水俣曼荼羅

劇場公開日:

水俣曼荼羅

解説

「ゆきゆきて、神軍」「全身小説家」「ニッポン国VS泉南石綿村」などを世に送り出してきたドキュメンタリー映画の鬼才・原一男監督が20年の歳月をかけて製作し、3部構成・計6時間12分で描く水俣病についてのドキュメンタリー。日本4大公害病のひとつとして広く知られながらも、補償問題をめぐっていまだ根本的解決には遠い状況が続いている水俣病。その現実に20年間にわたりまなざしを注いだ原監督が、さながら密教の曼荼羅のように、水俣で生きる人々の人生と物語を紡いだ。川上裁判で国が患者認定制度の基準としてきた「末梢神経説」が否定され、「脳の中枢神経説」が新たに採用されたものの、それを実証した熊大医学部・浴野教授は孤立無援の立場に追いやられ、国も県も判決を無視して依然として患者切り捨ての方針を続ける様を映し出す「第1部 病像論を糾す」、小児性水俣病患者・生駒さん夫婦の差別を乗り越えて歩んできた道程や、胎児性水俣病患者とその家族の長年にわたる葛藤、90歳になってもなお権力との新たな裁判闘争に懸ける川上さんの闘いの顛末を記した「第2部 時の堆積」、胎児性水俣病患者・坂本しのぶさんの人恋しさとかなわぬ切なさを伝え、患者運動の最前線に立ちながらも生活者としての保身に揺れる生駒さん、長年の闘いの末に最高裁勝利を勝ち取った溝口さんの信じる庶民の力などを描き、水俣にとっての“許し”とはなにか、また、水俣病に関して多くの著作を残した作家・石牟礼道子の“悶え神”とはなにかを語る「第3部 悶え神」の全3部で構成される。

2020年製作/372分/日本
配給:疾走プロダクション
劇場公開日:2021年11月27日

スタッフ・キャスト

監督
構成
秦岳志
エグゼクティブプロデューサー
浪越宏治
プロデューサー
小林佐智子
原一男
長岡野亜
島野千尋
整音
小川武
編集
秦岳志
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(C)疾走プロダクション

映画レビュー

4.5☆☆☆☆★ 〝 奥崎謙三はもうこの世には居ない 〟 それは上映終了...

2024年3月21日
iPhoneアプリから投稿

☆☆☆☆★

〝 奥崎謙三はもうこの世には居ない 〟

それは上映終了後の舞台挨拶で、監督自身の口から発せられた言葉。

映像作家として次に何を撮るか。つい求めてしまうのは、更なる強烈なキャラクターを追い求める日々。
しかし、もうこの世に奥崎と並ぶほどの《怪物》など存在しない。

作品を観る前に、上映終了後に予定されている舞台挨拶ではありましたが。実は一切知らず、劇場に到着して始めて知った。
その予定時間は何と90分もの長い時間。
家には多少の介護を必要とする家族が居る。

「どうしようか?作品だけ観て帰ろうか?」

取り敢えずは長い長い作品を前にして、先ずはトイレへ入って【大】をしておこう。
そしてその時に無い知恵で考えた。

質問の時間もおそらくはあるだろう…と。

我が拙い映画フアン歴に於いて、監督の作品歴から考えが浮かぶとしたならば、果たして何があるのだろう?
その時にトイレで思い浮かべたのは、奥崎であり井上光靖とゆう巨大なる《怪物》であった。
現在の監督にはそんな《存在》が果たしているのだろうか?…と。

だが、上映終了後にいきなり監督の口から真っ先に発せられた言葉は。そんな《怪物》を追い求め、しかし最早それは叶わない、、、とゆう映像作家としての悩みであり。同時に、自らに課せられた(のであろう…とゆう)更なる高みに至る道への【宿命】で有ったのかも?との思いを抱きながらの(監督の独壇場と言える)トークショーだった。

