永遠の門 ゴッホの見た未来のレビュー・感想・評価
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その瞳に映る永遠の未来を描き続ける
歴史上最も有名もしくは偉大な画家は?…と問われたら、おそらく多くの人がゴッホと答えるだろう。
しかしゴッホが、生前は評価されず、死後評価されたのはよく知られている。
不運であり悲劇の天才画家。
そんなゴッホの晩年を、『潜水服は蝶の夢を見る』のジュリアン・シュナーベルが描く。
シュナーベル自身画家でもある為、芸術家としての視点、風格ある芸術作品ではあるが、意外や正攻法の演出。
芸術家の苦悩を描いた作品と言うと凡人には分からぬ作品が多いが、思ってた以上に見れた。
本作でヴェネチア国際映画祭男優賞受賞、オスカーノミネートはサプライズと言われたウィレム・デフォー。
が、ここ最近の絶好調ぶりも納得の、ゴッホの苦悩を体現した円熟の名演は文句ナシに素晴らしい。
マッツ・ミケルセン演じる牧師との対談シーンは本作のハイライトとも言えよう。
もう一つ目を奪われるは、映像の美しさ。
特に南フランスの自然、太陽光…。
今なら所謂“映える”だが、画家ならこの風景を画に描きたいと思わずにいられないだろう。
きっと映像の全てが、ゴッホが見た世界なのだろう。
(時々手持ちカメラで画面が激しく揺れるが…)
この南フランスの地で、一心不乱に画を描き続ける。
例え理解されなくとも、子供に邪魔されモデルを頼んだ女性に変態扱いされようとも。
何故そこまでして没頭し続けるのか…?
信仰心も深く、画は神から与えられた才能と答えるが、真の答えは一つ。
自分は画を描く事しか出来ない。それ以外は何も出来ない。
だからこだわるように…いや、追い求めるかのように、執着するかのように、画を描き続ける。
そしてそれが皮肉にも自分を苦しめる。
繊細なタッチや筆遣いこそ評価された時代に於いて、ゴッホは真逆。
何度も塗りたぐり、一筆で描き、ゴツゴツとした油絵。
今でこそゴッホの代名詞とでも言うべき手法だが、当時は同志ゴーギャンにも否定された。
自分の画は何を描き、何を追い求めているのか…?
芸術家の苦悩というのは一旦泥沼にハマると、抜け出せなくなる。
自ら耳を切る奇行、周囲から変人の目で見られ、次第に精神を病み、幾度も入院…。
そう決め付けるのは容易い。
孤高の芸術家という肩書きはカッコいい。
しかしその実は…、
それほど繊細なのだ。
開幕のナレーションこそ、ゴッホの本心なのかもしれない。
孤独。だからより一層、謎に包まれた死が悲しく思える。
この世界に、映った瞳に、ゴッホは何を見たのか…?
悲しみ、苦しみだけではあるまい。
でなければ、あんなにも素晴らしい画は描けない。
ゴッホが見たもの。それは…
今だけではなく、見据えた未来。
不運の画家、悲劇の画家…。
が、誰よりも永遠の未来を描き続けた、天才画家。
ゴッホだ
ゴッホという人物像を語るための要素を(支援していた弟の存在、耳を切り落とすきっかけとなったゴーギャンとの日々、当時のゴッホの絵に対する世評など)最小限に、ゴッホがどうやって生きていたかを描いている。
当時のことは製作者の皆さんは知らぬはずで、すべては資料からの事実と推察で構成されてるはずなのに、劇中のゴッホが、まるでゴッホそのものを観ているよう。ゴッホ愛にあふれるチームが作った、ゴッホの映画。
ウィレム・デフォーが、フィンセントにしか見えない。
カメラワークは、「見づらい」という印象を持たれるかもしれないが、画面下部だけ意図的にぼかしたり、人間の視点で・視点からゴッホを画でとらえているので、タイムスリップした感覚に陥る。
ゴッホ好き人間がタイムスリップして、透明人間になって、ゴッホの間近でゴッホをずっと観察しているような。ゴッホ好きにはたまらない。最後のゴーギャンの詩も美しい。
