劇場公開日 2021年8月21日

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「リアルを描きつつ、問題の本質を隠したプロパガンダか?」大地と白い雲 西村幹也さんの映画レビュー(感想・評価)

1.0リアルを描きつつ、問題の本質を隠したプロパガンダか?

2021年9月28日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

とてもきれいなフルンブイル草原が舞台となっていて、それを観ているだけでとても気持ちよく、また実にリアルに今の南モンゴルの現状が描かれていました。馬をオールガでつかまえるシーンは実にモンゴルらしく、しばらく行けていないモンゴルがとても身近に感じられました。
また、モンゴル語で撮ったことは評価に値するかと思います。今後、モンゴル語映画が中国で撮られるのだろうか?と大いに危惧しているところですので…。

しかし…
結論から言ってしまうと、それも敢えてきつい言葉を使って表現すると
「所詮、漢民族監督が自分のノスタルジーをモンゴル草原に重ねて表現した程度の映画」だという感想に行き着きました。

webサイトの監督の言に
「「⼤地と⽩い雲」はお互いに異なる希望を持ちながら内モンゴルに暮らす、チョクトとサロールという平凡な夫婦の⽣活に起こるジレンマを描いた物語です。妻のサロールは夫であるチョクトと共にずっと草原で暮らしていくことを望んでいます。⼀⽅で、チョクトは遊牧⺠であることを誇りに思っていますが、その伝統が崩れてきている中で、⽺飼いとして、また夫としてこれまでのような役割を果たすことが難しいと思い始めているのです。このように、個⼈的な幸せの追求と、社会的な属性が調和せず、対⽴する背景には、社会が引き起こした⽣活様式と⽂化的な価値観の急速な変化に遊牧⺠が適応できていないことを⽰しています。」
というのがあります。
この言葉自体が、南モンゴルが置かれている状況に対して、無知無関心であることを表していると憤りまで感じます。
「個人的な幸せの追求」が漢民族中心の価値観と国家政策によって、追求自体ができないようにさせられてきた事実や、「社会的な属性が調和」できないようにモンゴルでありつづけられないようにしてきたこと、そして、これらはモンゴル人たちが主体的に生き方の決定権を持てない「社会」によって意図的に引き起こされた「生活様式と文化的価値観」の略奪行為であって、「遊牧民が適応できていない」のではなくて、「遊牧民であることを奪い」とってきたのだということ…。
主人公たちが現代社会の中で揺れ動くさまを淡々と表現したとだけいえば、彼らの選択や決定ということが、彼らが主体的に行ってきたことになるのだが、彼らを取り巻く背景を「社会変化」と単純なところにおとしてしまっていることに、大いに憤りを感じるんです。

映画は監督が作り出すファンタジーであり、芸術作品なのだということですから、ま、それはそれでいいのだと思います。

が、彼は自分自身をドキュメンタリストと評しています。
となると、話は違います。
この発言を聞いて、私は
「なーにがドキュメンタリストだ!」
って怒鳴りつけたやりたい気分になりました。

それと…フンフルトゥの曲がなんの説明もなく、言葉のわからない人にとってはモンゴル語なのか?と思うでしょうに、トゥバ語の歌が使われます。作中で、またエンディングで。
なんぞ深い意味があるのか?と思いもしましたが、インタビューを読むに、なんてことはない、気に入ったから…なわけです。
つまり、この監督にとっては、モンゴル文化もトゥバ文化もどうでもいいんです。自分の作品の一部として利用できる材料でしかないんでしょう。それぞれの文化の担い手たちにとって、大切に思う小さな一つ一つの文化事象、物質、言葉などなどすべては、ただの記号にすぎないんです。
このあたりに、中国というところの異文化に対する姿勢を感じてしまいましたね。

都会と草原や、変化を求める男と理解できない女という対立項でこの映画は作られている。映画はそのように作られています。
しかし結局の所、あらがうことのできない流れ(実に表面的な)の中で、モンゴル的な生き方は失われていくことが、ある意味、肯定的に描かれていると思いました。

主人公男性が「両親といたときは、オトル式遊牧で長距離を移動していたのに、いまではトル(本来は網や袋などを表すが、映画の中では柵の意味。現在、南モンゴル地域で放牧地を柵で囲いその中でだけ牧畜を行うことにされている。)から外に出て行けない…」といったことをいいます。このセリフは、状況を知るモンゴル人であれば、限られた地域での牧畜のみが許されている環境への文句であると感じるでしょう。監督が意図してこのセリフを言わせているのかわかりませんが…。もし、彼らを理解して言わせているのであれば…。

やはり南モンゴル地域を舞台にした作品であるからには、その土地の歴史やとりまく環境、特にここ数年の文化ジェノサイド政策を切り離して観ることはできません。
やむを得ない社会変化の中で、様々な価値観やライフスタイルが生まれてきて、遊牧民たちもその間で揺れ動いている…
このレベルで鑑賞するなら、「わぁ、きれい!わぁ、すごい!」で観られることでしょう。実に美しい映画でした。

でも、その程度で語ってもらうには、流されてきた涙や血が多すぎるんです、ここは。
こういう映画が今後量産されていくことで、モンゴル社会や文化が漢社会、文化の一部として扱われ、それが当たり前となっていくことに大いに危機感を感じます。

かなり、酷評かましましたが、再度、総括します。
「漢民族監督が、モンゴルをネタにして、ドキュメンタリストを名乗りながら、対象が抱えている問題の本質を無視し、もしくはそこに目を向けさせないようにしつつ、異文化のそれぞれの担い手の思いは二の次で、切り貼りして作った、見た目は美しい映画」だと思いました。
ただ、最後にひとつだけフォローをすれば…
ま、私が思うようなことを逐一盛り込んだとしたら、制作自体ができなかったかもしれません。監督がどんな人が直接知らないので、映画の作られ方から想像するしかないのですが、でも、インタビューを読むに、正直、なんだ、そんなもんかね…って感想です。あれ?フォローになってないぞ…。

西村幹也