シン・エヴァンゲリオン劇場版のレビュー・感想・評価
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エヴァオタでもアニオタでもないが
一応全部エヴァは見た。
なんか結局気持ち悪い作品だなってのが素直な感想
映画は好きでよく見るし、最近は配信アプリでアニメも結構みる。
エヴァは好きでも嫌いでもなく、続くから観てるだけだけど。
バイオハザードの映画もそんな感じで最後まで見た。
もう感想はいい。
もう感想はほかの方々が語りつくしてくれてるからいいでしょう。
それにしても、こういったレビューに1.0の評価だったり、
庵野君と上から目線で評価したりする輩は何なんですかね。
ご本人には面と向かって言えないのでしょう?
無数の作画の中の後半のスケッチ風1枚ですら描けないんでしょう?
もっと制作関係者に敬意を払うべきです。
失礼すぎて看過できません。
私は特別アニメに思い入れはありませんが、
一連の作品を鑑賞して日本人でいることに誇りを感じました。
私は領域の異なる世界のクリエイターです。
未知の世界を見せて頂いて、感じさせて頂いて、考えさせて頂いて、
心から感謝いたします!
ゲンドウのエゴ
シン・ヱヴァンゲリヲン劇場版:IIを観て、不安感とちょっとした寂しさを覚えた。
一言で言うと「ゲンドウのエゴ」の物語。
人と触れ合うことが苦手で、ピアノ好き。
ユイに出会った彼は彼女のお陰で変われた。
そんなユイがヱヴァンゲリヲンに取り込まれてしまう。NERVを利用して彼の計画が始まる。そう、もう一度ユイに会う‥。
彼の性格から使える物は人だろうが物だろうが使い、不必要となれば捨てる。そうしなが計画を実行し、目的を果たす。そうユイとの再会の為に。
これが人類補完計画と名を打ったゲンドウの計画。シンジを呼んだ時には、既に計画は動いていた。
「親のエゴ」は日常茶飯に存在する。
時にそれは子供の性格や心の病気に影響する。ヱヴァの近くにも存在するのかもしれません。
エゴイズム。それは人類を滅亡させる力を持っている、そんな語りを聞いている様だった。
残念
シンジが初号機で大暴れするっていうのを観たかったんだよね。
そもそも、
ひ弱な少年がエヴァという強大な力を得るけど、まわりにああだこうだ言われて悩んで、それでも自分の居場所のためだったり大切な人に気付いたりして戦うってところに共感してたから、最後にはその強大な力を思う存分発揮して欲しかったね。
『庵野秀明が若者向けアニメがなるべき結末を実践して旧版にけりをつけた分岐点となる良作』
テレビと旧劇場版のみ鑑賞していたエヴァ弱者でもある自分だが、インプットとアウトプットつねにおこなう天才的な映像作家でもある庵野秀明の他の仕事についてはある程度追いかけていたので、確認作業のつもり鑑賞したが、オーソドックスな物語と爽やかエンディングには魅力された。
新劇場版を避けていたのは、旧版のモヤとした終わりと、それに伴いエヴァ自体への興味が弱いのも要因だったが、優れた作品であった『シン・ゴジラ』やゴシップではあるが、ガイナックス仲間への悲しみに満ちた絶縁状を知ることで本作への興味が湧き事前情報や信頼できるレビューアの記事や庵野監督のドキュメンタリーなどを見て鑑賞。
パリ上空でのシュールで迫力あるアクションと農村での生活により人間性を取り戻すシンジと綾波?達の姿をじっくりと描く事により後半の正統派で王道なクライマックスまで長尺を感じさせないパワフルな演出と映像に見て良かった感じるラストまで全編楽しめた。
特にクライマックスの艦隊戦は、庵野監督のデビュー作の『トップをねらえ』やテレビアニメ『不思議の海のナディア』を彷彿とさせて最終決戦にふさわしい盛り上げがある。
個人的に気になるは、前半の見所でもある農村部分で閉ざされた人間性を癒すのは素朴な田舎暮らしで農業は、随分とありきたりで幻想的に感じる。
NHKのドキュメンタリーなどで見る限り、小洒落たデザイナーズ・オフィスやマンションに住んでいる都会人でもある映像クリエイター達が、癒しとしての農村幻想を抱いているとしか思えないところもあり農業の考証もしっかりされているみたいだが、機械化されてない農作業や現在の制度によって疲弊して高齢化する農家の過酷な現状などを知っているとノンキなモノだと思う。
凝ったレイアウトとカメラワークも素晴らしいが、老婆心ながら一部女性キャラクターを視姦する視線は、近年問題化しており、のちの作品批判にも繋がる危うい点だと思う。(メインのスタッフも客層も男が多いからかな)
あと新規キャラのマリのいかにもアニキャラ的芝居かかった口調の強調や身体的特徴や「巨乳の彼女」な台詞を本人に言わせるのもアニキャラの胸を揺らして喝采を浴びていた30年前ならともかく近年の感覚だと違和感しかない!(80・90年代に合ったダメなラブコメ漫画の人格のないヒロインの系譜かな)
ちなみに師匠的立場の宮崎駿監督の代表的なキャラクターであるナウシカの胸が大きいのは、宮崎監督曰く母性への憧れと強調らしい。そこをマリに組み込んだのかな?
