劇場公開日 2014年2月15日

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17歳 : 映画評論・批評

2014年2月18日更新

2014年2月15日より新宿ピカデリー、シネスイッチ銀座ほかにてロードショー

美人女子高生と同化したフランソワ・オゾンの魂の彷徨

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気がつくと、主人公の一挙手一投足に目を奪われ、まるで、彼または彼女と同じ時間を共有しているような感覚を味わうことはよくある。多くの場合、それはいい映画に違いないのだが、主人公が自分の欲望に忠実な女性、特に美女だった場合、監督はキャメラを覗きながらヒロインの傍観者になって、抗い難い自我の辿り着く先をほくそ笑みながらも冷徹に見つめているものだ。「昼顔」のルイス・ブニュエルがいい例だが、「17歳」でのフランソワ・オゾンは違う。

出会い系サイトにアクセスし、年齢を偽って売春を繰り返す少女、イザベルの行状を描く時のオゾンは、傍観者どころか彼女の体内にまで入り込み、その若く美しい肉体を借りてすべての出来事を追体験しているように思えるからだ。美人女子高生と難なく同化したオゾンは、初体験の相手であるダサいドイツ人青年を迷わず切り捨て、顧客の中でも一際謎めいて魅力的な中年紳士と疑似恋愛を楽しみ、秘密がばれて一旦普通の女子高生に戻った後、やっと出会えたお似合いの相手とベッドインした時、思わず“経験値”の高さを露呈させてしまう。この映画の作り手と描かれる人物の一体感こそが、誰もが抵抗なくイザベルを許容できる理由なのではないだろうか。

そうして、主人公と自らの過ぎ去った17歳を共に過ごしたオゾンは、映画のラストで登場する年齢も性差も超越したような彼のミューズ、シャーロット・ランプリングと出会った時、ようやくイザベルの肉体を離れて徘徊する魂を、46歳の体内へと仕舞い込む。拘束から解き放たれたイザベル、もしくは演じるマリーヌ・バクトの素に戻ったような清々しい表情が、何よりもそのことを如実に物語っている。

清藤秀人

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