万引き家族のレビュー・感想・評価
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役者の演技が素晴らしい
話題になっていた映画なので鑑賞してみましたが…
素晴らしい映画だった。映画ってド派手なアクションとサプライズだけじゃないな、やっぱり人の演技を観るものだなと思った。役者の演技の力とはこんなに人の心揺さぶるのだという衝撃を受けました。
安藤サクラに、リリーフランキー、樹木希林、など日本の実力派の人達の演技がすごかった。
話の見せ方も上手。一見家族にみえる6人の人達、一緒にご飯食べたり寝たりお風呂に入ったり仲睦まじい6人ですが実はいろんな複雑な事情がだんだん見えて来る…といった過程がとても良かった。
はっきり言おう
是枝監督の作品は好きじゃないとダメ的な空気があるけど、この度私は好きじゃないとあえて宣言します。
映画の作りは素晴らしいと思う。メイキングを見ていても感心しきりだし、ここまで作品に対して誠実で真摯な監督がどれほどいるのか?とも思う。
演出も絵作りも緻密で、テーマも深いところにあり、いつも観客に問題提起してくる。
だけど、一連の是枝作品から提起されている問題に向き合おうとすると、自分なりに考えた末にとても嫌な気分になり、責められるような、今ある生活を手にするための努力を否定されるような、やるせない気持ちになる。
来年この作品を思い出して自分がプラスのことを考えることはないだろう。
今作は素晴らしいかもしれないけど、私は別の、彼の描く人生賛歌の物語を観たいです。
「海街diary」とつながる作品
「万引き家族」という題名から、悪いことをしながらも寄り添って明るく暮らしている家族の話だろうくらいに考えていた。実際途中まではそんなつもりで家族のふれあいみたいなものに焦点をあてて見ていたのだが、誰一人として血のつながらない偽家族と分かって驚く。彼らは社会的に見れば犯罪の巣窟だ。(万引き、窃盗、誘拐、死体遺棄、詐欺など)しかし彼らは本当の家族以上に家族らしい。家族は偽でも、人を気づかう優しさは本物だ。それが一番表れているのが終盤の信代だ。罪を一身に背負い刑務所に入り、子供達を想って涙をこらえ、祥太に親の所に戻るよう促す。我々はこの犯罪家族に大いに同情してしまう。
しかしこの物語の決着の仕方にはやや疑問を感じてしまう。一家の破綻の原因が、祥太の「悪いことをしてはいけない」という単純な正義感というのは理解できるが、社会のルールを破ったらこの世では生きていけないという感が強すぎる。ラストのゆりの顔が悲しすぎて、何か救いの要素を入れれなかったかなと思った。
難解、でも後からじわっときて涙、そして感動
見た直後は、俳優さんの演技やカメラワーク、光の扱い方などとても良い映画だなと思ったものの、ラストの意味するところは全く分からず、全体的にも主題的なものが判然とせず、頭をグチャグチャにされた様な気分も感じた。あまりにスッキリとしないので、原則映画で完結させる主義であったが、小説版の方も読んで見て、それでもラストシーンは解釈できずにいた。
一晩たったら何故か、自分なりの全体像がかなりくっきりとイメージでき、遅まきながら涙が溢れ、幸せなな気持ちに浸ることとなった。見た人間の思考をここまで刺激し、更に感動させる。成る程、確かに世界レベルの大傑作かもしれない。
この映画を一言で言えば、6人全員が、血こそ繋がっていないが本物の家族としての経験を通して、成長に至る物語と言えそうか。最後かたちとしての家族こそ無くなってしまったが、家族一人一人の中に愛し愛された経験は生き残り、宝物的記憶や明日の糧となっていくという物語。家族の本来の役割ってこれでしょうと。
