劇場公開日 2014年9月20日

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柘榴坂の仇討 : インタビュー

2014年9月19日更新
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中井貴一×若松節朗監督 正統派時代劇「柘榴坂の仇討」で体現した映画人としての“矜持”

人気作家・浅田次郎の小説を映画化した時代劇「壬生義士伝」(滝田洋二郎監督)で、中井貴一は新選組の名もなき武士を演じ、数々の映画賞を受賞した。あれから11年、再び浅田文学を映画化した「柘榴坂の仇討」では、江戸から明治へと激変する時代の中でも武士の矜持(きょうじ)を保ち続ける男を演じている。若松節朗監督は、「中井貴一でなければこの映画は成立しなかった」と断言する。そんな中井と若松監督は、どのような“矜持”で現在の時代劇と向き合ったのか。その胸の内に迫った。(取材・文・写真/山崎佐保子)

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原作は、浅田が2003年に発表した短編集「五郎治殿御始末」に収められている一編「柘榴坂の仇討」。幕末の安政7年、「桜田門外の変」で敬愛する主君・井伊直弼を失った下級武士の志村金吾(中井)は、切腹も許されず、大老暗殺犯らの仇討ちを命じられる。時代が明治へと移り変わっても、金吾は髷(まげ)を落とすことなく、着流しに二本差しという時代遅れな出立ちで仇を追い続ける。しかし金吾の仇、武士の未練を捨て車引きとして孤独に生活する佐橋十兵衛(阿部寛)も、金吾と同じ重責を背負って生きていた。

「ひたむきに生きる」というコピー同様、本作からは作り手のひたむきな映画製作の姿勢が見えてくる。中井は、「まさに“ド直球”の映画ですよね。最近の映画は何かと“ひねり”があることが多く、お客さんの多くもそれを望んでいたりする。映画はお客様が入って完成するもの。そう考えた時、この映画は何をもってお客さんが来てくれるんだろう? この直球の球を、お客さんはどう受け止めてくれるだろう? そんな不安もありました」と企画を聞いた際の率直な感想をこぼした。「僕らは映画の生産者であり、観客という消費者でもある。映画館で時代劇と面白そうな洋画をやっていたら、『洋画を見ちゃおうかな?』ってスケベ心が僕にもある。でもだからこそ、『時代劇をどう見てもらおうか』と考えるわけです。僕が時代劇大好きだったら、『え、時代劇を見ないの!?』で終わってしまいますから」。

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果たして“ひたむきさ”だけで娯楽ビジネスとして成立するのだろうか。映画というエンタテインメント業界に身を置く2人がそう懸念するのも無理はない。しかし中井の心の奥底に眠っていた反骨精神のようなものも、同時に目を覚ました。「野球でもそうだけど、色々な球を混ぜればうまく三振取れるものを、直球ばかり投げていたら『意地張って直球ばかり投げるなよ』と言われるでしょう。でもそういう考え方って、ある意味僕たちが毒されているんじゃないかなと思った。本当は“ド直球”で勝負すべきなんじゃないか? この作品は、そういう“意地”を張らなければいけない作品だと思いました」。

“矜持”とは、自負、プライドを意味するが、そこには覚悟も含まれる。「今、時代劇が不振だと言われているけれど、こういう直球の映画をお客様に伝えるのに小細工は通用しない。映画人として持っている意地をお客さんに伝えるのみ。それが、この映画を受けた時の僕の覚悟でした」。そう語る中井の眼差しは、どこか金吾と重なるものがある。

若松監督は、「時代が変わっても変わらない人間がいた。武士道。日本人として、昔はこんなにかっこいいことがあったんだと気づかされた。でも僕がこの物語に最もひかれたのは、彼らの“情”ですね」という。そのことを象徴する存在が、広末涼子演じる金吾の妻・セツである。

密かに切腹を決めていた金吾はセツに離縁を迫るが、セツは「本懐を遂げてこそ武士。それまでお側に置いていただきます」と凛と言い放つ。若松監督は、「それがセツという女の強さと優しさ。セツは黙って酌婦をしながら、金吾を支えて生きた。旦那の背中を見る広末さんの姿はものすごく切なかった。金吾はセツがいなければ生きていけなかったんです」と強調する。