「天使は悲しむ者の近くにいる。そして病は時に人を癒やす。病気の状態が絵を生むんだ」「健康を取り戻すのが嫌になる」「人は僕を狂人と呼ぶが、狂気は最高の芸術だ」
この言葉に笑い、共感し、涙し、救われる芸術家は多いはず。
未来の人々のために神は僕を画家にした
映画「永遠の門 ゴッホの見た未来」(ジュリアン・シュナーベル監督)から。
ストーリーとしては、ドキュメント風で目新しい発見はなかったが、
ゴッホの心の内とか、ゴーギャンとの会話の中で、
彼の絵に対する考え方などがわかるフレーズが多かった気がする。
以下、順不同になるかもしれないが、残しておきたい。
「僕は1人で静かに世間の全てを忘れて、そこにあるものをひたすら描く。
ゆっくりと心に生まれるものを、それだけだ」「存在には理由がある」
「見るものがないと戸惑う。僕には見る対象が必要なんだ」
「見るたびに新しいものが見つかる、自然の本質は美だから」
「絵は素早く描くものだ、それが天才が描く線だ」「僕の中に何かがいる」
「誰も見えないものが見えて恐ろしい。そんな時は自分に言い聞かせる。
僕にに見えるもの見えない人に見せてやろう。彼らに希望と慰めを与えよう」
「未来の人々のために神は僕を画家にした」
「人生は種まきの時で収穫の時ではないという」
「描くことは美点であり欠点だ」「描くのは考えるのをやめるため」
「自分が見たものを分かち合いたい」
「芸術家とは世界の見方を教える者と思っていた」
「天使は悲しむ者の近くにいる。そして病は時に人を癒す。
病気の状態が絵を生むんだ」「人は僕を狂人というが、狂気は最高の芸術だ」
個人的なは、望んでもいないのに、勝手に土足であがりこんできて、
誹謗中傷を浴びせ、1人で興奮して彼に怒りをぶつけて逃げていった、
学校の先生と子供たちに対して、憤りを覚えてしまった。
警報発表、仕事早退、劇場へ。ゴッホ特集、二本立て一本目。 名前しか...
警報発表、仕事早退、劇場へ。ゴッホ特集、二本立て一本目。
名前しか知らないゴッホ、勉強になった。
寂しがり屋?狂人?衝撃、耳切り事件。そしてこれまた衝撃の最期。
衝撃部分は食い入るように見たが、以外がやや退屈。確かに映像は美しいが、芸術センスのない私には辛かった。何度か首がカクンとなりました。
ウィレム・デフォーは完璧でした。
色彩が印象的なアート映画
マッツ・ミケルセン目当てで見たので、美麗なカソック姿が大画面で見れて満足です。
ストーリーはとにかく辛い。誰もが知っている天才の、ドブに落ちた犬の様な人生。絵を描くより他に才能はないのに描いても描いても何にもうまくいかない。別に人生投げている訳でも無いのに。
個人的には揺れる画面より、後半の下半分が濡れたような画面の方が不安感が大きかった。絵のモデルになった登場人物もすごく似ているので、あっあの人!絵で見た!!と楽しめるのが見どころですかね。
南フランスの草原を枯れ草を足で掻き分けながら進むシーンは、草の匂いもしてきそうな臨場感です。その圧倒的に美しい自然もゴッホの心を癒してくれなかったのが悲しい。
あまりにもゴッホらしいので、かえって嘘くさく感じてしまった
主役がゴッホそのもののような見栄えでした、本人を知らないけど。
映像と展開がゴッホの絵みたいでした、あんまりカメラを揺らしたりぼかしたりするので若干気持ち悪くなった。
酔っ払って耳を切る人はゴッホだけかもしれませんが、酔っ払って指を切る人はニュースでよく見ます、ジョーニーデップもその一人です。
昔、ゴッホの模写をしたらコンクールで賞をもらった思い出があります、味をしめてピカソの模写をしたら先生に怒られたけど。
帳簿にデッサンしてたなら、他のものでもしてたのでしょうね、でも、デッサンはそんなに上手だとは思わなかった、専門家には響くのでしょうか。