おばあちゃんは、脅かして?得たお金を、義娘のため、いやきっと家族皆の将来のため保管していた。海では、今まで言えなかった家族皆への感謝の気持ちを実際に口に出すことが出来た。お母さんは、昔に母親から受けた大きな傷を、娘への本物の愛により癒し乗り越えられた。夫を愛することをも取り戻し、一人で家族の罪を背負い込み、さらに息子を独り立ちさせた。ダメダメ男に見えたお父さんも、最後には、息子を捨てたことに真摯に向き合い、父さんからおじさんになることを受け入れ、大きな消失の痛みと共に息子への本当の愛を経験した。そして、叔母さん亜紀は、十二分に愛されないことからの一人よがりの自己傷害から、他人を主体的に愛することを知り、家族への責任を自覚し、旧家族の家を訪れ、ここでの経験をかなりの痛みとともに自分の糧とする。
長男祥太は、親への懐疑〜反抗を経て、妹を愛し守り、万引き家業を終わらせ、さらに親を能動的に愛するとともに、家族から自らの意思で独り立ちをする。そう、この映画は主人公の少年が家族の中で葛藤し、成長、独り立ちする物語でもある。
そして、妹は?じゅり、ゆり、りんと名前が変わるこの少女は、最初から無垢に他人を愛することはできるが、愛されたことがなく、拒否もできない受理するだけの娘。ゆり(有理?)と名を変え、万引きにもトライし、家族から兄から愛される知恵を身につける。さらに母からの愛を沢山貰い、りんと名を変える。元の母親には相変わらず無償の愛(殴られた傷を労わる)を拒否されるが、もう大丈夫。母の服を買ってあげようか?には、凛として拒否ができ、納得できない御免なさいはもう口にしない。愛する母に教えられた数え歌と兄からのプレゼントのビー玉(宇宙という真理が見える)、そして雪だるまに象徴される家族から愛された記憶が、彼女のこれからをずっと支えるから。そして、耳をすませば、血の繋がりは無い本当のお母さんから確かに愛された、言葉にこそならなかったかもしれないが、確かに触れ合い愛された証拠、即ち生きていく自信が、まざまざと蘇ってくるから。
ラストシーンの意味をこの様に感じ取ったとき、それに伴い熱いものが込み上げてきた。何て力強い、ポジティブなメッセージの映画なのかと。そして、さらにもう一つバックボーン的なセカンドメッセージの存在の可能性に気がついた。
この映画で何度も登場するスイミーとは何か?である。スイミーは、小さな魚の中心となって大きな偽魚を形成し、その眼となる。スイミーは、じゅりか?確かに、じゅりは犯罪で結びついていた家族が互いに愛し愛されるきっかけを作った。ただあの家族自体はバラバラになったし、スイミーの話を熱心にしてたのは、祥太である。とすると、スイミーは、新しい家族をこれから作っていくだろう5人、特に若い3人の今後の道のりを示す象徴ということだろう。
スイミー達の戦いの相手は何か?押しかけて犯罪家族に仕立て上げたマスコミ?、白黒でしかものを見ない警察官?、彼らもそうかもしれないが、市井の庶民に無関心な人々、弱きものを蹂躙するように権力を行使する人間、真実を見ようとしない者達、愛し愛されること、きずな、若しくは家族といったものに関心を示さない人々ということか?
そこまでいくと、実は、この映画自体もスイミーである様に思えてきた。闘いの相手は、表面や形式だけに拘泥し映画や芸術の本当の価値がわかっていない一群の人々、名もない弱者の幸せを無頓着に踏みにじる者たち、そうこの映画はそういった者達、考え方との熾烈な闘いの核となることを目指した是枝監督の熱き怒りの産物なのかもしれない。そして、そのスイミー達の訓練場所・訓練本部は、戦場ではなく、塾でもなく、血縁では無く能動主体的な愛が結びつける家庭という共同体であると。その闘いの核を創るという強い情熱が、きっと自分をいたく感動させたのだろう。
万引き家族
まず、この作品で思ったのが家族としての絆、愛情、そして人々の優しさにポイントを置いているのではないかと感じた。小さな少女、凛がこの家族に加わるまでこの家族は自分がどう生きていくか、生き延びる為には何をすればいいかなど先のことを考えるのに必死になっていた家族だが、凛が来たことによって家族としての形について徐々に気づいてこれたのではないだろうか。
