聖なる犯罪者のレビュー・感想・評価
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☆☆☆★★ ほんの少しだけ。 どこか『ディア・ドクター』を少し思い...
☆☆☆★★
ほんの少しだけ。
どこか『ディア・ドクター』を少し思い出しました。
但し彼方ほど、一見してホノボノとした雰囲気からの現実を見せつける話では無く。絶えずピリピリとした感覚が蔓延している社会状況では有りました。
いわゆる 〝 成りすまし 〃 では有るのですが、初めて人の《死の尊厳》に触れた主人公。
それまでは、何処かに 〝 面白がり 〃 の面が強かっただけに。自らの魂の浄化に繋がったのか?以後は《聖職者としての意識》を胸に秘めての日々だった様に見受けられます。
その辺りの描写は、私の胸にも響いて来たのは正直なところ。
終盤では、信者の人達に【あってはならない自らの姿を晒し】「◯の◯◯◯を」と言われた一言が、自分の中ではクライマックスでした。
残念だったのは、主人公が過ごした前半での施設の描写。
大きな男との何か訳有りな描写が有り。いずれはこの男との【何らかの関わり】は必要な展開は読めてしまうだけに。最後に起こる展開には、「やっぱり!」とゆう思いと共に。(自分としては)興味が湧かない最後では有りました。
対象の観客層として、ある程度は若者をターゲットとしていそうな感覚の作品とは思うので。致し方ないのだろう?とは思いますが。
2021年1月24日 ヒューマントラストシネマ有楽町/シアター1
英題の意味は聖体祭
「聖なる犯罪者」などという邦題からして大きな間違いを犯している。罪深い作品かと。
まず、神が彼を赦すのかは赦すでしょう。
赦さないルールを作っているのは罪深い人間だということ。
ただ、彼の行いが聖者かというと、それは明らかに違い、自分が許されたいという、ただのエゴだという事。
聖職者たちは神の代弁者であり聖書の解釈者です。という事は、赦しを求めるものに救いを与える者となります。救いを与えるものが、はなから罪人であっては話にならない。たとえその道を赦されることがあったとしても、最後に彼がした行為そのものが、やはり聖職者にはなれない、ただのエゴという証。
町の人が受け入れたのは、そこの人たちが救いを赦しを求めていたからで、これはどこにでも起きる不運な事故のようなものだということ。自分勝手で嘘つきはどこにでもいるから。
ショッキングな実話からの着想だけれど、映画としてもお話になならないし、ただただ宗教を馬鹿にしているのでしょう。盲目的な信仰心は危険ですよってね。
真理や宗教は世界中でその解釈はまちまちな上、もともと神教と密接に生きる日本人には、その信者でもキリスト教のことを理解するのは難しい。だとしても、聖なる犯罪者などという言葉はふざけ過ぎだと思う。
この間違った邦題こそ、罪が深い問題です。
結局のところ人の信仰心は信じたいものを信じたいように信じてしまいがちで、何か問題があると全ては自分以外のもののせいにする。その弱さが悲しい。
聖職者とは?
少し怪しく感じながらも、ダニエルを神父として受け入れようとする村人達。もっともらしいことを言っているようであっても、神父ではないのだから人を騙していることに変わりはない。結局は素性はバレてしまって、その時の村人達の気持ちを思うと気の毒である。
罪を犯したとしても反省し、聖職者になったとしても構わないとは思うが、神学校にも通えないという決まりがあるのだから、そこは守るべきではないのか?
ダニエルはまた刑務所に戻るが、問題を起こしてしまう。これでは神父になどなれないよな。
100%の人間なんかいない たとえそれが聖職者でも と思う
出だしの主人公の雰囲気が不気味で且つ場所が少年院と言うこともあり気が進まなかった。
物語が進んでいくうちに偽司祭から出てくる言葉は村人の心を打ち信頼を勝ち取っていくのだが自分もその教会にいたら勇気づけられたんだろうと思う。
犯罪を犯したため聖職者にはなれないと言うが「罪を憎んで人を憎まず」というのはキリスト教の教えではなかったのか?
どこの世界でも犯罪者はその罪を背負って一生生きていくのだろうけれど厳しい現実を見せられた気がする。
個人的にエンディングは納得いかなかった。
人間は生きている内に多かれ少なかれ嘘をついたり罪を犯すと思う。
教会のお偉いさんは許すことが愛ならもう少し温かい手を差し伸べられなかったのだろうか?残念。
悪いことしてもみそぎとか言う言葉で済ましている政治家の方がどうかと思うが・・・・ちゃいますか?