ピストルの件は想像でしょうね、でも、ゴッホがピストルを入手するとは考えられないので、物取りか何かに殺されたのだとは思いますが。
総じて、既視感が強くて、数分で飽きてしまい、最後まで観るのが苦痛ではありました、でも、主役は本当に似てるな、観た夜に夢に出てきたほどです。
昔のゴッホ映画の最後
ゴッホ 最期の手紙、の最後は確か撃たれたのか自殺なのか分からず、でも拳銃は見当たらなかったから他殺か...?自殺か他殺か不明である...みたいなので終わってたような🤔
今回のラストはエンディングの説明で他殺だったとはっきりしたから新しく発見されたのかな
ゴッホとゴーギャンの友情✨
ゴーギャンの映画も観たくなった
テトとゴッホの絆、、
テオはお金がないにも関わらず兄に仕送りを続けた、、
テオは兄さんは偉大な画家だよ、と。
テオのゴッホへの愛情はほんとに深いなあ
前に笑コラで世界の有名人のお墓をめぐる人の半生を取材してたのをみて、テオとゴッホのお墓は隣同士でツタの葉が一面にあるのをみて、ツタの葉の意味はなんだったかな、一生一緒にいる、だったかな
それみたとき私も泣けた💦💦
その人の名前なんだったかな、、半月なんたらやったっけ、、カジポンマルコ残月だった
ゴッホが死んでテオを後を追うように亡くなったとか、、、
ゴッホの一生をもっと知りたくなった
この画家を呼ぶのに天才という言葉は果たしてふさわしいものなのか。そんな想いが頭に浮かびました。心の内側が伝わってくる作品です。
この作品の前に、ゴッホをテーマにした他の作品(※)を観たのですが、
ゴッホの人物像が余り描かれていないような気がしました。
この作品ではどうかな、と気になって鑑賞です。
( ※「ゴッホとヘレーネの森」 )
この作品の中では
人間的な面が充分に描かれていたと思います。
悩みこだわり
自信にあふれたかと思えば
自信を失い、取り戻し
心を病んで
最後は…
この作品で
ゴッホの全てが理解できたとは言えませんが
彼の 「作品を産み出す力の源」 が
何となく分かった (ような)
そんな気がします。
自分の描く世界 それが
世の中の求めるものとは違う そうと知りつつ
描きたいものを描く
ただひたすらに描く
…
それしかできない作家だったのかもしれません。
☆ 余談です
弟の存在
時に兄のようにさえ見えました。
ゴッホの精神的支えだったのでしょうか。
彼がいてくれたことが救いです
ゴッホを演じた俳優さん
自画像から抜け出してきたかのようでした。 すごい似てる…
ゴッホを扱った映画
このところ多く作られているようですが その中で
「ゴッホ 最期の手紙」
この作品もすごく観たくなりました。 ( 油彩画がアニメーションする作品 )
どうしようか思案中です。
☆映画の感想は人さまざまかとは思いますが、このように感じた映画ファンもいるということで。
美しかった。
知ってはいたけどゴッホの人生つらい。生きてるうちは全然売れなかった。
救いは弟のテオが居てくれたこと。いや絵を書くことそのものが,この,いわゆる
普通の世界からはじかれたこの人を支えてくれてた。
オスカー・アイザックやマッツ・ミケルセンが出てるって知らなかったから,
ビックリしつつもお得感あり。主役・ゴッホのウィレム・デフォーも久し振りに見たな。
プラトーンを思い出しました。
ゴッホ目線で進む映画。映像は美しい。フランスの美しき野山を堪能できます。
何にフォーカスしているのか
物理的にカメラがを無駄に揺らしている意図も、結局ゴッホの何を見せたかったのかもよくわからない。
この監督の勝手な解釈の結果なのか。
これがフィクションだと想定したら、デフォーの純真な眼差しは、人生のすべてを絵に捧げた男として完璧だった。
耳はどうなった?