このタイトルでもある万引き"家族"だが、これは誰も本当の家族ではなくそれぞれ自分の罪を隠す為に協力して生活していて、そんな中で父 柴田治が凛を見かけたことによりこの協力を他の為に使う気持ちが芽生えたのではないだろうか。そしてそれにつられるように母 信代も最初は否定的ではあったが一緒に過ごしていくうちに凛の存在性に気づき受け入れるようになっていくように見えた。息子 祥太も万引きをすることで父との間に絆があると認識していたが、それをある人に見つかってしまうとき、何の為に万引きをしているのか、と自分に疑問をもつようになり内面的な成長ができたように感じた。
やはりこの作品において1番の焦点となるのが祥太なのではないかと感じた。国語力のある祥太は「スイミー」の話を治に話したりする描写がある。おそらく祥太はこのスイミーの兄弟のように怯えながら暮らす家族に自分がその家族を1つにさせようとしているようにしているようで家族とスイミーを祥太は無意識に照らし合わせているのではないだろうか。
最後に、もう一度家族とはなんだろうと考えてみる。勿論、協力できる、信頼し合えるというのは理想としてあるが自分が考えた結論、家族とは戻りたい思えることではないかと考える。とても単純な考えだが、自分に置き換えてみると自分は学校や部活、大会などで様々な失敗、挫折にぶつかっている。しかし、どんな問題に直面してもやはりそれを受け止めてくれるのは家族なのである。家族がいるから、また、自分に明日が来るのである。
ドキュメンタリー風。
見終わった後も頭のなかをぐるぐる。
我が家はどんな○○家族なんだろうか...とか
でもやっぱり血の絆って良くも悪くも強いと思う
昔ながらの三世代同居に戻ればかなりの問題がよくなるのでは。
おばあちゃん、駄菓子屋の店主の死が今の家族の形に警鐘を鳴らしているように感じた。
子どもの成長に余計な肥料でなく、本当に必要な綺麗な水を必要な量だけ与えるようなおばあちゃんおじいちゃん、近所のおじさんの存在。そんな人たちがそばにいなくなってしまう。
そして、治。極端な設定だけど、親世代の特にお父さんに向けての是枝監督からのもっとしっかりしようよというようなメッセージを感じた。
だれもが無条件で居ていいと感じられる居場所を求めてる。
無条件で居られるって子どもの時だけかな...
でもみんな本当の名前では居場所がないなんてやっぱりおかしい。
現代社会の、家族の歪を示してくれた映画だと思う。
是枝監督は演技はとりたくないのだな。
俳優さんを通してでてくるものを撮りたいんだと思う。
やりがいあるだろうからいい俳優さんが集まるよね。
安藤サクラさんの
「捨てた人がいるんじゃないんですか?拾っただけです...」
これサクラさんの自然にでた言葉だったらすごい...
胸に突き刺さりました...
サクラさんの今後の活躍に期待!
エンドロールの細野さんの音楽。
楽しそうな音がしだいに崩れていく感じが映画とリンクしてさすがだなと思った。
久しぶりに面白い映画を観ました。
産めば母親になれるのか
じゃああの子達はあなたのことをなんて呼んでいたんだ?
…。
いくら愛を注いでも、母親にはなれないことに気づいた時のあの涙にやられました。
観た方はお気づきだと思いますが。
終盤、バスに乗って振り返る祥太。
音声は入っていないが、「おとうさん」
ととらえられるように口を動かす。
劇中では、
そこで初めて"父"と呼ぶことになる。
本作は見終わった後に
決して「楽しい!」とはならないはず。
何か咀嚼のできないモヤモヤが残り
「どういう意味だったんだろう?」と
本作の意義を考えたくなる。
起承転結がぼやけているので、
わかりやすい「オチ」を求めていると
肩透かしを食らうのでは?
ただ、考えすぎないで思ったことを
観た人と話して自分なりに納得するのも
また醍醐味かもしれない。
現代社会の闇(=現実)を
隠すことなく淡々と語っていく。
一方で、お金や物だけではない幸せ
もテーマの一つ。
様々な背景を持って集まった集団は
よくある「家族もの」と一線を画した
異様な雰囲気が流れている。
劇中にあったように
「(リリーが胸を指して)ここで繋がってるんだよ」や
「(取調べ中の安藤) 子供が生まれたらみんなお母さんになるの?」など、
・夫婦ってなに?家族ってなに?
・他人同士の集団と何が違うの?