個人的に印象に残っているのは、林原めぐみが歌う「VOYAGER〜日付のない墓標」の選曲が見事過ぎてこの映画の為に作られた曲だったのか?と錯覚する程、場面の説明になっている。音楽で語り過ぎと思う部分も有るけど多くの人々を惹きつけるには、分かりやすくエモーショナルなところも必要。(しかし林原めぐみは、ガイナックスのアニメでも懐メロである「あなたの心に」をカバーしていて妙にハマっていたのを思い出す)
あと今回のラスト見て思ったのは庵野秀明が途中まで手掛けたTVアニメ『彼氏彼女の事情』の主人公で、庶民派仮面優等生?の宮沢雪野の彼氏になる有馬くんの深いトラウマの克服と再生の物語がシンジくんやゲンドウとダブる点だが、アニメは後半の作画の乱れや構成に難があり未完で終わっている。
漫画原作は今回のエヴァに近いカタチで大団円の完結をしているので、それのアンサー的雪辱も兼ねていると思う。(この作品も実写を試験的に導入していて庵野監督の実写志向が本格化してきている)
庵野秀明は、インプットされたものを的確に優れたカタチでアウトプットする天才だと先にも述べたが、正直女性キャラへのアプローチや扱いが記号的だったり歪がんでいると感じる事が時折ある。(ただし庵野秀明は若い頃から結構モテたとの話しも聞いているので女性慣れしてない訳では無いと思う)
細かいところに文句もあるが見事な大団円で物語にケリをつけた庵野秀明監督の次回作に期待しているので、ウルトラマンや仮面ライダーなどもとても期待している日本を代表する映像クリエイターだと思う。
これで本当のエヴァの終わり
長かった。テレビ版の尻切れとんぼな終わり方に不満を残し、それなら旧劇場版で、全ての謎を明かすのかと思いきや、観客を置き去りにした終わり方。庵野秀明は反省したのか、それともエヴァでもう一儲けしようとしたのか、今までのモヤモヤをスッキリさせようと、落とし前をつけてくれた。でも私自身Qからかなり経っているので「このキャラ誰だっけ?」と、ある程度復習が必要だった。それにしても、ペンペンはあれから捨てられたにしては、繁殖出来たなんてたくましい。
広げた物語を、きちんと、閉じた。
25年?
本当にいろんなことがあった
物語を広げて広げて
叩かれて叩かれて
「わかんねーよわかんねーよ」
「わかんなーーい」「アンノ、アンノ」「庵野わかんねぇーーよーー」
と言われて。
それでも
死に物狂いだったと思う
あそこまで広げた物語を
ちゃんと
ちゃんと!!!
閉じました。
それができることは、すごい。
できることがすごい。
高い高い山を登って、
誰も文句を言わない、ゴミも何も残さない
最高の形で下山して、生き延びた。
これでも「アンノ、わかんねぇーよぉー」と言い続ける人は、単なる頭の悪い馬鹿で、映画だけじゃなく
本の一冊も読めない、感性がないんでしょう。
最後の彼女と彼の会話。
よく聞くと、彼は疲れてるよね。
それを癒すような彼女の言葉。「さあ、……」
って言うのも、「もう少しで下山だから、もう少しだけ頑張ろう」みたいなニュアンス。
それに答える彼
もう少しで終わる、そして始まるという
少しの疲れと、最後の力を振り絞るような精一杯のような。
寂しくて新しくて幸せに向かうラスト。
何度でも何度でも見ていたい。
おさらばです。最高の映画です。
もう一つの『日本沈没』としてのシン・エヴァンゲリオン
【1】総評~エヴァンゲリオンの要約にかえて
90年代にエヴァンゲリオンが登場した際の問題提起は斬新で強烈だった。現代日本人は他者への依存から如何に脱却し自立すべきか、という命題を、難解そうなユダヤ=キリスト教風の用語や理論物理学風のジャーゴンを散りばめたプロットに流し込み、わかったようなわからないようなターミナル・ケア風のオチに持ちこみ、作者自ら回答を回避した(TV版)。しかし、話が畳めていないと作者は再考したのか、アスカにシンジを拒絶させる結末に作品をなんとか着地させた(旧映画版)。旧版とは異なる結末を想定したのだろうか、TV版や旧版とは異なるキャラ配置とプロットで、再び問題提起に解答を試みた(シン映画版)。
作者の投影であるとおぼしき碇ゲンドウが亡き女房に逢いたい一心で「人類補完計画」を紡いだ、というシン映画版の畳み方に、私はなんだかな~とモヤモヤしてしまう。むろん、スッキリ物語を畳めないから、ダメなのではない。私が観るに、作者の問題提起は様々な作品により既に解き尽くされた観があり(『コードギアス』等々)、どこまでも陳腐な答案にみえてしまう。もっとスッキリ踏み込んで、解答できたはずなのに、と考え始めると、四半世紀も問題を解きあぐねた末、ついに時代の速度に追い付けなくなった無惨さすら、シン映画版のオチには覚えてしまうのだ。だが、はたして、それだけなのか?このモヤモヤ感は、きっと主題の読み方を根本的に私たちが誤っているからではないか。二番底を私たちが見落としてはいまいか?
