アラビアンナイト(1974)

劇場公開日:

解説

「デカメロン」「カンタベリー物語」に続く艶笑文学の映画化。製作はアルベルト・グリマルディ、監督・脚本はピエル・パオロ・パゾリーニ、撮影はジュゼッペ・ルゾリーニ、音楽はエンニオ・モリコーネが各々担当。出演はニネット・ダボリ、フランコ・チッティ、フランコ・メルリ、テッサ・ボウチェ、イネス・ペレグリーニ、マルガレート・クレメンティなど。

1974年製作/イタリア
原題:The Arabian Night
配給:ユナイト
劇場公開日:1974年9月26日

ストーリー

--真実はひとつの夢のなかにあるのではなく、多くの夢のなかにこそある--。箱入り息子で、美少年のヌレディンは、父親の友人に初めて酒を飲まされ、酔った勢いで父親を殴り倒した。翌朝、父親の怒りを買ったため、姉に追い立てられるようにして家を出た。隊商に加わり、ゼビドの町にやってきたヌレディンは、女奴隷売買を見物していた。売りに出された女ズルムードの値はどんどん釣り上がっていくのだが、彼女自身が主人を選ぶ権利を与えられているため、買手は彼女から嘲笑を浴びるばかりだった。そして見物人の中のヌレディンに眼をとめたズルムードは、彼こそが自分の主人であるといった。二人は幸福な生活を始め、ヌレディンはズルムードが織る美しい刺繍が施された布を売り歩いて生計をたてた。だがある日、彼はズルムードの忠告も聞かずに、青い眼の男バルムスにその布を売ってしまったためにズルムードを失う羽目に陥るのだった。バルムスはヌレディンを薬で眠らせ、ズルムードを略奪して姿を消した。眼が覚めて途方に暮れるヌレディンに、とある金持ちの奥方が救いの手をさしのべた。ヌレディンは彼女の手筈で、その夜、ズルムードが囚われているラシドの家の隅で待ち構えていたが、通りかかった四十人の盗賊の一人がズルムードを犯していってしまった。盗賊は彼女を杭に縛りつけ、番人を残して去っていった。ズルムードは番人を騙すと馬と衣服を剥ぎ取り、美しい騎士と見まごうばかりの出立ちで、とある町にやってきた。そこで彼女を待っていたのは多くの臣下を従えた王の歓待だった。王曰く、この町に来た最初の騎士がこの地の王になる、という。王の娘ハヤット姫との婚儀が執り行われようとしたとき、ズルムードは自分が女であることを姫に打ち明けた。一方、ヌレディンは今日も見知らぬ土地をズルムードを捜し求めて遍歴の旅を続ける途中、うら若き三姉妹に助けられた。そしてその中の一人が本を読んで聞かせてくれた。やがてヌレディンは三姉妹に別れを告げ、今日もズルムードを捜して砂漠を彷徨うのだった。そのとき、ヌレディンの眼前に獅子が現われた。その獅子に導かれるままついていくと、ある町に出た。それは、今ではワルダン王として君臨しているズルムードの町だった。ワルダン王の命により召使いにされたヌレディンは、己れの運命を嘆いたが、衣服を脱ぎ、ヌレディンに添寝する王があろうことか、長い間、自分が捜しあぐねていたズルムードだったとは。二人は涙を流さんばかりに歓喜しながら抱きあったのはいうまでもない。--初めは苦しくとも終わりは甘きことよ--

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映画レビュー

3.0パゾリーニ「生の三部作」最終作。残虐で酷薄でピーキーな、アラビアン・ナイトの「怖い」世界。

2022年11月23日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

ぴあフェスのパゾリーニ特集上映京都編、鑑賞三本目。
いわゆる「生の三部作」の完結編で、イタリア、イギリスときて、アラブの艶笑譚が題材に採られる(世界三大艶笑譚というらしい)。
著名なシンドバッドやアラジンの話は一切扱われず、男と女の情念の織り成す「奇譚」がイレコ構造で何本か紹介される。
艶笑譚とはいっても、基本おおらかで陽気なノリだった『デカメロン』や『カンタベリー物語』と比べると、ずいぶんと味わいが異なる。
より、どす黒く、えげつないのだ。

とにかく、西欧以上に、アラブ世界においては、女性の置かれている立場が過酷だ。
簡単に奴隷として、売られる。犯される。殺される。ひどい扱いである。

それゆえに、虐げられた女性側からの復讐と反撃もまた、過酷になる。
時に女たちは連帯し、非道を働く男たちに一泡吹かせるのだが、女をかどわかした男も、監禁して性奴隷にした男も、一発で磔刑にされていて、なかなかに凄惨だ。
一言でいえば、西欧世界より、「命が軽い」。