という答えのない、ずるい質問に対して
焦点を当てる。
また、キャスト陣の自然な演技も見所。
安藤サクラを筆頭として、
元々そこに存在していたかのように、
さもドキュメンタリーかのように時間が流れる。
是枝さんが関わった、
「エンディングノート」に繋がる部分もあるので是非。
本当の親は誰だったのか
この映画は10人観たら10人違う感想を持つ映画だと思います。
監督も言いたいことを観客に理解してもらおうと思っていないような気がします。
観た人がそれぞれ感じて欲しいということでしょうか。
個人的な感想ですが、
家族とは単なる血縁関係が全てではないのだなと思わせられました。
自分の居場所や家族が欲しかった人達が、身を寄せ合って一緒に生活して行くうちに、血縁の代わりとなる繋がりを求めて犯罪を日常的に繰り返してしまう。
それは犯罪で繋がっている、もしくはお金で繋がっている家族のようにも思えます。
しかし事件を機に、バラバラになってしまったとき、
自分を犠牲にしてお互いをかばって守り合おうとしたり、家族の絆を確かめようと訪れるシーンもあります。
もしかして最後は本当の家族になっていたのかもしれません。
パチンコ屋の駐車場やベランダに置き去りにされて死にかかっていた幼い子供達にとって本当の親は誰だったのか…
最後にゆりが遠くを見つめて、みんなの所に帰りたいと思っていたのか、あの後脱走するのか、いったい何を考えていたのか、とても気になりました。
家族の絆
貧乏で、万引きして生活しているような家族だが、毎日毎日笑顔が絶えない。そんな人々を描いた作品だが、悲しいラストを迎えてしまう。
血も繋がってなかった、どこかに寂しさを抱えていた彼らは、ずっと寄り添って生きてきたが、またそれぞれバラバラになってしまった。これから、彼らはどのような人生を送って行くのかと、考えさせられる深い映画だったと思う。
家族なのか子供なのか
リリー・フランキーが子供達に唯一伝えられる「万引き」で家族は崩壊する。息子を見捨てる。あざとそうに見えて実は愛情深く、愛情深そうに見えて、あざとかった。それを子供達は見逃さなかった。息子は施設に帰り、娘にはDV家族に帰ると言われる。
そんなご都合主義のリリー・フランキーの罪をかぶった安藤サクラの愛情で十分ではないだろうか。「私たちじゃだめなんだよ」と言ってまだ「私たち」であろうとする夫婦愛で。夫婦だけでも家族だろう。
よかった
「誰も知らない」みたいに、
事件として発覚する前に終わるのかと思ったら、
警察に逮捕されて取り調べとか、なんか意外だった。
でも、警察官とのやり取りとか、
マスコミの報道とか
その辺が監督の言いたかったことなのかな。
住んでるマンションが写ってたからみた
最後の方に、子役の男の子がとびおりたところですが、
どのくらいの高さなのかと気になり見に行ったら2.5メートルくらいありました。
あのシーンの撮影は今年の1月の末でした。子役の女の子が黄色の服で走っているシーンの撮影を見て、半袖はかわいそうだと思って通りかかりました。
映画の内容的に、個人的には完結していないような気がしてモヤモヤして帰りました。
全体的に寂しい
家族全員、演技が本当に本当に素晴らしいです。特に安藤サクラ!逮捕された後の供述シーンでの涙。目を離せない演技とはこの事だなと実感しました。
つながり無いんですよね、この家族。でも喧嘩するでもなく、よく笑っている。
夫婦が放つ、人を、温もりを求める寂しさが、優しさとなって家族を作っている。
欲を言えば、松岡茉優のエピソードはもう少し丁寧に欲しかったかなぁ。少しだけ消化不良なので星マイナス0.5です。
御涙頂戴の映画ではなくて、浅い考えで終わることを許さない映画だった...
