死刑にいたる病のレビュー・感想・評価
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視聴後すぐにレビューすれば良かったとつくづく思わせられる作品。 な...
視聴後すぐにレビューすれば良かったとつくづく思わせられる作品。
なぜなら、今作は再度視聴したくないので思い出してレビューしなくちゃいけない。
しかし、うろ覚えで書くのは辛い。
記憶力は無いほうで、おかげで何回も同じ映画を楽しめるというメリットがある。
しかし今作は、しばらく観たくない。
まあ、そのくらい嫌という記憶だけが残ってしまうという作品。
やっぱ、ホラーに近いミステリーは苦手なのかも
何度も裏切り観ている人を飽きさせないが、最後の女の子の部分は理解ができなかった。女の子自身は真面目ではあったかもだが、これまでとタイプが違う気がしたが、意図として親の兼ね合いから自尊心の低い子がターゲットだったから?でも、最初のアルバイトの女の子は違ったような。。いつもの思考系とは違うタイプで理解が難しかった。
面会室のアクリル板にうっすら映し出されるふたりの顔
ある大学生・雅也のもとに届いた一通の手紙。それは世間を震撼させた稀代の連続殺人鬼・榛村からだった。「罪は認めるが、最後の事件は冤罪だ。犯人が他にいることを証明してほしい」。過去に地元のパン屋で店主をしていた頃には信頼を寄せていた榛村の願いを聞き入れ、事件を独自に調べ始めた雅也。しかし、そこには想像を超える残酷な事件の真相があった―(公式サイトより)。
原作は「イヤミス(読後、嫌な気持ちになるミステリー)」に分類されたというが、本作も後味は悪い。しかし、後味の悪さはだいたい、わたしたちが普段、蓋をしているなにかが描かれていることに由来する。
例えばそれは、大人になっても抜け出すことが難しい生育環境の影響であったり、成長の過程で自己が肯定される喜びを逆手に取った洗脳だったり、結局のところ、自分は何者でもないのだという空虚感だったりする。阿部サダヲ演じるシリアルキラー・榛村(はいむら)は、自分が生きるために「必要」と位置づけ、これらを駆使し、悪行を繰り返す。
印象的だったのが、本作でメインともいえるほどたびたび登場する榛村と雅也の面会室でのシーン。ふたりを仕切るアクリル板に双方の顔がうっすら映し出される演出が多用されている。例えば、ロードムービーの金字塔「パリ、テキサス」では、拘置所の面会室のような小部屋で裸を晒す戯女として働く失踪した妻と、彼女を探し当てた夫がアクリル板越しに電話で話す場面があるが、そこにうっすら映し出される双方の顔は反対を向いていた(はず)。
長く分かり合えなかったふたりを表す象徴的なシーンだが、本作では榛村と雅也はアクリル板越しに同じ方向を向いているように映し出されている。Fラン大学に通う何者でもない雅也が一時的に、榛村に傾倒しかかったようなタームとの符号を思わせ、白石監督のきめ細かな演出が光った。
阿部サダヲの狂人っぷり、水上恒司の小声っぷりは言わずもがな好演だったが、本作で初めて知った宮崎優は良い俳優になりそうな気配がした。
Fランク映画の真似をして、良い子は人を傷つけぬ様にね♥
ストックホルムシンドロームの変形型の薄気味悪いお話。
Fランクの大学?
Fランク大学の法学部の学生に真実を暴かれてしまう。絶滅危惧種大和民族の警察行政が、24件の連続殺人鬼を見逃す程『稚拙な集団』ではなかろう。また、司法組織も『見なし』で犯罪を弁護したりはしない。
また、キルケゴールを持ち出す程、犯罪が実存主義を無視したDNAによるものと言う味方も偏見を生む。
どちらにしても、原作者の精神構造にもう少し冷静さを求めたくなる。
それならば性犯罪まで及ばねば嘘になる。やってる事はペド◯◯◯◯の最悪の犯罪。この映画ではそこをゴッソリ抜粋してしまって、犯罪を綺麗ごとにしてしまっている。これをれっきとした性犯罪として見れば、24人の魂でストックホルムの街は瓦解する。
連◯幼女殺◯事件に哲学はなかったかはずだ。
サイコパスの天才的な人心掌握術
最近邦画サスペンスを観まくってるなかの秀作。
阿部サダヲと岡田健史の演技もストーリーも良い。
心理的なサスペンスに引き込まれました。
感想メモ
阿部サダヲの表情が素晴らしい、光がない目…
肯定して、選ばせる
今日はどっちが痛いことしてくれるの?
女の人途中まで主人公に対する言動キモいなーと思ってたら、最後まさかの!!剥ぎたくなる?で目のぎらつきが変わってよかった
君みたいな普通の人は特別な存在になりたがる、自分が殺人犯の息子だと知った瞬間無敵に思えてきただろう?みたいなセリフ刺さった、自分の本質を見透かされている気がして
裁判傍聴芸人の阿曽山大噴火がいた!