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すると中井も、「金吾を演じていて、途中からこれは夫婦愛の物語だと気づいたんです。金吾はセツがいなかったら間違いなく切腹しているでしょう。だけど生きることを選ぶということは、武士を捨てるということ。時代の移り変わりを受け入れるということ」である。それでも、「『男ならやり遂げなさいよ。私が見ているんだから、そんな言い訳はだめよ』と、金吾はセツに生かされたんですね。女性が働いて稼ぐという選択肢がある今とは確実に違う時代。今だったら『私の人生はなんなの?』って話になりますよね(笑)。でも当時は、旦那とともに生きることが女性の最高の幸せだった」としみじみ語りながら、「この時代から確実に女子の方が強かったってことですね。全ての黒幕はセツ。どうしたって、男は女にかなわないって映画ですよ」とほほ笑んだ。

若松監督は、「仕事一筋で無趣味だった夫が、定年退職するなどして1日中家にいるようになり、妻が大きなストレスを感じる『主人在宅ストレス症候群』という病気が最近すごい多いらしいんです。そんな時、金吾とセツを見るとこれはすごくいい映画だなと思う。お互いに寄り添っているんです。中井さんは現場で武士として常にピシっとしていたけれど、広末さんを見ている時だけはもう目がトローンとしていて(笑)」と暴露。すると中井は、「だって涙が出てきちゃうんですよ。自分の生活を支えてもらいながら、仇討ちに出かける時に『いってらっしゃい』って。僕は金吾が涙を流すのは、井伊直弼公にだけって決めていた。だから奥さんに対して涙を流してはいけない。でもそれは動物的に無理な話なんです。とにかく涙をこらえるのに必死だった」と武士道を貫き通すのは容易なことではなかったようだ。

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義理も人情も、本来は目には見えないもの。もちろん、言葉で言い聞かせるものでもない。中井は、「セリフを聞かせる作品もあるけれど、今回はセリフで聞かせる映画じゃない。“生きざま”で見せる映画。だから役作りというより、役を自分から離さないようにしようと思ったんです。それがカメラに映れば、きっと伝わるんじゃないかなと思った」という。その思いを裏打ちするかのように、「僕はセリフってどうでもいいと思っているんです。もちろんセリフは大切なものだけど、セリフが素通りしてしまっても構わない。詐欺師も人を言葉でだますけれど、言葉っていくらでもいいことを言える。だから本当に気持ちを伝えるものは、目だったり後ろ姿だったり、体からにじみ出るもの。これが役者の本来の姿だと思う。僕が最終的に目指しているのは、小津安二郎監督の世界のように、役者が棒読みでもその人たちの感情が伝わる芝居。ピカソもそうだけど、写実的なことを全てやり尽くして、最終的には自分の“子ども心”の中に芸術性を見出した。その心境が僕も最近わかってきたんです。付け加えることではなく、削いでいくことに真価がある。それが僕なりのこの映画のテーマです」。

若松監督は、「中井さんの映画論は、人はスクリーンに“人の心”を見に来るというもの。この映画は非常に感情を抑えた芝居だけど、その押し付けがましくない伝え方がいいんだと思う。登場人物の気持ちや心を、お客さんが読み取ってくれる映画だと思う」と語る。

中井は「壬生義士伝」で日本アカデミー賞主演男優賞を受賞した際、「人は人によってしか救われないのではと思う」と語っていた。「今でもその意見は変わっていない。お酒を飲んだり、遊びに行ったり。問題は瞬間的には消えて薄まるけれど、すぐに再燃してくる。だけど何かしら人と関わることで、ポンと抜け出せたりする。やっぱり、人間は人間のことを好きじゃなければいけないんだ、平和じゃなきゃいけないだって、最近しみじみ思うんです。人は人にしか救われない。11年前よりもそう強く思っています」。

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