赦すことの難しさ
赦すことは忘れることでなく、愛すること。
私は根に持つタイプだから、忘れることも苦手。
ましてや愛するなんて…。
主人公の司祭としての行いや説教には愛があった。
彼の偽りを、刑務所で世話になった神父にここにいなかったことにしようと言われた時、彼は言う。
彼は存在を認めて愛して欲しかったのだ。
※でも、身分を偽ることは犯罪なので、仮釈放でそれを行なった主人公は真に更生できていたとは言えないと思った。
「敬虔さ」と「狂気性」
実話をベースにした話題作だけあり、時節柄にもかかわらずお客さんが多かったです。
ポーランド作品ということで、「社会的背景」がわからないこともありますが、映像やシナリオとともに主役の存在感が素晴らしかったです。
過去の罪を隠しながら、聖職者になりすましている、主役のバルトシュ・ビィエレニアさんの眼力による演技は独特で、「敬虔さ」と「狂気性」の危ういバランスを見事に演じていました。
すべてが表現されていないため「余韻」があり、鑑賞後の印象はそれぞれ違うかもしれません。
僕は「良い映画を観たなぁ」と思う一方で、「宗教観」や地域社会の「閉塞感」などに共感できる要素が少なく、感情に響く部分は少なかったようにも感じました。
しかし素晴らしい映画です🎬
人に資格を与えるのは誰か
笑福亭鶴瓶の「ディア・ドクター」とプロットが重なる。
誰かが与えた資格=免状とか卒業証書ではなく、
「誰がなぜ彼をその任に立たせたのか」が、実は献身の「肝」なのだと気付かされる物語。
・・・・・・・・・・・・
僕が小さい頃行っていた教会は、初代の牧師さんは郵便局長さんだったそうだ。
戦争で聖職者がみんな死んでしまったので、生き残った信者たちの中で話し合ってその郵便局長さんを牧師として立てたのだと。もちろんその手の学校は行っていない。
白黒の面長の写真がかかっていた。
・・・・・・・・・・・・
映画は、「資格」からは最も遠かった男と、神と、信者が四つに組んで語らう。
その任に最もふさわしいのは誰なのか、そこを探る祈りは、その祈りの実りとしてその現場でしか成り立たないコミュニティを誕生させる。
神様と村人とトマシュが決めるのだ。
どこぞのバチカンがお墨付きを決めるのではない。
2000年前のナザレのイエスこそが、父無し子の田舎大工として、無資格者の棟梁という罪名のゆえに、彼は十字架にかけられたのだがなぁ・
皮肉なことに、誰にも求められていないのに名士の皮をかぶった輩が 逆に幅をきかせている。―それがこの世の中だ。
その人をではなく、一枚の紙切れが、名刺と学歴が、家柄と納税証明書が、その人を保証するという。
悪い政治家や医者や宗教家が庶民を食いものにして汚い腹を肥やしていても
しかし彼らは「正式な有資格者」なんだよね。
【2021.9.7.再鑑賞】
安っぽいハッピーな終幕でなくて、これは本物だと判る。
投げられた石の波紋は村に残った。
「他者を赦したとき、人はおのが隠していた自己の罪が赦されることを知るのだ」と、どの表情も語る。
リディアの内面の演じが、素晴らしかった。
教会に神はいない‼️なせなら、私が神だから‼️❓
私事で恐縮ですが、何十年も前から、夢枕にイエスが出てきて、お前が私の生まれ変わりとゆうのです。
イエスも私も、聖書を読んだことが無く、教義も知るよしも有りません。
ちなみに、教皇も大司教も少年を犯していますが、知識は豊富です。
余談が過ぎましたが、この映画の主人公は敬虔な信者です、ハメなれなければ、最後は良い神父で終わり、町も平和です。
たかが、二千年の宗教です。
私が神だから、それで良いでは無いですか❓
神も死ぬのです‼️
罪を背負って生きる者の希望と絶望
設定自体はコメディにもなりうるような単純な嘘と勘違いの話だが、鮮烈な暴力描写とブルーを基調とする冷たく研ぎ澄まされた映像が緊張感とスリルを増幅させる。
聖者の資格すらない前科者のダニエルが、まさに"生身の人間司祭"として、固く閉ざされた人々の心を揺さぶり対立や断絶をも解き崩していく姿は、危なっかしくもあるがどこか爽快でもある。
実際にこういう事件が珍しくないという背景には、えてしてその偽神父のパーソナリティーや言葉が、資格者である厳粛な神父のそれよりもストレートに人々の心に響くという一面もある気がする。
しかし一方でこの男が本当に善人に生まれ変わったかどうかは分からない。いや、善か悪かを判断すること自体が無意味にすら思える。
過去の罪はもはや一生消すことのできない烙印なのか。
事件の加害者と被害者、聖職者と犯罪者、支配と従属、交わることのない者たちに刻み込まれた傷と揺れ動く感情。
見終わった後、色々と考えさせられる作品だが、単純に映画として面白かった!
