劇場公開日 2015年4月17日

「自己表現は、羞恥心との闘いなのだ!」セッション Garuさんの映画レビュー(感想・評価)

5.0自己表現は、羞恥心との闘いなのだ!

2022年9月18日
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鑑賞方法:VOD

 最高の音を求め、めくるめく陶酔の境地へ上り詰めていこうとする教師と生徒。

 芝居なのか本性なのか区別がつかないJ・K・シモンズの演技も相まって、最後は少々変態チックな余韻さえ残して幕を閉じる本作。 しかし、作品としてはなかなかに見事な芸術性を魅せてくれる快作となっている。

 鬼教師の指導は常軌を逸しており、誰が観ても理不尽にしか映らないレベル。 最初のうちは、この生徒がどういう形で潰されていくのかを固唾をのんで見守ることになるのだが、どっこい生徒の野心と負けん気も相当なもの。 なんと、教師の狂気に共鳴し、さらにそれ以上の狂気で応えるのだ。

 ここから、二人の奏でる魂のぶつかり合い、つまり「セッション」が盛り上がりを見せ始める。 狂気な二人だけに色々とすったもんだがあるのだが、そこがこのドラマの面白いところ。 最後の最後、二人の間に驚くべき調和が生まれ、一瞬だけ生徒の演奏が眩しい輝きを放つのである。

 ラストシーンで繰り広げられるその 「魂のセッション」 は、衆目の中で大々的に演じられる。 しかしそこには、観客と感動を共有し合って盛り上がるコンサートの一体感はない。 指揮者(教師)とドラマー(生徒)がぶつかり合う激しいセッションの内実は、偶然にも激しく響き合った二人の間だけで繰り広げられる、ステージという閉ざされた空間での出来事に過ぎない。

 ラストを少しだけ変態チックに感じたのも、二人の攻撃的な対峙の仕方の裏に潜む、自己表現の衝動に駆られる人間だけが抱える、抑圧に歪んだ心の有り様までもが透けて見えるからだろう。

 鬼教師の変質狂的なまでの音に対する拘り、そして、それに食い下がる生徒の異常なまでの野心。 双方とも、魂を抑圧する何かに喘いでいるに違いない。それ故に、本来なら強い羞恥を伴う自己表現が、彼らの中で、なおさらその反動を伴って激しい表現衝動に転換されるのだ。

 とにかく、狂気を孕んだ心理描写も含め、見事な「セッション」だった。 ラストシーンでは、「おぉぉ」と驚くと同時に、「うむむ―」と唸ってしまった。 私も自己表現は恥ずかしいので立ち上がりはしないのだが、心の中ではスタンディングオベーションだった。 (立てよ!)

 本来なら決して表には出ない、「舞台裏で起きている真実」に強烈なスポットライトを当てた点で本作を高く評価したい。 人間の激しい自己表現欲求が芸術を生み出すプロセスとその瞬間を、ドラマの中で見事にクローズアップして魅せたのは、脚本も手掛けているデイミアン・チャゼル監督。

 1985年生まれということだが、いや若い!  その後、「ラ・ラ・ランド」で評価を固めたが、 「だろうな」の才能だ。 これからも本作のような小ぶりでも強烈な説得力を持つ次作品を待ちたい。

 ちなみに、このハゲ教師のような自分の土俵内で暴君と化すクソサド親父は、結構どこにでもいる。 親父じゃなくてもいる。 私は、そういう輩の自慰行為に付き合うようなことは、たとえ最高な結末が期待できるとしてもやらない。

やっぱムカつくよ。

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Garu