第 1 部 水俣は続いていた。本当の水俣。

ある程度の高齢の人にとって《水俣》とゆう言葉は重い。
私も若い頃には連日の様に、ニュースで騒がれていたのを思い出す。
若さゆえの大いなる勘違いを許して頂ける…と思いつつ申せば、、、
《水俣=熊本》に対する偏見は、私の中でも少なからず持っていたと思う。

〝 水俣は怖いところ 〟

そんな、当時は大きな報道をされていた水俣ではあるが。やがて時間の経過と共に少しづつニュース報道の表舞台からは遠ざかる。

「もう水俣の問題は解決したのだろう」

少なからずはそんな気になってはいた。
実際にも以前のニュースで、和解に向けての話し合いが持たれている…との報道はされていた筈だ。(作品の中でも出てくる)
しかしながら。本当の水俣を巡っての訴訟問題は、未だに解決の糸口を見出せないままにいたのだ。
当時は環境大臣であった小池百合子の答弁を筆頭として。この作品中には、多くの官僚であり県知事等が繰り返し、更に繰り返し。またまた更に繰り返し…と言った、苦しい答弁に終始する。

そんな映像の数々を見せられながら、学術的な見地から【リアルな水俣病】を世界に知らせたい!とゆう浴野教授が現れて、我々観客に本当の水俣病とは何か?…を教えてくれる。
そしてその際に、驚くべき事に〝 水俣病発症の1人目 〟と言われている患者さんの【本物の脳】のホルマリン漬けをスライスし、メチル水銀が脳の中でどの様に脳の細胞組織を蝕んでいくのか?…を、現実に見せてくれるのだ!
その、脳の組織がスカスカになってしまっている【本物の脳】
その怖さたるや筆舌に尽くしがたい。

第 2 部 長い長い戦いの果て、、、戸惑い。

上映終了後の舞台挨拶で監督本人の口から出た苦悩。

「水俣は終わったモノだと思っていた」

今この問題を扱う意味は?

名ドキュメンタリー監督である、故土本監督の名作群が存在するだけに、、、
過去の【闘争】と言えた時代の水俣と比べてしまうと、現在の水俣の置かれた熱気の無さとの違い。でも水俣の土地に立ち、水俣の人達の暮らしを見るにつけ、この問題はまだまだ続いている事実。
決して忘れてはならない、、、でも!

この第2部にこそ、そんな監督自身の心のジレンマの戦いが詰まっていた。

舞台挨拶での言葉。「人間が描きたかった」

言い方は適切とは言えないかも知れないのですが、監督自身は《水俣病を巡る裁判》では後から来た人。
もう既に長い期間に渡って【闘争】を続けている人達から見たら〝 他人様 〟

だからこそ、監督が描く人間ドキュメンタリーとして自分が「この人!」と思う人を追いかけ始める。
そこで白羽の矢が当たるのが第2部では生駒さんであり、第3部ではしのぶさんになる。

この第2部では。監督を〝 他人様 〟としてでは無く、〝 友人 〟として迎え入れてくれた生駒さんの物語と並行して、延々と続いていた【闘争】に陰りが見え始めた水俣の人達の【闘争疲れ】の問題もはっきりと浮き彫りとなって行く。

「魂を売り渡したんとちゃうか?」

そんな監督の思いを、第3者の下世話な意見として感じたのは、「俺撮り始めたばっかりなんだよなあ〜!」との思いと同時に。「何故にもっと全身全霊で戦わない!」…と言った意味合いも込められていたのだろう?と思われる。
そんな監督の口惜しさに対して、「お金よりも手帳なんです」と答える南さんの意見は、多くの患者さんの偽らざる気持ちだったとも思える。

第 3 部 泣き笑いの果てに、、、憤り。

第2部の生駒さんに続き。この第3部ではしのぶさんの恋愛模様と並行に、溝口裁判とゆう1人で【闘争】を続けている人と、その支援者達との熊本県及び国との戦いの記録が主に描かれる。

