劇場公開日 2020年12月4日

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「今年一番の収穫。観て絶対に損はなし。――心の「鬼」を「滅」せよ!」ミセス・ノイズィ じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)

5.0今年一番の収穫。観て絶対に損はなし。――心の「鬼」を「滅」せよ!

2020年12月21日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

あの「騒音おばさん」が題材だというと、二の足を踏む人がいるかもしれない。
面白半分で撮られた、かなりの「きわもの」映画なのではないか。
あるいは、やけに自己主張の強い正義を標ぼうするセミドキュメンタリーなのではないか。

騙されたと思ってぜひ劇場に足を運んでほしい。
(僕の行った武蔵野館はあと数日で上映終了らしいが、来年池袋でもやるようだ)
本作は、そういった「時事問題を面白半分でとりあげ流布する」ことや、
「社会事象に対して一定の立場に立って正義の刃をもって断罪する」姿勢とは、
およそ対極に位置する映画だ。
むしろ、そういった今の時代の在り方に疑念をもち、一石を投じる映画だといっていい。

でも、何よりも本作は、秀逸なコメディであり、人情ものである。
笑わせ、泣かせる。
まずは、それに徹している。
だからこそ、社会的なメッセージも、あとから胸にしみる。
いい映画とは、そういうものだ。

だから、皆さんはあまり構えずに、気楽に観に行くといい。
何に近いかというと、強いていえば、伊丹十三作品あたりだろうか。
多少、素材が胡散臭かろうと、テーマが社会派臭かろうと、そこは気にしなくてもよい。
本作は、とにもかくにも、れっきとしたエンターテインメントなのだから。

本作の脚本の精度の高さは、邦画でいえば『キサラギ』や『運命じゃない人』あたりに匹敵する。
緻密で、トリッキーで、こういう言い方が的を射ているかどうかは知らないが、ミステリーマインドに富んでいる。人殺しはなくとも、広義のミステリー映画だと僕は思う。
「視点の変化によって、世界観そのものが切り替わる」。
この仕掛け自体は、これまでもっぱら叙述トリック系のミステリーで試みられてきた趣向であり、近年のイヤミス系ドメスティック・ミステリー(『ゴーンガール』など)でも多用されているものだ。
しかし、本作の仕掛けは、単なる仕掛けのための仕掛けに終わっていない。
これは、対立するふたりの「ヒロイン」(もうひとりも「ヒロイン」だということ自体が大きなネタバレだが、もはや映画公式の宣伝もそこをたいして隠していないので、お許しいただきたい)のそれぞれのキャラクターを引き立てるための「仕掛け」であり、作品のテーマを際立たせるための「仕掛け」なのだ。
いわば、トリックが自己目的化されず、物語のキモである「人」と「主題」に寄与している。
しかも、本作の仕掛けは、映画のラストで呈示されるとある事物によって、見事にメタ化され、イレコ構造の有機的な枠組みとして、再規定される。
だからこの映画は、乾くるみや道尾秀介が好きな「本格ミステリー寄り」の人にもきっと支持されるだろうし、一方で、山本一力が好きな人にも、あるいは重松清が好きな人にだって、支持されるだろう。
緻密な仕掛けが、両者せめぎあう物語の妙をいや増しに高め、
人がきちんと描かれているから、仕掛けがきれいに決まる。
こういうのが、いわゆる「本当にいい映画」なんだと思う。

それから、この映画は、「塩梅」が実にいい。
どれくらい笑わせ、どれくらい泣かせるか。
どれくらい感情移入させ、どれくらい憎ませるか。
その危ういバランスを、きわめて微細な調整を重ね、シーンの選択を重ねて、ぎりぎりのところで巧みに成立させている。

たとえば、主人公一家それぞれのキャラクターを観ても、人物造形の匙加減の巧さには舌を巻かざるを得ない。「善良さ」のなかに、「諍いの種」をひそませ、一滴の毒で客の心を波立たせるのが、本当に巧いのだ。