毎度ミステリーにありがちな・・・
僕はどうも日本のミステリー映画の抱える上から目線と言うか、どれだけ伏線引いてどれだけ観客を欺けるかに固執するあまり映画としての美しさ、映像としての調和性、映画のみが持ちうる美学のようなものが疎かにされているように感じる事がある。その点韓国のそれには一定の美学が根底にあって、とても好感持てる。その一方で本作品のようにてんこ盛りの伏線をこれでもかこれでもかと繰り出し、挙句の果てにあの最後・・ちょっとなぁ~そう言うのは小説でやってくれの世界。
絶望と拒絶、そして人間の不確かさについて
私はシリアル・キラーが登場する作品が好きた。そして、シリアル・キラーのキャラが好きだ。
衝動型より秩序型が好みで、こだわりが強く几帳面なタイプ、己の理想とする儀式を遂行するタイプだとなお良い。そういう意味で、「死刑にいたる病」の榛村大和はメチャメチャ好みのタイプ。テンションの上がるシリアル・キラーである。
冒頭からちょっとヤバい文章を書いてしまったが、なぜ彼らが好きかと言えば「他人の心の奥底は理解しようがない」という大原則を常に思い出させてくれるからだ。
ある程度推測は可能だし、倫理的・道義的に逸脱していても「止められない衝動」と「行動に至る過程」については理解できる。だが、どうしても完全に理解することなど不可能な「不確実性」が必ず残る。そこがある意味とても人間らしく、リアリティはそれを根拠に存在する。
人間は不確かな生き物である。今このレビューを書いている私も、今このレビューを読んでいるあなたも、この映画の主人公である雅也も、この作品で23人の高校生を殺害した大和も、みんな不確かな生き物なのだ。
ある時は聖人君子のように振る舞い、またある時は動物的で、堕落した瞬間もあれば高潔な時もある、そんな生き物なのだ。
雅也が「殺人鬼の息子」であるかもしれないという可能性に、不安よりも希望や愉悦を抱いたように、一見矛盾するような感情が同時に人間を支配する。
この映画は、「犯人」大和と「探偵」雅也がゆらゆらと不確実性の中で揺れながら、重なったり離れたりすることそのものを楽しむ映画なのだ。
もっと言えば衿子と金山にも重なりがあり、雅也と金山にも重なりがあり、衿子と桐絵にも重なりがある。そうやって複数の人物が加害者と被害者を結びつけるように見えてくる構造が秀逸なのだ。
タイトルがキルケゴールの名著である「死に至る病」にインスパイアされたものであることは想像に難くない。
難しい上にボリュームもあるので簡単にまとめると、キルケゴールの言う「死に至る病」とは絶望のことであり、絶望とは人間だけが持つものだ。キルケゴールの「絶望」は、自己に対する理想と現実のギャップや自己と世界のギャップによって生じる、一生つきまとう問題である。絶望とは生きながらに死んでいる状態で、これを「死に至る病」と呼ぶ。
では、「死刑にいたる病」とは何なのか。単純に考えれば、「死」と「死刑」の決定的な違いは他者の介在である。「死」は等しく誰にでも訪れるが、「死刑」は他者から宣告され執行されるものだ。自己が他者にとって理想的で無い場合、つまり拒絶の状態こそが「死刑にいたる病」なのではないかと考えられる。
大和は一見地域社会に溶け込み、拒絶とは無縁そうに見える人物だが、根本の家族関係で明らかに拒絶されて育っている。拒絶、というキーワードに着目すると、雅也も、衿子も拒絶によって孤立している状態を長く経験している。
この拒絶こそが、大和の起こした事件のきっかけであり、雅也と大和を結びつけるきっかけでもあるのだ。
生きながらにして死んでいる状態が絶望であるならば、生きながら「死刑」を宣告されている状態を何と呼べば良いのだろう?
そしてその行き着く先はやはり「死刑」なのだろうか?
拒絶の反対が「受容」であるとすれば、他者から受容されることによって自己は救われると信じても良いのだろうか?
大和が行っていた犯行は、ある意味この受容を逆手に取った巧みなマインドコントロールとも言える。拒絶の恐ろしさを知っているからこそ、拒絶から必死に這い上がろうとする少年少女たちの心に上手く入り込み、「受容」を餌に次々と獲物を手にかけていくのだ。
それは母の爪を痛めつける「拒絶された子供たち」から母を守ろうとする行為でもあり、自分に対する罰でもあり、また自分と同じ境遇にある子供たちへの愛着でもある。
シリアル・キラーは面白い。愛も憎しみも善も悪も全て極端から極端に振れて、しかも同時に存在している。そして、結局のところ完全に理解することなど出来なくて、いつまでも心を捉えて離さない。
サスペンスとしての出来栄えも十分楽しめる上に、素晴らしいシリアル・キラーに出会わせてくれた今作は、しばらく私の心に染み付いて離れないだろう。
冗長 ただただキモイ 無理筋
ダラダラと長い
元々個性が強い役者がやりすぎると
趣味の悪いコメディ クソつまらん
過激な暴力シーン
過激と言うより ただただ気持ち悪い
過激なシーン出せば 目を引くだろってのが透けて見える
展開も不自然
筧くん 突然ぶつかったおっさんを殺しかけるのは無理があるよ
人心掌握がうまいと面会時間が伸びる?