御涙頂戴の映画ではなくて、浅い考えで終わることを許さない映画だった。
彼らは口では心で繋がっていると言う。でも、日常の所々にお金で繋がってる箇所がある。だから、彼らは自分たちはお金で繋がっていると思う。
しかし、犯罪が明るみになって離散して、お金のつながりなんてないのに、彼らは求め合う。彼らは気づいた。
はじめだって、お金になるからあきや祥太や凛が拾われたわけじゃない。拾っちゃったからお金に利用した。
彼らは愛に飢え、愛を見つけたんだ。
私たちは家族になる理由を探してるんじゃないか。血のつながりとか犯罪のつながりとか。
家族だって思えたら家族、それでいいじゃないか。
彼らは社会に容認される家族ではなかったけれど、彼らにとっては家族だった。だから、家族なんだ。
私は、「彼らは正しい」と言いたいんだと気づいた。
「虐待家族」「幸福家族」そして「万引き家族」
過去の是枝作品に共通するモチーフの全面展開を見た思いだ。『ワンダフルライフ』では、死者が生者に見えてくる。『DISTANCE』では、エリートがヘタレに見えてくる。『空気人形』では、人形が人間に見えてくる。そして『誰も知らない』では、子どもが大人に見えてくる。
是枝作品では、ないものがあるかのように、嘘が真実に、虚構が現実に見えてくる。今作では、犯罪で家族の共通前提を意識的に支える「変形家族」が、私たちの「理想的な家族像」を大きく揺さぶる。「家族もどき」が「真の家族」に見えてくるのだ。
その比較として持ち出されるのが、虐待を受ける少女、ゆりの家族と、家を出た亜紀の家族だ。ゆりが行方不明になっても届出をしない「虐待家族」と、亜紀がいないことをひた隠す、一見ちゃんとして見える「幸福家族」。しかし実のところ、この「虐待家族」と「幸福家族」は同質だ。エゴや世間体や見栄のために、子どもをないがしろにする家族なのだ。「万引き家族」も「虐待家族」も、児童虐待(child abuse:子どもの濫用)をしていることに変わりはない。だが、「虐待家族」が親のエゴのために子どもをコントロールしようとするのに対して、「万引き家族」はまさに家族を営むために、子どもを含めた成員がみな互いの濫用を許している。しかしそれも長続きはしない。「正しい社会」が許さない。
ラストはバラバラになった「万引き家族」が、もう失ってしまったかけがえのないものを、万華鏡でも覗くかのように見るシーンの連鎖で終わる。信代は刑務所の面会室で祥太を見る。祥太はバスの窓から治を見る。亜紀はかつて家族が生活していたボロ家の縁側の戸を開けて室内を見る。初枝はその家の床下の土の中から、家族みんなを見るはずだ。そしてゆりはベランダから外を見る。自分を「真の家族」に迎え入れてくれた人々を思い出しながら。
時間が経つにつれて染み込んでくる。
父と二人で観ました。
鑑賞中、幸せな家族が崩れていく時、
ここからどうやってハッピーエンドに持っていくの?とハッピーエンドを願う私。
それは法の下ではありえない。
結果、通常訪れるであろう悲しい結末に。
帰り道、父に、ハッピーエンドがよかったよ。と言うと、
ハッピーエンドにはならない。って事を描いたんだろうと。
あのおかしな家族と、
それを世間一般の正しい言葉で責め立てた警察?の人。
どっちが滑稽に見えた?
どう考えても後者だよなぁ。と。
おかしな人たちじゃないよ。
精一杯生きている人たちに見えた。と。
素晴らしい映画だったと父は絶賛していました。
私には難しく、胸に何かがつっかえたような苦しさがありますが、
汚くて一見めちゃくちゃなのに
涙が出そうなくらい幸せな家族の光景と、
安藤サクラ、リリーフランキー、樹木希林の演技が素晴らしく、
レビューを読んでたくさん見逃していたことがあったので、笑、
もう一度じっくり観たいと思います。
リリーフランキーの「僕にはそれくらいしか教えられる事がなくて」のセリフがとても潔くグッときました。
子どもにどう接したらいいか考えさせられます。
今度は主人と観たいです。
ある夏の日々
夏の縁側で父ちゃんと母ちゃんと子供たち、ばあちゃんが花火見物に興じる。昔の日本の家族にはあった夏の一日。ところが彼らが見上げる夜空に花火は見えない。彼らの家はそびえ立つ巨大マンションの谷間にあるから。彼らが楽しそうに夜空を見上げる様を俯瞰で捉えたこのシーンが素晴らしい。良い映画には象徴的なシーンが必ずある。観客はそれを忘れない。
夏のシークエンスは他にもある。電車に乗って皆んなで海水浴。これも昔の日本の家族にあった夏の一日だろう。それから兄妹が蝉の抜け殻を取りに行って夕立に遭うところ。ずぶ濡れで家に帰ったら、父ちゃんと母ちゃんも濡れていた…
