鏡の中の女

劇場公開日:

解説

恵まれた生活を送っていた一人の女医が突然精神的な病いに陥りはじめて絶望的な苦悩を経験するという、生と死と愛をテーマにした人間ドラマ。製作・監督・脚本は「秋のソナタ」のイングマール・ベルイマン、撮影はスヴェン・ニクヴィスト、モーツアルトの『幻想曲』ハ短調のピアノ演奏はチェービー・ラレテイ、編集はシブ・ラングレン、製作デザインはアンネ・ハーゲゴード、メークアップはセシリア・ドロットが各々担当。出演はリヴ・ウルマン、エルランド・ヨセフソン、アイノ・トーベ・ヘンリクソン、グンナール・ビヨルンストランド、カリ・シルバン、シフ・ルード、スヴェン・リンドベルイなど。

1975年製作/スウェーデン
原題:Face to Face Ansikte mot Ansikte
配給:東宝東和
劇場公開日:1982年6月27日

ストーリー

エニー・イサクソン(リヴ・ウルマン)は、ストックホルムの総合病院の精神療法医であり、家族にも恵まれ、何不自由なく生活している聡明で美しい女性である。幼ない頃事故で両親を失った彼女は、かわりに祖父母に育てられ、今日も引越しで荷物を運び出してガランとした部屋から祖母(アイノ・トーベ・ヘンリクソン)に「そちらに行く」と電話したところだ。旧式のアパートに祖父母を訪ねたエニーは、大よろこびの祖母とベッドに寝たままの祖父(グンナール・ビヨルンストランド)の歓迎を受ける。その夜、疲れた身体を休めていたエニーは、寝苦しさからハッと目をさますが、暗闇の中で見知らぬ老女の幻覚を見てゾッとした。病院では、彼女はマリヤ(カリ・シルバン)の世話をしていたが、一向に快復する様子がなく医者の無力さに絶望的になっていた。ある日、主任医師の家で開かれたパーティで、エニーは婦人科医のトーマ(エルランド・ヨセフソン)と知り合う。食事を誘われたエニーは、すんなり承諾し明け方まで語り合うのだった。数時間後、マリヤが今は空き家になったエニーの家で気を失っているという知らせを受けたエニーは、早速かけつけるが、マリアを連れ込んだらしい二人の男に強姦されそうになる。かたくなに抵抗する彼女に男たちは諦めて帰っていった。その後トーマに電話をかけたエニーは、一夜を彼と共にするが、SEXなしで、ただ共に眠りたいとたのんだ。その後突如笑いの発作が彼女を襲う。家に送られたエニーは、三日間眠り続けるが、その後も再び幻覚に襲われ、ついに自殺をはかる。一命をとりとめ入院したエニーは、夢の中で、両親や祖父母と対面する。彼女は生身の人間として、感じていることをはじめて吐露するのだった。

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スタッフ・キャスト

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受賞歴

第34回 ゴールデングローブ賞(1977年)

受賞

最優秀外国語映画賞  

ノミネート

最優秀主演女優賞(ドラマ) リブ・ウルマン
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映画レビュー

0.5地雷映画♥

2023年12月15日
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マサシ

4.0精神科医が患者に向き合ううちに、自分の精神の闇に囚われていく。ミイ...

2023年11月11日
iPhoneアプリから投稿

精神科医が患者に向き合ううちに、自分の精神の闇に囚われていく。ミイラ取りがミイラになるお話だけど、精神世界の衣装や美術が幻想的で良かった。

配信で鑑賞

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madu

3.5他者の愛が確かにする、自身の実在

2023年3月25日
iPhoneアプリから投稿

202303 444(3.5)
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 トーマス
無信仰者のまじないがある
「出会いによって実在できる日が来ますように」
「いつか実在できますように」と繰り返すんだ
実在とは
誰かの声を聞き
それは仲間が発した声だと認識すること
誰かの唇に触れ
唇だと即座に、何千回でも認識することだ
今触れたのは確かに唇なのかと
不安にかられる必要がなく
それは唇だと確信がもてること
私にとっての実在とは、喜びは喜びとして
痛みは痛みとして存在することだ
どうかな、想像とは全く異なるのかもな
それは存在せず、求めつづけるもの

