劇場公開日 2021年10月15日

「最後の決闘裁判はニーチェの「悲劇の誕生」から?」最後の決闘裁判 グリンリーフさんの映画レビュー(感想・評価)

4.5最後の決闘裁判はニーチェの「悲劇の誕生」から?

2022年1月5日
PCから投稿
鑑賞方法:CS/BS/ケーブル

 この映画は、単なる善と悪の闘いを描いているのではないと考える。決闘の事実をもとにニーチェの「悲劇の誕生」を下書きにして作られた映画なのだと私は思う。ニーチェはこの書でギリシャ悲劇がアポロン的な造形、形象世界と、ディオニソス(バッカス)的な心象、情念の融合によってもたらされたと書いた。

 この2つの観念を人間の性格的な概念に当てはめると、アポロン的とは意識的で、かつ理性的、秩序だっていて、論理性に優れた性格を言い、ディオニソス的とは無意識的で、情動的、陶酔型の激情的性格のことを言う。この2つの性格は「理性と感性」、「静謐と狂乱」のように本来相反するものなのだ。

 この映画では、マット・デイモンの演じたカルージュがアポロンであり、アダム・ドライバーの演じたジャック・ル・グリがディオニソスそのものなのだ。カルージュを突き動かす行動原理は理性と秩序であり、キリスト教的絶対正義である。他方ル・グリを動かすのは、情動と感性、激情的なアンチキリスト的行動原理である。

 ニーチェは反キリストの立場を取ったが、ここで示されたル・グリの行動は明らかにアンチキリストである。その点からもこの映画の意図は明らかだと思う。つまりカルージュにより示されるキリスト教的絶対正義が、アンチキリストのル・グリを打ち負かし、正義と秩序を世界にもたらすのだと。だがしかし、本当にそれだけなのだろうか?それならばなぜマルグリットは命が助かったにも関わらず、晴れやかな顔をしないのか。

 ここからは私の独断とある種偏見なのだが、ディオニソスはギュンニスとも呼ばれている、女男という意味だ。今でいえばLGBTともいえる。つまりある意味、性において自由なのだ。他方アポロンであるカルージュのセックスといえば目的が子作りにあるのは明らかだ、それが悪いと言っているのではない。しかしこの先死ぬまで名誉のために秩序と正義に生き、厳格なキリスト世界の中で暮らすことが、本当に自分にとって幸せなのだろうか。彼女はきっと疑問に思ったはずなのだ。其疑問の象徴が建設中のノートルダム大聖堂のように思える。キリスト世界の勝利の聖堂が、なぜか暗く幽霊屋敷のように描かれているのは一体なぜなのだろうか。

グリンリーフ