劇場公開日 2023年9月15日 PROMOTION

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アリスとテレスのまぼろし工場 : 特集

2023年9月19日更新

その映画を観た時、僕はどこまでも、「こい」と思った
恋。濃い。故意。請い。月日が止まった町。少年少女の
生と性。希望と絶望がもたらす鋭い疼痛。幻と現実――
事件的一作を正面から目撃した編集部の詳細レポート

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希望とは目覚めている夢なり――アリストテレス

9月15日に公開される「アリスとテレスのまぼろし工場」。2分間の超特報映像を観ただけで、僕は胸ぐらを掴まれたような衝撃を受けた。この映画から目が離せなくなった。本編を観た。予感は正しかった。

この記事では、本作を鑑賞した映画.com編集部員のレビューをつらつらと記していく。普段は「わかりやすい」「簡潔な記事」を目指しているが、今回は消化しきれていない生の感情と、いくらか整理された感想を区別せずごちゃ混ぜに書こうと思う。自分でもよくわからない複雑な感情が心に体に沈殿する、これこそが本作特有の感動の正体だからだ。

他の人がこの映画に対してどう思うかは知らない。絶賛するかもしれないし、そうじゃないかもしれない。そういう映画なのだ。でも少なくとも僕は、「アリスとテレスのまぼろし工場」を忘れられそうにない。


【作品概要】「あの花」岡田麿里×「呪術廻戦」MAPPA
天才と狂才がこだわり抜いた極限のアニメーション映画

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監督・脚本は「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。」など、爽やかで切ない青春から、ドロドロした人間関係など幅広く描くことで知られる岡田麿里。「さよならの朝に約束の花をかざろう」に続く監督第2弾で、自身で書いた脚本を監督として演出。限りなく理想に近い作品を創出してみせた。

さらにアニメーションは「呪術廻戦」「チェンソーマン」「『進撃の巨人』The Final Season」「この世界の片隅に」などのMAPPAが担当。“強い感情が湧き上がる”を大切にし、ハイクオリティを通り越してもはや異次元の映像を生み出す制作集団である。

日本でも有数の才能が結集し、紡がれたのが「アリスとテレスのまぼろし工場」だ。

製鉄所の爆発事故によって全ての出口を閉ざされ、月日まで止まってしまった町。いつか元に戻れるように「何も変えてはいけない」というルールができた。変化を禁じられた住民たちは、鬱屈とした日々を過ごしている。中学3年生の菊入正宗は、謎めいた同級生・佐上睦実に導かれて足を踏み入れた製鉄所の第五高炉で、野生の狼のような少女・五実と出会う――。


●[作品との出合い]呼吸を忘れた2分間 超特報映像を目撃し、僕は一瞬で「事件的作品が誕生した」と思った
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映画.com編集部・尾崎秋彦:2021年6月、僕は本作の超特報映像を観た。

2分15秒間の映像。呼吸を忘れて見入ったことをよく覚えている。いや、僕は魅入られていたのだ。映像の質感や音楽、言いようのない気配。そこに込められた鬼気迫るオーラのような何かを感じ取り、ぼんやりと「事件的一作が生まれた」と思った。



この感覚は言葉で伝えるよりも、実際に映像を観ていただこう。だからあえて説明は省く。最初の衝撃から2年が経った2023年8月、本編がついに完成した。以下から、筆者が鑑賞した感想を書き記していく。

トピックは大きく分けて4つある。「映像」「物語」「快感」「哲学」だ。


●[映像に魂が試される]寂れた町の歪な気配をも描破する、現実よりも美しく生々しいアニメーション、未知の映画体験
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「呪術廻戦」「チェンソーマン」など悪魔的な描写力を誇るMAPPAが、製作期間が比較的長い映画に全力を注ぐと、観る者の魂を試すような映像世界が誕生するのだと僕は思った。

劇中に「この町は、どこにも、気配がある。命のないものが、息をする気配」というセリフがある。本作の映像のすごさは何よりもこの町の描写から感じ取ることができる。目に見えないはずの気配というあやふやな概念が、言葉や音ではなく、アニメーション(絵)によって実体化されていた。

画面を観る僕にも「命のないものが、息をする気配」を肌で感じ取ることができた。町という概念が次第にひとつの人格になっていった。“現実よりも美しいアニメーション”とは、新海誠監督作「君の名は。」の公開以降、かなりの頻度で耳にするようになった惹句だが、本作の映像はまさに現実よりも美しく、そして生々しさを帯びていたのだ。