 イェニー
向かい合う老夫婦を私は静かに見ていた
強い絆で結ばれて
ふたりは少しずつ別れの時に近づいていく
神秘的で恐るべき瞬間
尊厳と謙虚さ
その時私は理解した
愛はすべてを包むのだ
死でさえも

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HAPICO

4.0女性精神科医のレイプ未遂からの人格崩壊と再生への道筋を描く、ひたすら怖いトラウマ・ホラー。

2023年2月6日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

これ、ほぼニューロティック・ホラーだよね……。

難解でとっつきにくい映画ではあるが、随所にベルイマンらしい、こちらの神経に直接触れてくるような気味の悪いショック演出が多用され、一度観たら忘れられないたぐいのえぐいトラウマ・ムーヴィーに仕上がっている。

もともとは、全4回、3時間のテレビドラマ用に作られたものを映画にまとめたらしい。
その意味では、『ファニーとアレクサンデル』と同じ成り立ちの作品なのだが、どっちにしてもよくこんなのテレビで流したもんだ。まあ、60~70年代には日本でも鈴木清純や勅使河原宏や実相寺昭雄のくるったテレビ映画がお茶の間で流れてたわけだから、そういう時代だったというしかないんだろうけど。

前半では余裕のある女精神科医として、知的な大人の女性としてふるまっていたリヴ・ウルマンが、レイプ未遂事件をきっかけに、あっという間に人格崩壊していく様が、おそろしいタッチで描かれる。

こわいのは、「レイプ」されかけた恐怖が「トリガー」であるのは確かなんだけど、
それによる男性恐怖とか、精神的外傷自体が転落の原因では必ずしもないことだ。
「レイプ」されかけたこと以上に、そのとき「ああやられちゃうんだ」と思い、
なんだか受け入れる気になったのに「乾いていたせいで出来なかったこと」
「そのことに対して残念に思ってしまった自分」というところから始まって、
「自我」を形成していた「盤石だ」と思っていたすべてが、音をたてて壊れていく。

ヒロインのイェニーは、有能な精神科医。
今いる家を引き払って、8月に建つ新居に引っ越そうとしている。
彼女との2カ月の同居を歓迎してくれる、老いた祖父母。
長期出張で離ればなれだが、関係は悪くない夫。
サマーキャンプに行っていて、しばらく会っていない娘。
精神科医としての新しい仕事。かかえている一向によくならない患者。
パーティーで新しく出逢った、イケメンの婦人科医。

そこに投下される、「絶対的な暴力」という「きっかけ」。
電話の呼び出しを受けて、がらんどうの旧宅に戻ったら、患者のマリア(意思疎通できない状態で自慰にふけっている)が倒れていて、男ふたりの賊が侵入している。そこで救急車を呼ぼうと電話をかけようとしたら、いきなりレイプされかけるのだ。
恐怖とショックは、彼女の心の均衡を乱す。
安定していたはずの周囲との信頼関係や、自分に対する自負心をゆるがし、心の奥底に押しとどめていた過去のトラウマや、家族に対する不信、愛だと思っていたものの正体への疑心を噴出させる。

愛していると思っていた祖母のことを本当はどう思っていたのか。
愛していると思っていた夫のことを本当はどう思っていたのか。
愛していると思っていた娘のことを本当はどう思っていたのか。

自分でもとめられないような暴風雨のごとき躁鬱の激震のなかで、ガチガチに固めてあったはずの「あるべき幸せな生活」をいったん「わや」にして、自らについて「再規定」することを強いられるヒロイン。
狂気は狂気を呼び、恐怖は恐怖を呼び、崩壊は崩壊を呼ぶ。
堅固な城が要石(かなめいし)をひとつ抜いただけで、砂上の楼閣のように崩れ落ちるように、「心」がガラガラと音を立てて壊れ果て、更地に戻っていく有り様は、まさに「精神崩壊のスペクタクル」であり、傍目に観ていてこんなに「こわい」話はない。