ここでの監督の興味は、明らかにしのぶさんへと向かっている。
勿論、溝口さんの裁判は水俣問題を語る上では欠かせない。
しかしながら。(あくまでも私個人の作品を観た感覚として)監督は、この長年に渡って繰り広げられている裁判に於いては、中心には入って行くのを躊躇っている風に見受けられた。
どうやらこの件に関して言えば、〝 記録 〟する事に徹しようとの思いなのかも?…と。

一方で、作品の中ではもう1人の患者さんである川上さんに関して言えば、監督自身は(映像として残そうとゆう)積極的な姿勢を隠さない。
これは、溝口裁判が過去に自分が居ない時からの【闘争】であるのに対して。川上さんに関しては《現在進行形》でも有り、今の自分に関われる水俣に関する【闘争】でもあるからなのだろう。それは故土本監督が描いて来た水俣問題に、やっと自分が立ち会えている。故土本監督の意志を継げているのかも知れない?と言った監督の想いの意味も込められていたのではないだろうか。

私個人の意見として、ドキュメンタリー映画には予めの着地点が大事だと思っている。
しかしながら、この水俣問題は未だに解決する糸口すら見出せずにいるのが現実。いや寧ろ益々闇の中へと進んでいる。
その辺りでの、作品として世に出す為の着地点が見つかっていない点が。ドキュメンタリー映画として極めて歪な作品として世に出さなくてはならなかった問題は残ってしまったのではないだろうか。
作品全てを観終わった私は率直にそう思った。

すると、長時間に渡る舞台挨拶の中で。奥崎謙三の話から入り。随所に作品には訳有って組み込めなかった ※ 1 オフレコの話を交え、「そろそろ終わり!」と言った頃。監督の口から出た言葉は、、、

「故土本監督は先発ピッチャーで私は中継ぎピッチャー。この水俣問題は解決していないだけに後に続く人に託したい。元々解決していない問題を映画にしたって6時間では描ききれませんよ!」…と。
(正確では無く、この様な意味合いの言葉だった)

映画『水俣曼荼羅』は、6時間12分とゆう長丁場な作品ではあるものの。必ずや劇場へ足を運んだ観客は、その面白さに驚きを隠せない筈だし。ある人は怒りを、またある人には笑いを、そしてまたある人には作品の先として今後に起こるであろう、更なる問題点に想いを馳せる作品だと思える。

映画『アメリカン・ユートピア』では、脳の模型を持ったデビット・バーンが脳の中では分断が絶えず起こり。その人にとって必要なモノは繋がり、不必要なモノは捨てられて行く…と語る。
しかし、時を経て必要となったモノは再度繋がるのだ…と。

映画『水俣曼荼羅』の第1部の終盤。
浴野教授は自身の研究所内での監督との対談でこう語る。

メチル水銀を基準として有機水銀をつくっておられる方が、毛髪水銀が300ppmになったと。さあ、生きているこの人の脳をPETで見てみますと、ここがやられて、そして奥のほうがやられて、そしてここが赤くなってましたと。視覚野とか聴覚野は、見て聞いたときに相手の話していることがよくわからないということが起こると。
そうすると、これは将来的に、もしずっとメチル水銀が世界中でふえていくと、人と人とのコミュニケーションが非常に難しくなると。話をすることが難しくなって討論ができなくなって、討論の後の、もちろんまとめることもできなくなる。民主主義は成り立たなくなる。そういうことはどうしたって、戦争にすぐ行くわけ。もう相手のことがわからなくなって行く、理解できなくなっていく、理解できなくなってくるということが起こるので、やはり、水銀は規制していかなきゃ。
(水俣曼荼羅製作ノート75ページから)

裁判当時に環境大臣だった小池百合子を筆頭として、映画中に登場する熊本県知事であり多くの官僚達。
決して彼等の脳内にはメチル水銀の症状がある訳ではない。
しかしながら、彼等の答弁には一貫してコミュニケーションが不足しており。討論が成り立ってはいない。相手のことを思いやる気持ちが全く欠落していると言える。

奥崎謙三はもう確かに居ない。
奥崎に匹敵する程の《怪物》もまた。
だが監督自身は気付いているのだろうと(私個人としては)思っている。
そんな奥崎の様な《怪物》を生み出したのは【昭和】とゆう数多くの《バケモノ》を生み出した時代だったのだ!