ヒロインの作家、吉岡真紀は、魅力的でかわいい奥さんではあるが、出産後続くスランプの影響で若干意固地になっていて、視野が狭くなっている。それについて、本人もある程度は自覚していることをアヴァンの自分語りで語っているから、あとからそういうシーンが出てきても、観客は軽く「いらっ」とはするが、ぎりぎり寄り添って観ることができる。娘を可愛がっていることも、旦那を愛していることも、ちゃんと伝わってくる。でも、執筆中はついつい娘から目を離すことも多い。非があるといえばあるけれど、在宅ワークしていれば、こんなの「あるある」だろう。
旦那の裕一は、家族思いの優しい男だが、スタジオ・ミュージシャンとして一家を支える以上、家を空けることも多いし、飲んで帰ることも多い(音からするとクラリネッター?)。奥さんサイドで不満を募らせるのはよくわかるが、世間の亭主を考えればよくやっているほうではないか(奥さんの愚痴に、旦那が常識的な返答をしたら、なんで味方してくれないの?みたいな流れは、すべての家庭で展開されている永遠の男女あるあるでは?笑)
娘の菜子は可愛いさかりの幼稚園児。でも、子供らしいわがままは言うし、大人の理屈では動かない。忙しいときには大変だが、まあこの歳だとこんなもんだろう。

三人とも善良で、愛情ぶかい人間だ。でも完璧ではない。
相手をいら立たせることはあるし、作中の誰かがいら立てば、観ているこっちもイラっと来る。
このいら立ちが、やがて芽を吹き、諍いだったり、怒りの表出だったり、あるいは心の距離へと発展してゆく。
隣家の住人については、物語の核心に関わるので、あえて書かない。
でも、人物描写の手法は、変わらない。

結局、諍いの種というのは、そういったちょっとした「いら立ち」「ささくれ」から、一定の環境要因のなかで、一定の感情を「養分」として「悪感情」へと育ち、「闘争」へと発展する。
環境要因の最大のものは、お互いに対する「無知」と、相手に対する想像力の欠如。
悪感情の養分となるのは、自らの掲げる「正義」への過信と、ムカつく相手を下に見たがるマウント意識だ。
そうして生まれるのが、「分断」だ。
その点では、ご近所トラブルもパレスチナ危機も変わらないし、
僕はネトウヨの在日叩きも、自称リベラルのトランピズム叩きも、しょせん似たり寄ったり、同根のものだと考えている。そういわれてムカッと来る時点で、すでに心は「正義」に「毒」されているのだ。

そういう「正義」の最たるものが、マスコミとSNSの掲げる「正義」である。
本作のもう一つのテーマは、まさにそれなのだが、後半の重大な内容と直結するので、ここで詳しくは触れない。
でも、僕は今の世の中の「分断」を生んだのは、淵源をさかのぼれば「SNS」だろうと思っている。
一般人が自由に自己表現を行えるのみならず、それを共有できるという、夢のような時代。
でも、それはかつて床屋政談だったり便所の落書きだったりのレベルで消費されてきた「庶民の声」に「活字」が与えられ、記者や専門家によって執筆された記事と「等価」の「文字情報」として拡散される時代が来たということだ。それは偏った情報の流布につながるのみならず、価値観を同じくする者を蝟集させ、異にする者を両極化させ、エコーチェンバーによって先鋭化させることをも意味した。しかもその原動力は、「自分が世界に影響を与えている」という承認欲求であり、猛烈にタチが悪い。
それくらい、意見を「活字」にする誘惑は、庶民にとって甘美であり(例えばこのレビュー欄だってそうだ)、いったん「活字化」された情報は、たとえ一個人の発信した一意見であっても、「もっともらしさ」を格段に増すものなのだ。

『ミセス・ノイズィ』は、この「分断」の時代に対する見事な「処方箋」であると同意に、暴走するSNSの現状に対して警鐘を鳴らす作品でもある。
でも、最初に言ったとおり、あくまで本作は、隣人トラブルに直面した二つの家族を描くコメディであり、人情もの。たとえば『シェイプ・オブ・ウォーター』のような、思想と特定勢力への憎しみが物語を食い尽くし劣化させた、こらえ性もなければゆとりもない作品とはモノが違う。

なお、僕の行った日はキャストメンバー数名が映画が終わったあと、出口でマスクを配っていた。大半の客がまるで気づかずに、スタスタ帰っていったが(笑)。ちなみに、僕はあのハサミムシ男の方にいただいた。あと、監督もいらっしゃっていて、そもそもどんな方かまったく存じ上げていなかったので、まあまあ驚いた。

こうやって手弁当で皆さんが頑張っているのを見ると、つい応援したくなる。
今年を代表する一本であることは間違いない。ぜひ、ひとりでも多くの人に観ていただきたいものだ。

じゃい
iwaozさんのコメント
2021年5月15日

白地に黄色文字の「ミセスノイズィ」マスク頂きました。
なんかもっと煩いデザインでも良かったけど、とっておいてます。
なんせ映画が良かったので。
素晴らしい解説コメント同感です。感謝です^ ^ m(_ _)m
分かりやすく、ギリ、ネタバレしないラインに感動しました。プロの方ですよね。(OvO)

iwaoz