きっと、われわれだって、そうなのだ。
僕は妻を愛しているし、仕事を愛している。親を愛している。
少なくとも、そう信じて、心の平静を保っている。
でも、何かの容赦ない精神的激震を「外から」「避け得ない形で」喰らうだけで、人間の心というのはこのヒロインのように、容易に壊れてしまうものなのだ。
要するに、これは彼女が「レイプ未遂」を克服するといった、薄っぺらな映画ではない。
外的に揺さぶられたせいで、いったん完全に瓦解してしまった「精神の城」をもう一度建て直すため、ひたすらもがき苦しむひとりの女性の姿を赤裸々に描いた映画なのだ。

その過程で、彼女が体験するのは、「セルフ・カウンセリング」とも呼ぶべき、精神治療の実践そのものだ。
過去のすでに忘れてしまった記憶――あるいは、あえて蓋をして封印してしまった記憶を遡ることで、祖父母によって規定された自らの人格に「気づき」、アダルトチルドレン問題を乗り越えていく。すべての不安と欲望をさらけ出すことで、自らの不寛容、不感症、防御性に関してその淵源に迫っていく。
まさに、現代の治療で行われている施術となんら変わらないことを、当たり前のように70年代の映画が描き出していることに衝撃を受ける。

前半はひたすら抑制的に、静謐に進行するものの、廃人同然の面立ちで自慰にふける患者のマリアや、部屋に現れる黒目で片目を埋め尽くされた見知らぬ老婆の幻影など、ところどころに薄気味悪いショットが挿入される。
で、画面が壁によって真ん中で分割された状態で進行する、印象的なレイプ未遂シーンがやってくる。以降、ヒロインがしだいに狂気に侵食されていく様は、ただただ本当に恐ろしい。
『仮面/ペルソナ』でも思ったけど、こういうときのリヴ・ウルマンって、マジで凄まじいね。
とくに、モーツァルト《幻想曲 ハ短調 K.475》の流れるリサイタルから、婦人科医の家に転がり込んだあとの演技は、ちょっと筆舌に尽くしがたい。
必死に押し殺した様子で何が起きたか説明するところから、唐突に始まる「笑い」の発作、それが嵩じて慟哭になり、さらには絶叫と引き付けへとエスカレートしていく様は、『エクソシスト』や『震える舌』と同じか、それ以上に恐ろしい。
『ファニーとアレクサンデル』におけるエミリーの慟哭と絶叫って、これの焼き直しなんだな。

でも、この映画の本当に恐ろしいところは、ここからだ。
家に戻って24時間眠りこけて、さらに日曜まで計3日間寝つづけて、スッキリ目覚めて、「不思議な感覚は残ってるけど不快じゃない」とか口に出して、これから何をするかを口に出して、「コーヒーを飲む」まで実践したあと、おもむろにシェイドをおろしたイェニーがさて何をするのかというと?
彼女は、睡眠薬をひとビンむさぼって、自殺をはかるのだ。

なんで? だいぶ楽になったんじゃないの?? どうして???
猛烈に不条理な展開。
でもたしかに、大変なストレスを経て、前後不詳に寝落ちしたあと、明るい日差しのもとで爽やかな目覚めを迎えた結果として、「猛烈な鬱衝動に駆られる」のって、たしかに「ありそう」な気もする。
人間が自死を選ぼうとする瞬間って、もしかすると不幸のどん底じゃなくて、こういうちょっとしたエアポケットというか、ストレスが抜けてふわっとできた「間」にこそ、「魔」が差してくるものなのかも。
自分は人生で死のうと思ったことなどないし、そもそも悩んだり苦しんだりした経験自体あまり思い出せないが(妻からは多幸症呼ばわりされている)、この映画で呈示される「自死のメカニズム」はやけに生々しい分、観ていて本当にぞっとさせられる。