おそらく監督は、今後もそれらの《バケモノ》を追いかけて行くことだろう。
何故ならば、今の日本の政治が極めて異常な状況に向かっており。しかし、一部には危険信号を受け取る人が居る中で。ほとんどの人は我関せずと、一切の関心を示さない空気感が蔓延しているからに他ならない。

監督は以前に石綿問題に取り組んだ。
石綿は目に見えない粒子が胸に刺さり静かに肺を蝕んで行く。
現状の日本は果たしてどうだろうか?
討論が成り立たなくなってしまっている政治の時代は、今の日本に現実として蔓延ってしまってはいないだろうか?
胸を蝕む石綿は、やがては対象者の命を奪い取る。
但し、幸いにも日本国民全ての命までを奪い去るには至らないだろう。
しかしながらも、政治の世界で討論することがなくなってしまったのならば、、、

そこで第1部での浴野教授と監督との対談から発せられる言葉の意味が、第3部での石牟礼氏の言葉へと帰結するのだ!

人は許せないから〝 怨 〟の気持ちを持つ。

煩悩を打ち消し〝 赦し 〟の想い抱いた先に到達するのが〝 悶え神 〟となり加勢する。

2021年 12月26日 キネマ旬報シアター/スクリーン3(上映終了後に約90分の舞台挨拶有り)

※ 1 このオフレコ話には幾つかのエピソードがありますが、本当に興味深い話ばかりでした。
おそらく、いずれは監督本人の口から世間に向けてのメッセージがあるかも知れません。
ですので、それまでの間は。水俣の住民の方々を想い、悩んだ上で作品中には入れなかった監督の気持ちを汲んでの書き込みを極力して行こうと思います。

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松井の天井直撃ホームラン

5.0原監督による解説と新しい学び

2024年1月20日
PCから投稿
鑑賞方法:試写会

知的

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てつ

4.520230722 原一男監督特集初日の水俣曼荼羅@シネマテーク

2023年7月22日
iPhoneアプリから投稿
鑑賞方法:映画館

水俣曼荼羅。
ドキュメンタリー映画である。
それも、原一男監督の。
そんじょそこらの映画なはずはない、小津安二郎に匹敵する本物の作品である。
しかしだ。
ものには限度ってもんがある。
6時間耐久レースの、普通の映画3本分という超大作の長尺作品。
朝うちを出て、今池まで行き、開始1時間前に着いて、オープンまで並んで当日券の整理券待ちして、昼前の11時から映画がはじまると、2時間おきに途中2回の休憩を挟んでも、見終わると夕方の17時だよ。
休憩といっても長蛇となるトイレで終わり。
スマホ見たり、食べてる暇もない。
人って、あまりに忙しいと、食べるかトイレかの2択の欲望しかなくなるってことがわかった。

それでも観たかったのは、公開当時に見逃してるからというのもある。
まず、タイミング的にコロナ禍でありながら、2021年10月にシネコンで洋画の『MINAMATA』を観た。
海外ではまったく知られてなかった水俣病を、初めて世界に知らしめた点で大きな価値があった。
ちょうどその流れで、翌年の1月にミニシアターで『水俣曼荼羅』を観るつもりが、そのときの上映スケジュールではこちらの都合がつかず泣く泣くあきらめたという苦い思い出がある。
次の上映チャンスなどあるかないかもわからず、ない可能性の方が高いし、あったとしてもやはり半日以上の丸一日そのために予定を空けるタイミングは永久に来ないだろうとあきらめてたもんだから。
名古屋シネマテークの最後の企画、原一男監督特集の初日にふさわしい記念すべき一日にしたかった。
だから長時間の上映中ぜったい寝ないように前の晩は早く寝て、仕事ならあり得ないくらい朝ちゃんと起きて、行く前から気合い入れて、わたしとしては本気モードの命がけで観に行ったのだった。
それくらいたいに映画好きを自認したいし、映画人生のピークだった学生時代に通いはじめたこのシネマテークが、最後の企画を一週間上映して平日金曜には閉館してしまうから、わたしにとって本当に最後のシネマテークとなるかもしれない一日なのだ。
それくらい気合いが入って当たり前で、何のことはない。