主演バルトシュ・ビィエレニアのインパクトのある目と表情の演技は、天使と悪魔の両面性を見事に体現していて忘れがたい。
ラストで彼の目に映った自らの未来は何だったのか。
罪を犯し背負って生きる者の希望と絶望。
「人生はいつでもやり直せる」なんて明るく言い放てる人間の薄っぺらさよ。
世界によって通じる言葉が違う
主人公は感情豊かで、ときには司祭をやってもそれを務める人間性は持っている。
しかし、社会システムにはあまり馴染まない。
街で立派に信頼される司祭はできても、コミュニケーションのルールが異なる少年院に行って、そこのルールでコミュニケートすれば犯罪になってしまう。
果たして本当の自分とは? 相手を受け入れるということは?
ダニエル(バルトシュ・ビィエレニア)のギョロ目と貧弱な体つき、しかしそれが真摯に自分に向き合おうとする姿に見えてくる不思議。2018年の『COLD WAR あの歌、2つの心』に続くポーランド映画の秀作。不毛な土地の排他的なカメラ視点が魅力である。
ポーランドでは熱心なカトリック信者が多く、憧れと尊敬を抱くため、市民が司祭になりすますことが少なからずあるらしい。司祭に身分を確認することは失礼にあたるため、偽装が見破られることも少ないという。
そんないくつもの偽装事件の実話を練り合わせた脚本とのことだが、本作の主演俳優は適役だ。
表面上の人格と偽の身分。自覚がなかったとしても自分自身を「信じる」ことで相手を信じさせてしまう単純さとあやうさ。
ネット時代のSNS上で、仮面をまとった自分が素晴らしい評価を得られることと重ねられるだろう。
果たして本当の自分とは? 相手を受け入れるということは?
いくら装っても本心をさらけ出してしまえばみな同様だといいたげなラストではあるが、ラリッた眼球のような人間の業をみせつけられた思いだ。
ちょっとこのレーティングはもったいないような…、と口惜しい一作。
R18というレーティングに怖々としながら鑑賞。確かに目を背けたくなるような場面もなくはなかったけど、正直このレーティングにする必要があったのかな?と思ってしまいました。『クライマックス』(2018)レベルの描写ならまだしも。このレーティングのために鑑賞を躊躇する人がいたとしたら、ちょっともったいない内容でした。
全体的なあらすじは、予告編から受ける印象からそれ程かけ離れているようには思いませんでした。その一方、ややエキセントリックな(偽)神父につい引き込まれ、彼を受け容れていく純朴な村人達…、というありきたりな展開をするようで実は…、という流れが面白く、中盤以降はダニエルの信仰心の行方と共に、この村の底知れなさへの好奇心が募ったり。
カメラをまっすぐ見据えるバルトシュ・ビィエレニアの鋭い視線と彼の身体的なパフォーマンスが印象的ですが、実は本作では、非常に「言葉」そのものの重みを強調しています。最初はぎこちなく、大仰な宗教的表現を操っていたダニエルが、やがて自分自身の言葉に鼓舞され、力強く信仰の重要性を訴えるようになっていく過程が素晴らしいです。
脚本家のインタビューで知ったのですが、本作は実在の事件を基にしているものの、実はポーランドでは同種の事件は毎年のように起きているとのこと。これが本作最大の驚き、というか、ポーランドの人純朴すぎ!
権威と形式と信仰と・・・
4世紀。キリスト教がローマ帝国の国教になった時より教会に政治要素が色濃く入り込む。帝国皇帝すら教会員としたローマ教会は権力を増し、他の教会を屈服させた。
その後、中世には皇帝権と教皇権という2つの権力・権威が相補的役割を果たす。
強力な権力を得たカトリック教会は腐敗し、厳し過ぎる戒律は守られず、システムとルールは形骸化していく。
しかし、現代のありとあらゆる「組織」も似たようなものではないか?
「権威」には逆らわず、形骸化したシステムに疑問も持たず、教えられたルーティンワークをこなすだけの者は決して少なくないと思う。
しかし、本当に人の心を動かす事が出来るのは「形式」ではなく「本質を捉える事」だ。
ダニエルの務めた告解やミサは、形骸化した説教よりも人々の心を揺り動かし、救いを与えた。
うがち過ぎた邦題が映画の本質を誤解させる事例が多いと感じるが本作もその一つだ。
原題「Boże Cialo(ボジェ チャウォ)」は日本語では「聖体節」
クリスマスのミサで信徒が聖体(ホスチア、キリストの体を意味する素朴なパン)を頂くシーンを知っている人は無宗教を自認する日本人にも沢山いるだろう。ホスチア拝領自体は日常的に行われるが特に意味を強調する為、1264年に教皇庁が聖体節を制定した。まぁ、イースターやハロウィンのような「宗教的祭日」だと理解すれば良い。ポーランドでは満9歳で聖体拝領が許されるので見事な刺繍の施された民族衣装でパレードに参加する。
そう。ダニエルが安息の未来を捨てて、自ら信仰する正義に従い「運転手を共同墓地に葬る」と宣言する日こそが「聖体節」だ!