今までゴッホ関係の映画では『炎の人ゴッホ』(1956)、『ゴッホ最期の手紙』(2017)くらいしか観てませんが、ともかく生前には評価されずに死後になって絵が評価されるようになった画家としか認識してません。そして耳を自分で切ったという狂気、「ひまわり」がバブル期に約60億円で売却された事実。
なんだか最後には耳が元通りになってたような気がして、再生するんか~?などと感じてしまった。ちょっと時系列もわからなかったのが残念。その中でもマッツ・ミケルセン演ずる聖職者とのやりとりで概要がわかり、ゴッホの心の中を垣間見た感じがした。
最期には撃たれたにもかかわらず、少年たちが罪に問われるとして黙ったまま死を迎えることになる優しさに驚いた。定説では自殺。しかし、銃の暴発によって誤射されたとする説も有力になっているという。
身体から湧き上がるゴッホの心情、共感
何かを描く際のゴッホの心情や信念に共感覚え、思いを共感し会える友人関係や、傍観者の冷たい視線浴びせられた切ない心境に痛感、胸に突き刺さった
ピアノの躍動感溢れるBGM背景に、身体全身で湧き上がる感情を想いのまま表現していて、アカデミー賞にノミネートされたウィレム・デフォーの演技に圧倒された
言いたいことが?
ゴッホが生前は評価されず、不遇の人生だったストーリー、一般的な。
今更、映画でみせられても、、、。
しかし、ここ50年、印象派が偏重され過ぎ。公園で、いまだに、モネ風の油絵、描いている人とか。
銃弾を受けた日まで絵を描いていた
ストーリーは
1880年代パリ。
若い画家たちがカフェで、いかにして絵を売って生活していくかで画商と交渉をしている。ゴーギャンは作家たちが絵を描くことよりも、売ることに汲々としていることに腹を立てる。自分は自由を求めてマダガスカルに行くつもりでいる。友人のフィンセント ゴッホには、ほかの画家たちとつるんでいるのを止めて、南の温かいところに行って絵を描くように勧める。彼の言葉に従って、ゴッホは南フランスに移り住むことにする。
底の抜けた靴、穴の開いて指が見える靴下、身なりかまわずゴッホは、田舎の景色のなかに身を浸し、風景を写し取る。陽光を浴び、風景を描き続ける。しかし教養の無い田舎の百姓たちにとって画家の姿は異質で、異様だ。田舎の子供たちは画家をからかい、写生する画家を妨害する。怒ったゴッホは子供たちを怖がらせたことで、警察によって精神病院に強制入院させられる。呼び出しを受けて、パリから飛んでやってきた弟のテオに、フィンセントは、じつはこのごろ幻覚が起きて、見えないものが見えたりするんだ、と告白する。しかしパリで画商をしているテオは、忙しくフィンセントにずっと付き添ってやることなどできない。送金の約束だけして彼は兄に、あまり悩まずに見えるものを描き続けるように励まして、自分はパリに帰る。
やがて、ゴーギャンがマダガスカルから、パリに帰って来た。ゴッホはゴーギャンと一緒に住んで、互いに活力を得て、画業に集中する。しかし強い個性を持った男同士の共同生活には、すぐに無理が生じて、ゴーギャンは出ていく。ゴッホは、ゴーギャンに謝罪の意味で、片耳を切り落とす。再び彼は精神病院に入院させられる。
しばらくして、病院長から呼び出され、どうして醜い絵ばかり描くのか、と彼は問われる。ゴッホは自分は神から才能を与えられた。自分にしか見えないものを人々に見せたい、という。彼は退院を許されて、再びマダムジヌーを世話になり宿屋に戻って絵を描き続ける。しかし田舎の地元では、頭のおかしい画家ゴッホを嫌う人が多かった。ワインを浴びるほど飲み、人と関わろうとせず、孤立しているゴッホは、ある夜二人の若者のトラブルに巻き込まれて、腹部を銃で撃たれ、その傷がもとで亡くなる。弟テオがパリから駆け付けた時、彼は息を引き取った。’
というおはなし。
ゴッホのような目を持てたらどんなに良いだろう。果てしない広がりを持った世界で、感性を思い切り自由に羽ばたかせながら生きることができるだろうか。