学生時代、その頃はまだ映画2本立てが当たり前で、寝ちゃうこともあるけど4〜5時間は平気だったし、何なら宿代わりに朝まで同じ映画を2度見3度見できたし。
映画祭ブームで朝から晩まで観てたこともあるけどそのときはプログラムの中から好きな時間だけ観ただけだから、最初っから最後までちゃんと連続6時間観たのは、やっぱり人生初だ。
それを覚悟はしてたものの、退屈せず、身体が痛くなったり、寝てしまったり、面白くなく飽きてしまって観るのも苦痛になることなく。
なんと最後の最後まで観る価値ありの連続で、あっという間に終わった。
時計も見てないから、6時間なんてたいしたことないじゃんとなった。
それが自分でも驚き。
それくらい中身の濃い、密度も高く、完成度の高い、いい作品だったという証拠です。

完成度って、それドキュメンタリーじゃないじゃんと思われるかもしれないけど、何も作らず、ただ撮影するだけがドキュメンタリーだと思ったら大間違い。
作る側の意図に合わせるやらせは作為があるけど、原一男監督の作るという部分は、より真実の姿を浮き彫りにするためのきっかけ作りとしての誘導にすぎない。
批判する人はそこを勘違いしてるっていっつも思う。
わたしもドキュメンタリーにはやってはいけない加工と、どうしてもやらなければならない加工の仕方があると思ってる。
何にもしないのがドキュメンタリーなら、防犯カメラに映り込んだ意図も作為も何もない、ただの素っ気ない映像のみとなってしまう。
どんなに素のままを撮っても、カットしてつないで編集すればテレビだろうと映画だろうと作者の意図する都合のいい映像としていかようにも仕上げることができる。
ドキュメンタリーといえどテレビ局や商業映画の場合、完成のゴールが決まった状態で撮影がスタートし、そうなるような絵のみ撮るか、そうではなかった場合でもカットして編集してそうなるようなウルトラCのテクニックで真逆なことをしてるのに、あたかも真実であるかのように信じ込ませてる映像がほとんどだ。
そうじゃない。
もうそういう胡散臭い、有名で素晴らしい映画には辟易してる。

わたしが原一男監督を大好きなのは、不器用そうに見えて粘り強い繊細な感性を持ち合わせてるから。
一切の妥協なく、被写体へのリスペクトがあり、完成後の上映がどうなるか、観客が観るに耐え得るかまで意識して、慎重かつ丁寧に撮影してることまで伝わってくる。
例えばカメラの回ってるときだけ笑顔でも、家に帰れば暗い顔してるかもしれない。
それを撮るには、撮影する側の人格が重要で、相手に信頼させ、心を開いて、すべてを許してもらえるところまで介入しないと。
たとえ偶然にもいい絵が撮れたとしてもそれはシーンのひとつであり、そこから先の突っ込んだ展開に持っていかなけりゃ誰でも撮れる。
シーンをつなぎ合わせ、この水俣での真実を伝えたいと思う大きなスパンのシーケンスとして描くなら、それが撮れるまで1年でも2年でも待ち、あるとき導かれるように訪れる瞬間を見逃さず、ようやくそのシーンを相手から引き出すことに成功する。
そんなこんなで完成するまで監督人生のほとんどを費やし、20年という歳月をかけてたったの6時間に納めたのだから天才としか言えず、回したカメラの時間からして6時間じゃ短すぎるって話。

