゃない、これじゃないってね。
でも、見つかると。
あっ、この人生だったと腑に落ちる。
子供の頃に、見つかるのは苦しくて長くて残酷かもだけどそれは幸せという言葉にもなる。。
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