「ひまわり」を描くゴッホの目には、水々しいひまわりのつぼみが、やがて朝露とともに広がり、強い太陽に射すくめられた末についにしぼんでいく、そのすべての過程が見えていたのだろうか。「アルルの女」を描いているゴッホの目には、ジヌー夫人の強靭な精神に裏付けられた穏やかな人柄と、彼に対する同情、憐憫、母心、包容力、死ぬまで世話を焼いてくれた友情までが見えていたのだろうか。「ガシェット医師」を描くゴッホには、ドクターの自信と誇りをもった、でもユーモアとウィットに富む田舎紳士のほがらかさや人の善さが見えていたのだろうか。
ゴッホは精神医学的にいえば、精神病質に生まれて精神分裂症を発症した患者、社会学的に言えば、全く生活能力が無く、生活のすべてを弟テオの送金に頼っていた上、社交で人と関わることも出来なかった反社会的で、人格障害をもった人間だ。
しかし彼ほど切実に自分の見た物を描こうとして真摯に生を生きた画家はいない。人には見えない永遠の命を描いて人々に見せたい。自分は一生表現者として描くことが自分の使命だと信じて描き、その決意は死ぬまでゆるぎなかった。
映画でゴッホを演じたウィルム デフォーは、この映画でベネチア国際映画賞で主演男優賞を受賞した。アカデミー賞主演男優賞の候補にあげられたが、「ボヘミアン ラプソデイ―」でプリンスのフレデリック マーキュリーを演じたラミ マレックに賞を持っていかれた。ボヘミアン ラプソデイ―を切っ掛けに、プリンスが再び大爆発的な脚光を浴び、ヒットチャートを記録して大ブームを引き起こしたので仕方がない。第91回2019アカデミー賞会場でもプリンスの、71歳で依然としてかっこいいブライアン メイと、69歳のロジャーテイラーがパフォーマンスのトップを飾るなどして、2019アカデミー賞は、プリンスで始まってプリンスで終わった。プリンスの電子音に比べると、フィンセント ゴッホの世界は何と繊細で孤独の世界だろうか。
監督ジュリアン シュナベールは画家でもある。監督した作品には「潜水服は蝶の夢を見る」(2007)と、「夜になる前に」(2000)などがある。
彼は、「ゴッホの伝記はすでにたくさんの監督によって製作されているが、ゴッホの目では世界がどう見えていたのか、という視点で映画を作りたかったのだ」と言っている。
映画は、ゴッホのモノローグで語られ、彼の目線で見たものが映されている。彼の目がカメラになると人との会話では、ハンドカメラで相手がズームアップされる。カンバスを背負って穀倉地帯や森や丘を歩き回る時は、カメラがずっと下がって大写しになる。ハンドカメラが接写と遠近を繰り返すカメラワークは、ゴッホの主観を接写で、客観を遠くで捉えることで表している。これで酔う人が出たそうだ。
ゴッホが南フランスの穀倉地帯や森や丘を歩きまわる。広々とした自然の中で風に吹かれ、光に身をまかせ、永遠を感じる。陽の上がるのを待ち太陽を全身に感じて心を解放させる、そうして描いてきた風景が、精神病院で療養するごとに、徐々にぼやけてくる。風景の半分がよく見えない。徐々に蝕まれていくゴッホの精神が、ぼやける映像によって事実になっていく。彼は見た物を描く。ぼやけていても見ればそこに真実がある。そうやって彼は最後に銃弾を受ける日まで絵を描いていた。
映画のシーンで、ゴーギャンがジヌー夫人を座らせてデッサンを描いている。そこにゴッホが帰って来る。するとやわらゴッホはカンバスを立て、いきなりオイルでものすごいスピードで描き出す。ジヌー夫人はさっさと去っていくがモデルが居なくなってもゴッホは記憶をもとに描き続ける。そんなふうに油絵を完成させてしまうゴッホを見ながら、ゴーギャンーは、「描くのが速すぎるよ。どうしてゆっくり描けないの。」と言い、さらに「君の絵は塗って、塗って、重ねて塗って、まるで彫刻をつくるみたいだ。」とあきれる。二人の天才画家の会話が興味深い。
1853年に牧師の子供として生まれ、1890年に37歳で若くして亡くなったゴッホは、2000点以上の作品を残したという。2017年に彼のデッサン帳が新たに見つかった。