だから、あえて映画レビューとしての感想をわたしは書かない。
っていうか、書けない。
もちろん水俣病が題材の映画で、水俣病患者や被害者、寄り添う医者とその家族、さらにはその支援者、また敵対するチッソと国や県や司法という腐りきった政治色の強い巨悪の根源と、いろんな立場の人物が描写されつつ、そうした長い年月の出来事の時間軸を説明するため、度重なる裁判の判決による一喜一憂の浮き沈みをしつつも、結果的な不当判決や勝訴が重要ではないことがわかってくる。
写してるのは人の心だ。
人の哀感という描写がなければ、こうした公害ドキュメンタリーほど見てて息苦しく、失礼ながらも退屈すぎてつまらないものは無い。
それはいつもわたしたちが火事の対岸にいて、裁判で判決のニュースを見ることしかなく、実感も何も到底当事者の心など計り知れないからだ。
しかし、原一男監督はそれを見事に相手側からさらけ出させ、そこまで見せてもええんかいって批判や猛反発くらいそうなところまで掘り下げる。
きれい事で誤魔化さず、それっくらいの無茶しないと、本当にあるべき姿など見えてこない。
実はドキュメンタリー映画で泣いたのは、今回が初めてなんだ。
登場人物の魂まで透けて見えるくらい、あの笑顔、あの苦しみ、人生の深み、その迫力、どん底の中で、泥の中から咲く蓮の花のように美しい、やっぱり人間ってすごいなと思う。

この映画のレビューに、水俣病に関するいろんな視点論点で語る人も多いかと思いますが、わたしはそこを一切端折ります。
水俣病に関してはいろんな資料があるし、そんなことは調べればいくらでも知ることができます。
ただ美しいお涙ちょうだいの感動ドラマで誤魔化すことなく、普段は裏側に隠してる、心の奥にしまい込んでしまった当の本人ですら意識してない心の奥底にある大切なものを、一途な監督の心を開かせる術を持ってして、スクリーンに映し出してくれるのだ。
これは被写体となった水俣病患者にとっても、映画として実名で顔をさらけ出してまで撮影してもらった甲斐があるってもんだと思う。
迷惑だったら拒否したり拒絶できるのに、どんどん撮影は進んでいくのだから、撮る側、撮られる側の信頼関係がよほど深いということまで伝わってくる。
いや、この水俣病という公害の根がそれだけ深く複雑で難解だからこそ、原一男監督はなんとかしてそこにメスを入れたんだと思う。
だから、タイトルが曼荼羅。
水俣という混沌とした宇宙に漂うわたしたちに、宇宙の秩序として曼荼羅の世界を描いてくれたような気がします。
上映後のトークでは、嬉しい知らせとして、水俣曼荼羅パート2の計画まで話してくれました。
それでも、水俣問題は切り取られたひとつでなくすべてとつながってて、今の日本の状況そのものだし、家族という単位の変化、すべての犠牲が子供たちに向けられてる中で、ドキュメンタリー映画の質もどんどん低下し、今座ってるこの映画館もまさに閉館する直前であり、絶望の淵に落とされながらも希望ともいえる猛烈な批判と新たな野望をきくことができた。
ね、長い長いといっても、めちゃめちゃ充実した時間を監督と共に時空を共有できた、ありがたい一日となったのでした。

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fuhgetsu

4.0水俣病ではなくチッソ病

2022年12月7日
PCから投稿
鑑賞方法:CS/BS/ケーブル

水俣病の現状を、過去を振り返りながら6時間以上の長編で描いていく。
有機水銀が脳に与えるダメージについてはよく分かったが、政治の世界では分かるわけにはいかないのだろう。
50年以上にわたる経緯から、恨まないでと言っても無理がある。
国が国民の生命と財産を守ることは、当たり前だと思っていたが、そんなことは通らないことも覚悟しなければ。

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いやよセブン
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