【「パトリシア・ハイスミスに恋して」評論】それぞれが描き上げるハイスミス像を前に、「恋して」の気持ちに感染した自分に気づく

2023年11月5日 08:30


「パトリシア・ハイスミスに恋して」
「パトリシア・ハイスミスに恋して」

ベストセラー作家をめぐるしかつめらしい情報をつめ込む類のドキュメンタリーとは一味違う、切なさにも似た魅力を湛えた快作。エモーショナルな随想映画と呼んでみたくなる。その意味では「パトリシア・ハイスミスに恋して」というタイトル、「恋して」の部分が監督エヴァ・ヴィティヤのスタンスを率直に表しているかもしれない。

フィルムメイカー誌のインタビュー(2022年9月2日)でヴィティヤは、ハイスミスの作品は読んでいたが夢中になったわけではなかった。それよりはスイスの文学資料庫に収蔵されていた習作ノートに触れ、作品から感じる印象とは別のひとりを見出したことが人の部分に光を当てた映画を撮るきっかけだったと述懐している。見逃せないのはヴィティヤが未刊の段階でノートと膨大な日記に遭遇し得たこと。活字ではなく、それを書いた時のハイスミスの息づかいさえ感知されるような手書きの文字を介してそこに綴られた作家の想い、秘匿したものをより生々しく感じとることができたのではないか。筆記体の文字のそんな生身の感触、それをそのまま映画はモノクロの画面に写し、映し出される個の想いを鮮やかに観客へと受け渡す。「私が小説を書くのは生きられない人生の代わり、許されない人生の代わり」と胸の裡に波打つ思いを抱きしめながら独りであることを選び、しかし愛を分かち合える誰かを探し求めて旅を続けもした繊細で傷に塗れた孤高の魂の震えをより直截に観客は感受することになる。

「自分自身を正しく映しだすには二つの鏡がいる」と書いたひとりの内面に怜悧にではなく、いっそ体温を感じさせるようなやり方で肉迫していく映画は、ハイスミスの生の行路の核心として愛を捧げながら拒まれ続けた母との関係を見出し、さらにその母に“矯正”を強いられもしたレズビアンとしての自己認識とロマンスの遍歴へと眼差しを注いでいく。「見知らぬ乗客」「キャロル」「リプリー」とハイスミス原作映画にも見て取れるクィアな愛の領域。元恋人たちの証言。故郷テキサスの親類のみごとに保守的意識に裏打ちされた回想。ロデオや星条旗を掲げたカウガールのイメージショットや日向の匂いがするようなアコースティック・ギターの調べに、生きにくさをこそ感じさせたはずの環境の奇妙な懐かしさが思われる。裏表のラブとヘイト。独特の美貌を輝かせる青春期から歳月に晒された美がいっそう深く滋味を湛えた晩年へとその時々のポートレートに刻まれた心の陰翳。唇の端に消せない嘲笑がちらつくインタビュー=深い屈辱の記録映像。それぞれが描き上げるハイスミス像を前に、「恋して」の気持ちに感染した自分に気づくだろう。

川口敦子

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