町民の信頼を勝ち得たダニエルは「余計な事」さえ言わなければ、そのまま司祭の椅子に収まっていられた。
町の最高権力者である町長・兼・製材所オーナーのバルケビッチがダニエルの正体に気付いた上で、アル中司祭より使える奴だと判断し計算高く見逃しているのだから。
バルケビッチはダニエルに選択を迫る。大人しく権威に従う事を勧める。
ダニエルは反論する。
「権力はあなたにあるが、正しいのは私だ」
しかし、バルケビッチは悠々と嘯く。
「そう。あなたが正しくとも、権力は私にある」
けれどもダニエルは権威・権力に逆らい、自ら信仰する「正義」を貫くことを決めたのだ。
ダニエルの「正義」は、権威に麻痺させられた町民には通じない。けれども、ごく一部の「本質に揺さぶられた人々」の行動は変化する。
その最たるものはダニエルが実現させた「運転手の葬列」に、犠牲者(であるはずの)親族の1人が参加する場面だろう。
私達も「権威が作り上げた正義の虚像」に惑わされてはいないか?
例えば、ダニエルが事故被害者家族にレクチャーしたノウハウは、少年院で習ったれっきとした精神医学のカタルシス療法だと思うが、どうも日本の活字媒体においては「新興宗教的」という文字が目についた。(映画comレビューもしかり)
精神医学なら善で新興宗教は悪か?
タバコ、酒、女は悪で、禁欲は善か?
クラシック曲は善で、ロックは悪か?
バイクやタトゥーは悪なのか?
法律はすべて正義か?
悪法を是正する努力は悪なのか?
そんなバカな話があるか!
ダニエルが善か悪かだと?
「完全に善なる人間」などいるものか!そんな奴が存在するならば、それはすでに「人間」ではないだろうさ。
禁欲は決して更生の指標にはならない。
人生楽しまにゃ生きてる甲斐がないと、亀仙人も言っている。
人間は弱くて強い。
優しさも愚かさも弱さも強さも内包しているのが「人間の真実」ではないのか?
形骸化した「神」を信じる事が信仰なのではない!
自らが本当に正しいと感じる事を大切に出来る心こそが「信仰」だと思う。
大衆心理が作り上げた「ふわっとした善意」を信じる事が善なのではない。
この世の真実の1%すら解き明かしていない脆弱な「科学」によるエビデンスを信じるのは、古代〜中世の人々が神を妄信するに等しい!
それこそが「権威」に惑わされている現代人の姿だと思う。(商品やショップの「ブランド」も一種の権威)
私達は日々どれほど「権威」に影響されているだろう?
あなたが「自分の意見」だと思い込んでいる判断は本当に正しいか?権威に惑わされてはいないか?
権威に影響されたマジョリティのパワーが「本質的な正しさ」を貫こうと足掻いているマイノリティを潰してはいないか?
終盤、ダニエルは権威に潰され、少年院に戻る事になる。
ボーヌスに反撃する彼を誰が責められよう?そうしなければ命を奪われるのは必至だ。これは正当防衛だ。
これをもって、彼の本質が悪であると断罪出来るのか?
それとも「権威」の犠牲者であると赦せるか?
本作のテーマは、善と悪の揺らぎではなく、「権威と権力に抗い、物事の本質を貫くことの難しさとその価値」だと受け止めた。
ステレオタイプの善と悪に惑わされる時代は、そろそろ卒業しても良いのではないかな。
※蛇足
カトリック教会において「教会はキリストの体」であり、キリスト信仰は、教会に連なってこそ初めて可能なものとされる。
「教会」は「単なるキリスト教信者の集会所」ではなく「天上の教会の地上における反映である、公同のカトリック教会」を具体的に指す。
だから、カトリック教会の外に、真正なキリスト信仰があり得るという考え方を、カトリックは認めない。
ダニエルが「神は教会の外にいる」と言うのも、終盤少年院で食事前に祈りを捧げないのも、形骸化した権威に本質は無いと悟ったからであろう。
理解できなかった。
最初から最後まで、このダニエルという人を理解できなかった。出所が決まっているのに暴力沙汰。かと思えば熱心に祈りを捧げ、神学校に行きたいと言う。酒も薬もやらないと言ってたよね?だし。勘違いされたとはいえ、司祭として活動する姿に見直したと思ってたのに、また暴力。人間は弱いから…ということとはまた違う浅はかさ。
結局、司祭には簡単になれないんだよ。
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