この夏の日々が彼ら家族にとっても観客にとっても宝石のように見える。
物語は冬から始まる。最初はこの奇妙な家族にイライラさせられる。皆んなグータラで家は汚い。汁飛ばしてメシ食うなよ、ばあちゃん。それでもスクリーンから目が離せない。俳優陣の演技の深さ、濃厚さに圧倒されるから。是枝監督はこのキャスト、家族に全幅の信頼を置いている。カメラは彼らを追うだけ。そして観客はこの家族を愛おしく思うようになる。
彼らにとっても観客にとっても幸福な夏の海岸でばあちゃんがボソッと云う。こんなのは長く続かないよ、と。実際ばあちゃんはその後死んでしまう。そしてこの家族は崩壊していく。やがて物語は秋から冬へ。
彼らは本当の家族でなかった。映画はいちばん下の娘だけが血縁ではないと知らせるだけで、父ちゃんも母ちゃんもばあちゃんも皆んな家族だと思わせて進行する。やがて彼ら各々の素性が明らかになっていく。
生きる術を多くは持たず、社会の隅に追いやられた家族の物語。生きるためには犯罪にすら手を出す。私が今年の傑作と思う「フロリダ・プロジェクト」も同じような境遇の母娘を描いていた。彼女たちは本当の母娘だったが。日本とアメリカで同じような傑作が生まれたのは偶然ではないだろう。タイトルから万引きをファミリービジネスにしているひと達の映画と思っている方も多いと思うが、そういう映画ではない。
リリー・フランキーの父ちゃんが、万引き以外子供たちに教えられる事が何もないと云うシーン、安藤サクラの母ちゃんがウチらじゃダメなんだよと子供たちを手放す事を告げるシーン。ここで涙腺が緩んでしまった。父ちゃんと息子の別れのシーンでは涙腺決壊。泣かせる映画じゃないんだが。あの父ちゃんと母ちゃんがいなくなってあの子たちはどうなるんだろう。
リリー・フランキーの父ちゃんの憎めないクズっぷり。安藤サクラの母ちゃんの母性、菩薩にすら見える。そしてあの子供たち。忘れがたい映画だ。
映画と現実の絆なのかも
この劇中の家族は、もちろん架空ではあるが一つ一つの要素が実際の事件を反映しているので、まるで現実の場面を覗いているようだった。
身につまされてつらい場面もあったが、目をそらす訳にいかない力がこの映画にはあった。
盗みはする、不正受給はする、しかも血のつながりも無い、とんでもないこの“家族”の元に親に虐待され逃げて来た女の子がやってくる。
厄介な事になったと最初は帰そうとするが、結局女の子は住み着く。この事が引き金となって、やがて家族は崩壊することになる。
終盤、高良健吾扮する捜査員(検事?)が女の子に「君たちの絆は本物じゃない」というようなことを言っていた。
(本当か?)と思った。絆がつながりという意味なら、太い細いはあるかも知れないが本物、偽物はないだろう。「本当の家族の絆が本物だ」というなら、実の親に虐待されたこの女の子をこの偽装家族は迷惑に思いながらも決して追い出さなかった。そして手を上げることもなかった。弱い者がさらに弱い者を叩く構図が、この貧しい家族には不思議とない。
リリー・フランキー扮する父は、取り調べで「なぜ子どもに万引きをやらせていたか?」の問いに「他に教えられるものが何もないんです…」と答えた。
(そうか、彼は父になりたかったんだ!)自分の唯一の技術を教えることで彼は父になった(気がした)のだ。それが端から見ればいかに愚かしく見えようとも彼は父になったんだ。
エンディングで男の子が乗るバスを名前を呼びながら追いかける偽父親。ちょっと見はベタに見えるこの場面が、深く切ない場面として胸に迫った。リリー・フランキーは素晴らしい。
結局親の元に戻った女の子は、また母娘とも虐待を受ける日々に。
母の顔の傷を案じて手をやって、母にキレられ「ごめんなさいは!?」と強要されるが、女の子は決して謝らない。昔はきっとすぐ謝ったのだろう。あの家族と生活したことで彼女も成長したのだろう。
アパートの廊下で一人遊ぶ女の子で唐突に終わるラストも映画的な大団円などにせずよかった。この映画は現実と続いている。
細野晴臣の音楽は、ドップラー効果を模したような不思議な音楽だったが、とてもこの映画に合っていた。
様々な音源(人)がやって来て、つかの間協和して、またそれぞれ遠ざかって行く。それがこの映画を体現しているように感じた。
つかの間の協和(特に海水浴のシーン)の何と美しく柔らかいことか。
観た後、時間が経つにつれどんどん気持ちが溢れ出す映画だった。
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