壁紙の模様を指でなぞりながら、ブラームスの子守歌らしき旋律を口ずさむイェニー。
やがて、彼女は夢に沈んでゆく。赤いマントに赤い頭巾(赤ずきん?)の彼女は、祖父母の家に引き取られた日に感じた感覚を思い出していく。「老人は臭い」「部屋が息苦しい」「おばあちゃんに触られるのも気持ちが悪い」……。うわあ、そんなこと考えていたのか。観客もびっくり、イェニー本人もびっくり。
祖母による厳格で支配的な養育というのは、『ファニーとアレクサンデル』でも繰り返される、ベルイマン本人の過去ともつながる重要なファクターだ。

目覚めて以降も、彼女は断続的に悪夢に落ち込んでゆく。
事故死した父母との奇妙な距離感。
愛してるパパ。愛してるママ。でも憎んでる。
祖母の「しつけ」の記憶。ドアの前に立たされる。クローゼットに閉じ込められる。
イタコのように祖母の声がイェニーに憑依して、彼女を責め続ける(ここもクッソ怖い)。
この辺のテーマ感もまた、優しいパパが母親と祖母に軽んじられていて「ダメ男」と痛罵されてるとかもひっくるめて、ほぼそのまんま『ファニーとアレクサンデル』に引き継がれてるんだなあ。

一方、現実世界でのイェニーは、病室で夫と、婦人科医と、そして娘と対話を交わし、退院してからは祖父母と交流をもつ。
回復に沿って、イェニーはまたもと居た日常に戻っていくわけだが、その「日常」はもはや前と同じ「日常」ではない……。

ー ー ー ー

あと、夢のシーンを観ていて思ったんだけど、原色の赤を強烈に目立たせる色彩設定や、若い女が恐怖におびえながら広い邸宅の長い廊下をドアを順番に開けながら進んでいくというシチュエイション、開けてはいけないドアという設定、花の模様のステンドグラス、背後にたたずむ老婆の恐怖……、これって、もしかしてダリオ・アルジェントの『サスペリア』(77)に結構影響与えていないか?
『サスペリア』の霊感源としては、師匠筋のマリオ・バーヴァ以外だと、アントニオーニの『欲望』やニコラス・ローグの『赤い影』などがぱっと想起されるが、間違いなく僕は、アルジェントはベルイマンをしっかり観て、その要素を吸収し、自作の随所で活用しているという気がする。
とはいえ、これはアルジェントに限った話ではない。
ウェス・クレイヴンはベルイマンの『処女の泉』のリメイクとして『鮮血の美学』を撮ったわけだし、キューブリックはベルイマンの『狼の時刻』の影響下に『シャイニング』を撮ったと言われているし、アリ・アスターは本人曰くベルイマンの『叫びとささやき』の強い影響下にあるわけで、多くのホラー作家が、実はベルイマンに私淑しているのだ。
これは逆にいえば、ベルイマンの作家性の「核」に、「ホラー」の要素があるということの証左でもあるだろう。

60年代以降のベルイマンが、精神分析寄りの作品群を多く世にだしたのは、ちょうど当時のミステリーの動向とも軌を一にしている気がする。
すでにミステリーの世界では50年代から、ニューロティックな気配のするノワールが作られ始め、やたら精神科医に通院する主人公とか、虚実のあわいが曖昧なメンヘラヒロインが出てくるようになっていた。さらには、英米を中心に「ニューロティック・スリラー」と称される一連のミステリーが書かれるようになる。これは、単に精神科が話の中核で出てきて、主人公の心の闇が描かれるというだけの話ではなく、二重人格や記憶喪失など、精神分析的なギミックをミステリーの「どんでん返し」に用いたもので、リチャード・ニーリィやマーガレット・ミラー、ヘレン・マクロイあたりがその代表作家だ。映画で言えば、ヒッチコックの『白い恐怖』
こういった作品群の背景には、フロイト学派の成熟と、精神科受診の一般化があげられるだろう。あの頃の小説を読んでいると、なにかあるとすぐ精神科にカウンセリングを受けに行き、クスリをもらって飲んでいるシーンがしょっちゅう出てきて、なんだか不思議な気持ちになる。
ベルイマンもまた、50年代のそういった「とがった雰囲気」を敏感に察知して、「精神分析」をテーマにとる形而上学的作品に挑んだのではないかと思う。

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じゃい