劇場公開日 2007年3月3日

「擬似ループに込められた二重性」二十四の瞳 デジタルリマスター版 因果さんの映画レビュー(感想・評価)

4.5擬似ループに込められた二重性

2022年12月26日
iPhoneアプリから投稿

瀬戸内海に浮かぶ小さな島。18年を跨ぐ愛と悲しみの往還。激動の社会情勢に揉まれながら、教師の大石先生は生徒たちの壮大な旅路をヒューマニスティックに見守り続ける。

見守り続けることはある意味で見捨てることよりも辛い。二十四の瞳、すなわち12人の教え子たちは時代の変遷とともに一人、また一人とその数を減じていく。貧困、戦争、家庭の都合と事情は様々だが、そこに「良心」なるものの入り込む隙がないことだけは確かだ。大石先生は悲嘆にくれる生徒に、せいぜい花柄の入った弁当箱を買ってやるくらいのことしかできない。

生徒を支え導く立場を自称しながら、彼らの人生を実質的に左右する経済や政治といった根本的地層には決して切り込むことができないというもどかしさ。それはやがて「いち教師のとしての苦悩」の域を超え、「戦争は誰にも止められない」という戦時中の平民の普遍的な無力感へと拡大されていく。それによって大石先生という「個」と日本国民という「全体」はシームレスに接続され、大石先生のふとした所作や言葉の一つ一つが平民の総意の代弁かのような重みとリアリティを帯びる。

大石先生が「自分の息子が戦争に行くのが嫌だと言うような母親はどこにもいない」と息子に言われたとき、「何と言われてもお母さんはあんたたちの命が惜しい、本当はみんなそう思ってるはずだよ」と答えるシーンは印象深い。どれだけ無力であっても、どれだけ理想論であっても、ひたすらに平穏を願い続けること。それはたとえ経済的、政治的には何一つ寄与できなくとも生徒たちを見守り続ける教師としての彼女の使命とも相即する。

終戦後、大石先生は再び一年生のクラスを担当することになる。そこにはかつての教え子たちの面影を湛えている生徒がたくさんいた。昔を思い出し人目も憚らないで涙を流した大石先生に、生徒たちは「泣きみそ先生」というあだ名をつける。ちょうどかつての教え子たちに「小石先生」とあだ名をつけられたように。

時期を同じくして、小石先生は墓地で偶然再会したかつての教え子から同窓会に誘われる。同窓会は楽しげではあったものの、そこにははっきりと幾人かの生徒の不在が刻印されていた。二十四の瞳は18年の激動の末にここまで減ってしまった。しかし物語は感傷によって過去を振り返ることはしない。大石先生は生徒からのプレゼントとして自転車を贈られる。それは彼女が赴任してきたばかりの平和だった頃に、彼女が使っていたものだった。戦争は終わり、平和は戻ってきた。そのアレゴリーとして、彼女は再び自転車を手に入れる。

彼女が18年ぶりに1年生のクラスを受け持ったことや自転車を手に入れたことからもわかるように、ここへきて物語は擬似的なループ構造を取り始めている。そこには二重の意味が込められているように思う。一つは「一周目」で失ってしまったものが再び目の前に現れる、つまり復興が成し遂げられつつあるという肯定的な意味。もう一つは、物語が無反省のまま「一周目」とまったく同様の道を辿るならば、それは必然的に戦争あるいは喪失へと行き着いてしまうだろうという警鐘的な意味だ。

因果