劇場公開日 2018年12月28日

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「庶民になれるビョンホン」それだけが、僕の世界 津次郎さんの映画レビュー(感想・評価)

4.0庶民になれるビョンホン

2020年7月11日
PCから投稿

ハリウッドでも活躍するビョンホンが市井の人を演じている。もちろん俳優だから役作りしているわけだが、日本の俳優だとここまでリアルな庶民にはならない。ましてニの線で来た俳優なら事務所が蹴ってしまうかもしれない。

ビョンホンはその日暮らしの自称ボクサーである。ボクサーとはいえ夢見ているだけでランクもなく試合もなくジムもない。チラシ配りをしてマンガ喫茶に寝泊まりしている。

そんな役を演じているビョンホンに見える──のではなく、ほんとにそんな男に見える。たたずまいも、歩き方も、ゲームコントローラーの使い方も、カップ麺のすすり方も、チラシ配りの強引さも、おっさんである。とてもリアルだった。

家族の内側から、ピアノコンクールへ至るまで、少なくない登場人物を一本線にまとめている。面白いし、軽くもなければ重くもない、爽やかな悲劇だった。

ところで、韓国映画のレビューでよくリアリティという言葉を使うのだが、それについて。

韓国の映画やドラマで、乾麺を茹でて、それを鍋から無造作に鍋の蓋にのせ、おもむろにズルズルすする場面がある。かなりの頻度で見る。がさつあるいはずぼらに見えるが女性でもそれをやる。あれが、むしょうにうまそうでならない。韓国映画を家で見ていると、中途でかならず何かを食べるか、辛ラーメンを買いにコンビニ走ったりする。

いわば西洋世界に媚びない「がさつ」や「ずぼら」に食欲がそそられる。われわれなら、もっと淑やかに食を表わそうとする。がっつく感じを諫めて、外国式マナーに与して、食卓を典型に収めようとする。韓国映画に出てくる食にはその気取りがない。食べ方も音も女性でも西洋世界に遠慮しない。

韓国では床に卓なしで料理が置かれることがある。庭か屋上の野天縁台で食べる風景もよく見る。片膝やあぐらでピクニックのような野趣がある。おそらくそれは、田舎か低所得者層の風俗であろうと思う。

日本の映画やテレビで、ご飯が左に、味噌汁が右に置かれ、主菜も副菜もきれいに並べられた食事風景がよく出てくるが、一般家庭で、ほんとにあれをやっているんだろうかと疑問を感じることがある。わたしが育った環境では見たことがない。

韓国映画のレビューでは底辺という言葉もよく使う。
本編のように、低所得者層の生活環境がけっこう出てくるからだ。ただし、低所得者は貧困を表現するために使われているわけではない。一般として描写される。
日本映画で低所得者層の生活環境が出てくるとすれば、それは貧困か犯罪を表現する目的がある。日本映画では「一般」が中産階級になるからだ。

だが、家庭にはいろいろな様態がある。ご飯が左に、味噌汁が右に置かれる画一的な食事風景は、日本映画の作り手が食事風景にまで意趣をこらす必要がない──と考えているからでもある。

しかしその必要はある。
よそ様の食事風景を見ることなんて無いから、この国で、ご飯が左に、味噌汁が右に置かれた食事風景が、ほんとに「一般」なのか、生まれて何年も経ちながら、今もってわたしは知らない。
むしろ韓国家庭の食事風景なら想像がつく。

それをリアリティというんじゃなかろうか──と思った。

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津次郎