さらに、アラブ世界では、物語構造自体、なんだか理不尽に歪んでいる。
囚われの王女を助けにいく男と赤い魔人の話は、その際たるものだ。
なんだ、この救いのないバッドエンドは……!
ヨーロッパ的な因果律や道徳律から離れた物語は、通り一遍の思惑や予想をはるかに超えた自由な進行で、われわれを思いがけない終幕へと連れて行ってくれる。

パゾリーニは、語り口も変えてきている。
短編をシームレスにつないでいた前二作と異なり、核となる長編に短い別のエピソードを挿入する形をとっているのだ(語り部としてのシェエラザードの存在は、『デカメロン』の10人の貴族同様、きれいさっぱり消し去られている)。
すなわち、放浪する少年マスターと、王となった女サーヴァントの別離と再会の物語を軸にして、そこに二人と出逢ったさまざまな人物の体験談や、巻き込まれる奇禍をさしはさんでいく構成だ。
この結果、完全に「ネタ映画」として成立していた前二作とちがって、ちゃんとした「幹」の物語のあるまっとうな「劇映画」に仕上がっている。

色彩設定については、前二作が、イタリア・北欧のルネサンス~バロック期絵画にソースを求めていたのに対して、アラブを舞台とする本作では、やたら赤茶けた色調を採用している(フィルム上映だったから、経年劣化による部分もあるかもしれないが、それにしても赤っぽい)。
総じて、舞台美術やロケーションには妥協を許さず、かなりお金をかけて壮大な映像を成立させている。前二作と異なり、魔人の出てくる回で、ちょっとしたSFXも導入される。

ー ー ー ー ー

ただ、『カンタベリー物語』と比べて面白かったかと言われると、個人的にはちょっと微妙かなあ……?
まずは、長編映画としての体裁が整った分、素人に無理やり演技をやらせている弊害が目に付くようになった。出演者はパゾリーニの指示に従って、笑ったり泣いたりしてるのだろうが、それぞれ感情表出がやたら唐突で、観ていてかなりの違和感がある。
とくに主役のふたりは、女奴隷も主人の少年も、カメラが切り替わるたびにめそめそしたり、高笑いしてたり、しょうじきかなり気持ち悪い。
それと、べつに差別的な意図はないのだが、純粋にキャラクターの顔の見分けがあまりつかないので、誰がどこに出ていた誰だったか、結構ごっちゃになってしまった。
あとやっぱり、全体に話がじめっとしてるというか、嫌あな気分にさせられるネタが多くて、観ていてダウナーな気分になっちゃうんだよね。
なにせ、あのパゾリーニにとっての天使ニネット・ダヴォリくんまで、あえなく「ちょん切られちゃう」ような、救いのない映画なのだ。赤鬼フランコ・チッティにダルマにされる王女様の話も、キャラの扱いがあまりにひどくて、会場で客から変な声があがったほど(唐突に始まるスプラッタ描写!!)。少なくとも前二作のように、へらへら笑ってみてはいられない。

とはいえ、彼の『豚小屋』や『ソドムの市』につながる感性の発露であると考えれば、「生の三部作」とパゾリーニらしい「えげつない映画」の橋わたしになる映画といえるのかもしれない。

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じゃい

4.0パゾリーニ監督独特の映像世界にある人間の生と性の旅の物語

2022年3月18日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

パゾリーニ監督の世界三大艶笑文学の映画化シリーズを締めくくる「アラビアンナイト」は、エピソード集の「デカメロン」「カンタベリー物語」とは違って、一つの物語を紡ぐ展開の面白さと分かり易さを持ち、全体としては東洋的な神秘主義の映像世界が感じられて面白かった。詩人としてデビューし脚本家になったパゾリーニ監督の特徴がいい形で表れていると思う。それでも前作同様、欲望をさらけ出す人間の赤裸々な表現は相変わらずで、好みが分かれる作品には違いない。
町の売春宿でめぐり逢った少年ヌレディンと奴隷の少女ズルムードが離れ離れになってから奇跡の再会を果たすまで、映画は自由自在に若いふたりの運命の矛先を変える。しかも、その物語とは別なエピソードを加えて、人間が生きるとは予測の付かない旅のようなものとして詩的に描いていく。プロの役者はほんの数人で殆ど素人の若者たちで作り上げた、素朴で土着的なアラビアンナイトだ。結果的かも知れないが、そこに不思議な魅力がある。
神秘的生と性のパゾリーニ監督の分かり易い世界観が映像に表現されていたと思う。

  1978年 5月9日  池袋文芸坐

ピエル・パオロ・パゾリーニ監督は問題作「ソドムの市」制作の1975年に謎の事件で亡くなり、大きなスキャンダルとして話題になって個人的にも衝撃を受ける。その当時は未だ、「アポロンの地獄」などの代表作を手掛けたイタリアの名監督の一人として名前を認識するだけだった。死後幾つか作品を観たが、どれもが既成の映画と違って独自の個性を持った作家だったことを知る。それでも面白さ以上に感動を得る監督ではない。その中で、この作品と「テオレマ」には映画として好感を持った。

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Gustav
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