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ほかにも目を瞠る映像のなんと多いことか。煌々と明かりがつく工場を眼下に、煙の狼が空を駆けるさまは、まるで稲妻が大気を切り裂いているようにも、動物の腸が空を漂っているようにも見える。超自然的でありながら、一方で生命の手触りも感じさせる独特の煙の質感を観れば、確かに登場人物たちがそれを“神の御力”と直感することもなんら不思議ではない。アニメという表現方法はこんなにも豊かに描破できるのか、とまたぞろ驚いた。

大きな見せ場だけでなく、日常の何気ない瞬間――例えば絨毯の模様ひとつひとつまで――を克明に描くこだわりが好きだ。わずか数秒のシーンにどれだけの力を注いだのか、少し怖くなってくる。

未知とも言える映画体験は、まるで魔法の粉が振りかけられたような映像によって約束されている。


●[物語にのめりこむ]月日が止まった町――特殊な設定がもたらす知的好奇心、それゆえ生まれるドライブ感
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ある冬の日。製鉄所の爆発事故をきっかけに、不思議なことに町の月日が止まってしまった。物理的な時間は過ぎるので人々は以前と変わらず生活するが、何日、何カ月、何年経っても気候は変化せず、人々の身体的変化も起きない。

季節はずっと冬だし、老人は老人のままで、妊婦はずっと妊婦のまま、主人公・正宗たち中学生もずっと中学生のままなのだ。設定を把握したとき、僕は「これは面白い」と思ったし、「これからどうなるんだろうか」と期待に胸躍らせた。

見かけはタイムループものに似ているが、本作の設定は決定的に異なる。普通のタイムループものではだいたい主人公だけがループにハマる。しかし本作は、1人ではなく住人全員が超常現象に巻き込まれ記憶と体験を共有する。町という共同体は理性によって運営されているので、人々は民主的に対処しようとする。話し合いの結果「元の世界に戻ったときに困らないよう、自分たちが変化することは禁止」というルールがつくられる。

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“変化を禁ずる”という同調圧力がはびこる共同体が成立し、そこに“思春期の少年少女=変化を求める生き物”が放り込まれるのだ。平和に終わるはずがない状況が巧みに構築され、作品全体に独特のドライブ感と切実なドラマ性が滲みわたっていく。この先どうなる? 興味が尽きず、僕は浅い呼吸を繰り返しながら画面を凝視した。

ひとつだけ、とても好きなシーンをここに記しておこう。正宗の友人に、どちらかというと地味で寡黙な男の子がいる。彼の将来の夢は明るく愉快なラジオDJだといい、「こんな世界になったからこそ持った夢なんだ」とポツリと呟く。変化が禁じられた町で、それでも変化したいと叫ぶ、張り裂けそうな青春のエネルギーを感じる。短いながらも(だからこそというべきか)傑出した名シーンだ。


●[背徳的な快感を得る]少年と少女は秘密を共有する――直接的ではなく、しかし臆せず濃く描いた“生と性”
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このレビューで最も伝えたかったことを今から書いていこう。「アリスとテレスのまぼろし工場」が特異なのは、全編通じて心躍るエンタテインメントでありながらも、少年少女の生と性が物語の中核にどっかりと鎮座している点だ。

直接的な性描写や苛烈な暴力描写は一切ない。しかし画面の端々から感じ取らずにはいられず、むしろこの要素こそが本作を唯一無二の作品として成立させている。「あの花」などの爽やかなイメージとは異なるが、実のところ岡田麿里作品の面目躍如といえる要素でもある。

例えば、主人公・正宗と佐上睦実の恋。正宗が校舎の屋上をふと見上げると、屋上には睦実がいて、おもむろに彼女は自らのスカートをまくる。これが物語が動転するきっかけとなる。

睦実は度々、正宗を女の子っぽいとからかいながらも、同時に大人の女性がいたいけな少年にちょっかいをかけるみたいな、不健全な接し方もしてくる。鬱屈とした日々に注ぎ込まれる一匙のエロティシズム。理性では深入りしてはならないとわかっていても、正宗は引力から逃れられない。

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そんな2人の関係性に、物語のキーとなる少女・五実という“町にとっての最大の秘密”が挿入され、当然波乱が起きる。ぜひ本編で確かめてもらいたいが、修羅場というか地獄そのもののシーン(性描写ではない)すらあり、僕はそれを観た時「特濃だ」と思った。胃が握りつぶされたみたいな痛みと不快感、同時に観てはいけないものを観てしまった背徳的な快感が襲ってきた。