宿屋でシェイクスピアの「リチャード3世」を読んでいたゴッホに、ジヌー夫人が、「そんなに本が好きなら本をあげるわ。でも何も書いてない本なのよ。」と言って分厚い本をゴッホに渡すところで、この映画が始まる。ゴッホはそれをデッサン帳にして持ち歩く。彼によって描きためられたこのデッサン帳が、彼が精神病院から退院したときに他の病院記録などと一緒に放置され、ずっとあとになって21世紀を生きる人々の手に渡る、そんなシーンで映画が終わる。ゴッホは永遠だ、とでもいうように。ミステリーが好きだと、映画の中でゴッホに言わせている。そんなミステリーっぽい終わり方がしゃれている。
とても印象深い映画だ。
ごめんね
全然響いてこなかった。0.5点はパリ在住のメイクの薮内綾さんをロールで見つけたから。
ゴッホについては何度か展覧会も行き人生も少しは知っていたつもり。評価されるのを待たず38歳で苦難のうちに早世した半ば狂った(失礼)画家の生き急いだ感覚、果たしてデフォーでどうなの?好きな俳優で演技しまくっているのは見ればわかるだけに起用に納得いかない。
パリ、アルル、有名俳優を起用した画家の人生についての物語。いくらでも見せられるものがあるのに、なぜもう少しでもため息が出るほど美しい映像を見せてくれないのか。ポスターの美しい写真に騙された。
最後、2016年にスケッチブックが見つかった、って字幕で説明。TVドキュメンタリーのつもりなのか。
#105 なるべく後ろの席で
観てください。映画の日でめちゃ混みで1列めで観たから顔がドアップなシーンが多くて辛かったです。
ゴッホの死因とか弟に養ってもらってたとか知らないことが多かったのでそれは良かった。
さらにセリフがゆっくりで綺麗な話が多いのでドアップの字幕を観なくても楽しめる部分は良かったかも。
絵を堪能したい方はともかく後ろの席で❣️
気持ち悪くなる揺れ
始まりから画面が揺れ続ける。
ゴッホの視線?を意識しているのか。しかし人間は走っていても、脳で認識する外部の映像は揺れない。揺れないように脳で調整している。外部を認識するために。
必要以上の揺れ演出が私には受け入れられなかった。
だいぶ今までのゴッホの生い立ちと違った解釈をしているようで、これを史実と解釈するのは違うだろう。監督の解釈?なのだろう。
ただ画面から南仏の明るい陽光を感じることは出来なかった。
また、画面半分下がボケているのも何を意味するのかわからなかった。眼鏡をかけてはいないがゴッホは眼病を患っていたのか。
デフォーは歳が違うがゴッホが描く自画像のようで適役なのだろう。
神と自分を重ねるのはいただけないが、最後まで世間に受け入れられなかった“天賦の才“を持つ人の悲しい半生をこの監督の解釈で描いた映画。
“僕に見えるものをみんなに見せてあげる”- V・f・Gogh
映画が始まってからずっと頭に浮かんでいたのは「何故人間は絵を描くのだろう」ということ。「人間」はともかく何故ゴッホは描くのだろう、何故あの様な絵を描くのだろうということに映画は迫っていく。それと、私の子供の頃から時々頭を掠めていた「果たして人は同じ光景を見ているのだろうか。共通幻想として見えていると思いたがっているだけではないのか」という疑問が思い出されてくる(個人的に)。
asylumでのマッツ・マケルセン扮する神父とゴッホとの間に交わされる会話の豊潤さは凄い、しみじみと余韻が残る名シーンだ。ウィリアム・デフォー好演。受ける、マッツ・マケルセンも見事。自分の目に写る世界の、自然の真実・力を彼独自の絵で後世に残すことだけを考えて描き続けた1画家の物語。「本当の花の方が一般人には美しいかも知れない。でもそれはいつか枯れてしまう。でも僕の描いた絵の中の花はいつまでも色褪せない。じゃあ、私も描いてもらおうかしら。若さを残して貰らうために。もっと若くもかけるよ。それはフェはじゃないわ」…
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