劇場公開日 2018年8月31日

  • 予告編を見る

「恐怖心が招く不寛容」判決、ふたつの希望 耶馬英彦さんの映画レビュー(感想・評価)

4.0恐怖心が招く不寛容

2018年9月10日
Androidアプリから投稿
鑑賞方法:映画館

難しい

 キリスト教とイスラム教、市民と難民、それぞれの共同体、そして文化と風習の異なる人々がごっちゃになって生きているのが中東地域である。そこに何らかの潤滑油がなければ、小競り合いはしょっちゅう起きるだろうし、時には紛争に発展することもあるだろう。中東地域の共同体のパラダイムは、日本では考えられないほど強い影響力を持っている。ときには拘束力となって人々の精神を縛る。
 日本ではイスラム教徒の観光客が増えており、ホテルや飲食店はハラム対応に力を入れている。それは異文化を受け入れるという寛容の精神からではなく、観光客がもたらす収益が目的である。いかにも資本主義的だ。当方もハラル対応のセミナーに出たことがあるが、規定が細かくて、兎に角大変そうだった。

 難民が近くに来たからといって、自分たちの生活が直ちに難民の文化の影響を受けるわけではない。しかし祈りの声や食べ物の臭いを騒音や悪臭と受け止める人々もいる。不寛容な人々だ。まだ被害を受けていないのに被害を受けたような気になる被害妄想である。その被害妄想の根っこには未知なるものを恐れる根源的な恐怖心がある。
 恐怖心は群れることで薄らぐから、人間は基本的に群れやすい。大きな魚が一尾だけで悠々と泳いでいるのに、小魚は群れて泳ぐのと同じだ。しかし人間同士には大きな魚と小魚ほどの違いはない。鮪と鰯のように、100キログラムと100グラムみたいな1000倍の違いはないのだ。70キログラムの男はいるが、70トンの男はいない。だから本来は人間は他の人間に対して鰯みたいに逃げ惑う必要はないのだ。
 そう考えると、人々が互いに争い、憎悪するのは、根源的には恐怖心に由来する。未知への恐怖、異文化、異国人に対する恐怖。その裏返しが共同体への帰属意識である。同文化、同国人に対する同朋意識と言ってもいい。恐怖が不寛容を産み、憎悪を産む。それを上手に利用して自分の権益を拡大した政治家が戦争を起こした。軍歌が勇ましいのは恐怖の裏返しだからである。

 本作品は不寛容による対立が、恐怖心に突き動かされて本質を理解しない人々によって増幅され、大きな社会問題、政治問題になっていく様を描く。キリスト教徒である主人公はマタイ福音書に「汝の敵を愛し、迫害する者のために祈れ」と書かれてあることを忘れている。住んでいる土地を自分たちの土地だと勘違いし、やってくる人を排除する。それに対して、その土地にやって来た者たちは自分たちの価値観で先住者を裁く。
 所有の概念が略奪の恐怖を産んだ。所有がなければ略奪の恐怖もない。しかし人間は所有を主張する。私有地、公有地を主張し、国土や領海を主張する。そして略奪の恐怖が生まれ、先に略奪したほうが勝ちだという争いが始まる。帝国主義戦争である。人間は二千年前からずっと愚かで、不寛容な存在だ。根源的な恐怖心を何万年たっても克服できないだろう。争いは永遠に続くのだ。

耶馬英彦