幅広い年齢・性別の観客に向けた作品ならば(まして大規模な作品であればなおさら)、こうしたヌラヌラした質感は避けて表現することが普通だ。しかし岡田麿里監督はあえて描き抜いた。正宗と睦実と五実の交流に強い光を当てることで、ひとつの思想をまるで影絵のように投影しようともがき続けているようにみえた。

だからこの「アリスとテレスのまぼろし工場」は強いのだ。SNSなどで悪評があっという間に拡散される時代に臆せず、媚びず、体の内側から生じる“描くべきこと”を曲げてはならないと叫んでいる。それはきっと観客の想像力と感受性を信じているからだ。

実際に岡田監督たちに話を聞いたわけではないので、これらは僕の想像と解釈に過ぎない。しかし、きっと受け取ってくれる人は世界中にいると信じて疑わない、そんな純粋無垢な強さを受け取ったことは、紛れもない事実である。


●[哲学としてのアリスとテレス]エネルゲイア。アリストテレスの概念をもとに問う“人間が生きる意味”
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書いても書いてもレビューが終わらない。書けば書くほど、書きたいことが滾々と湧き出てくる。映像、物語、快感ときて、次は哲学に移っていこう。作品の根底に古代ギリシアの哲学者・アリストテレスを引用したメッセージがあり、いたく感銘を受けたからだ。

登場人物の1人が、何気なしにアリストテレスの“エネルゲイア”についてポツリと語るシーンがある。エネルゲイアとはなにか? 乱暴に噛み砕くが、ここでは「その行動をしている最中、なによりも幸せな状態」だと理解してもらえればと思う。

例えば、仕事をすることが幸福な人は、仕事自体がエネルゲイアだ。一方で仕事を通じて得た金銭に幸福を感じる人は、お金を得ることこそがエネルゲイアである。自分のエネルゲイアを知り、求めて行動することは、人が真に幸福に生きる道標となる。

そのうえで「アリスとテレスのまぼろし工場」のポスターを見てみよう。表情の見えない正宗と、求めるような眼差しの睦実が映し出されている(正位置ではなく、タロットのハングドマンのように逆さに描かれている点が暗喩的だ)。キャッチコピーは「恋する衝動が世界を壊す」。

この2人にとっては恋こそがエネルゲイアであり、エネルゲイア=真の幸福を味わう瞬間にこそ、人は爆発的な力を発揮することが映画では描かれる。物語は予想もつかぬ方向へと舵を切り、やがて幻と現実が混交し、まるで「AKIRA」の終盤みたいなわけのわからぬドライブ感たっぷりの展開をみせてくれるのだ。

作品を通じて、岡田麿里監督が、何かを伝えようとしているのを感じる。正宗たちの震える声が、トン、と僕の胸を突く。


●その映画を観た時、僕はどこまでも、「こい」と思った
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まだまだ書きたいことは尽きないし、これだけの文字数を費やしておきながら、大事なことはなにも書けていないという恐怖も感じる。特に正宗ら登場人物の具体的な心情に言及していないし、オカルト的きな臭さを放つ睦実の父ら重要人物に触れていないことも歯がゆい。しかし、残念ながら規定の文字数を大幅に超過しているので、ここでレビューを締めくくろうと思う。

中島みゆきによる主題歌「心音(しんおん)」が胸の奥に染み渡るエンドロールが終わったとき、ただなんとなく、僕の頭には「こい」という言葉が残った。

月日が止まった町で描かれる少年少女の恋。艶めかしく印象に残る生と性の濃さ。睦実が偶然ではなく故意に正宗の人生に割り込み、物語の歯車が轟音を立てて動き出した。町から消滅した人々は、終わりのない日常から解放される安らぎを請うていたのかもしれない。そんなような思いが僕の胸に、体に沈殿していった。

そして本作は、奇妙な淀みに取り残されてしまった少年少女の押し留めようのない衝動を通じて、SNSなどオンライン上の仮想世界で日常の大部分を生きる私たちに、現実の生のあり方を問い直す試みでもある。

物語が僕の心に残した爪痕は疼(うず)くような痛みとなってまだ癒えない。「アリスとテレスのまぼろし工場」。遠くで、赤ん坊の泣き声が聞こえた気がした。

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