都合好く手紙でて来る
は?は?は?
とんでも犯罪者描きたいんだろけど無理筋です
そんなんを踏まえると 面会室での名優の対峙も
どーでも良くなる
つまらん2時間 キツかったー
見当違いなレビューだと承知しています
高校2年生〜大学4年生までデンマークの哲学者であるセーレン・オービエ・キルケゴールの研究をしていました。
彼の最も有名な著書はおそらく、死に至る病だと思います。
日常生活でキルケゴールに触れられることは滅多にないのでこの映画のタイトルを見て、大好きなキルケゴールに少しでも関係があるかと期待してみましたが無関係でした。
キルケゴールのいうところの死に至る病は絶望です。
彼にとって絶望は罪でもありましたが、シリアルキラーが死刑になることとは全くもって異なります。
ざんねんでした。
映画としてはゾクゾクして面白い部分も多かったです。
私と同じようにキルケゴールが好きで映画をみようと考えている人もいるかもしれませんので、レビューに残しました。
阿部サダヲの演技力は申し分ないが・・・
小説は未読です。
映画だけでみると、何か腑に落ちないまま終わってしまった。
はいむらがなぜサイコキラーとなったのか、が
今作で描き切れていなかったため、
殺された子たちの無念さだけが強く残り後味が悪い。
殺された子たちも真面目なところしか描かれていなかった
ので、親に抑圧され自尊心が低い、という
はいむらの動機となる姿まで見えなかった。
阿部サダヲの演技力は申し分ない。
しかし今回、やっていることは充分サイコキラーで見るに耐えないが、
はいむら自体にサイコキラーとして震えるほどの恐さは抱けなかった。
岡田健史の演技は良かった。
サイコ側にいきそうな危うさを感じた。
榛村のキャラクター設定に納得できませんでした
榛村のような怪しさ全快男のどこらへんに他人を信頼させて心を懐柔させる要素があるのだろうかと終始疑問でした。被害者の学生と偶然会うくだりも全く自然じゃないし、学生側もいくら若いからって不審に思わないって何事でしょうか。榛村というよりは、榛村を信用する周りにドン引きです。何も共感できません。あとラストシーンも安っぽくて、好みではありませんでした…。
S・キングの「ゴールデンボーイ」じゃないか
ぞっとさせる生々しい仕掛けを沢山盛り込み、これでもかと見せつける。その巧みさと意地の悪さは鮮やかだが、これが延々と続き、エスカレートしっぱなしで終わる。ちょっとした嫌悪感を覚えた。
制作側は、この不気味さを伝えるのは役者の腕の見せ所、演出の見せ所と張り切ったのかもしれないが、観て気持ちの良い要素は何も無い。阿部サダヲは上手いと思うが、こんな仕事は断るべきだった。
幼い兄弟が刃物で傷つけ合うくだりで気持ち悪くなった。サイコパスの凶行を隠れ蓑に、人間性の根本的な何かを否定してみせる事を楽しんでいるようだ。原作者は、人生を肯定するポジティブな何かを織り込むことは考えなかったのか。
スティーブン・キングの小説「ゴールデンボーイ」を読んでアレンジしたような内容。色々な意味で遥かに劣るが真似したんだなと。
どうにもこうにも苦手な分野
イヤイヤながら見てしまったけどやはり苦手
危うく操縦されそうになるかと思ったけど榛村大和の言葉にだんだんと興味が薄れていく
最近気になっているドラマで『ミステリと言う勿れ』があります
こんなことを言っていました
日本はいじめられる方を逃がそうとする、問題なのはいじめる側、いじめられる方に問題があるのではなくいじめる側に問題があるのだと
カウンセリングや正すべきはいじめる側なのだと
かねがね私もモヤモヤしていたのですがそれを聴いてスッキリです
いじめる側の病が世界中の大人や子供、社会の上から下や金持ちや貧乏人に関わらず誰でもかかってしまう病なのだと思います
この病のタチが悪いのは唾や空気ではなく見たり聞いたり噂だけでもうつってしまう感染力の強さにあります
おかしい世の中だ
正気に戻すために今まさにクレージーキャツをSpotifyで聴きまくってます
悲しいほど楽しくなる曲ばかりで心が落ち着きます
いじめはいかん!
「わかっちゃいるけどやめられない」なんて言わせてたまるか!
予想できなかった、、
24件の殺人事件を犯した犯人が1件は自分じゃないと主人公に言い、その事件について主人公が調査していく話
•最初の方が結講グロくて驚いた。
•どこかで特別な人間になりたいと思っている。これはめっちゃ共感できるけど、父親が殺人犯というのは嫌だな、、主人公はすごい影響されてたけど、、
•事件の真相も予想できなかったし、終わり方も怖かったのはよかった。
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