【2】子宮からの離脱ドミノ
本作の屋台骨は、子宮のなかで羊水に浸り、眠りこける胎児のような現代日本人がどう自立すべきか、という命題解答にあるが、このモチーフは『日本沈没』と同系列のテーマ性にあるのは、謂うまでもない。京大でイタリア文学を学んだ小松左京が黙示録的な『日本沈没』を書いたように、本作もやはり黙示録的内容である。ただ異なるのは、小松左京の『日本沈没』が大文字で日本人を主語に見立てた小説であったのに対して、本作の主語は日本人であるワタクシ=作者である点だ。
『日本沈没』へのオマージュだからこそ、京大の冬月ゼミの門下生たちによる子宮離脱ゲームは、沈没しゆく日本列島から如何に逃げ延びるか=民族として自立するか、という『日本沈没』の未完のストーリーをダウンサイジングして継承されたものだとも謂える。
この種のネタを巧妙に自分語りに布置するあたり、さすが庵野氏だと感心するが、碇ゲンドウに象徴されるのは、むろん作者自身ではあるが、隠されたテーマは『日本沈没』的命題を解くことにあるから、シン映画版完結編の前半が牧歌的なムラ共同体を一時間も描くのは当然なのだ。つまり、セカンドインパクトとは第二次大戦による敗戦後の日本社会であるのだ。そう考えないと、作者の故郷山口県宇部市の重化学コンビナートを実写映像でラストに持ってくる理由がスッキリしない。
多くの鑑賞者を碇ゲンドウ=庵野氏のワタクシ語りの顛末と、巧みに誤読させる手法は流石だが、では、肝心の子宮からの離脱ゲームを上手く遣りおおせたかは、大いに疑問だ。
だが、子宮からの離脱ドミノが昨今の思潮であれば、いつまでも子宮の中で眠りこけてばかりもいられない。あの結末が凡庸で陳腐であればあるほど、現代日本人が如何に自立するかという命題は切実だからである。しかも、その自立方法は既に日本人という大文字では既に括れない現実に自覚的である作者には、碇ゲンドウを作者だと読ませることでしか、問題提起の深刻さを主張できずにいるのだろう。
エヴァンゲリオンとはなんだったのか?と問えば、もう一つの『日本沈没』であり、その命題は私たち日本人が個別具体的に解いていかねばならないのであろう。こう考えると、なぜ作者がシン劇場版を製作したのかという理由も見えてくるだろう。日本人として各人が答えを見つけなければならない、という問題提起こそ、シンのエヴァンゲリオン的問題提起ではなかったか。
だから、作者=庵野氏の答案は解答例の一つにすぎない。あのオチはいろんな答案の一例だと見抜かないと、シンのエヴァンゲリオン理解にはつながらないような気が私にはする。
リアルタイム世代にとっては大きなカタルシス。成長と回復の物語
テレビ放送をリアルタイムで見て(私も14歳だった)、新旧劇場版も全て見ていますが、見終わって幸せな気持ちになるのは、シリーズで初めてじゃないだろうか!?
全体を一言で言えば、
「成長と回復の物語」
『やっと。。。やっと、ここまでこれた。。。(涙)』という感じ。
新劇場版シリーズ(序・破・Q)は、正直な感想としては、あまり面白いとは思っていなかった。
【序】
テレビ版とほぼ同じ構成。
絵が綺麗になったり、演出が良くなったりしてはいるが、テレビ版と旧劇場版をリアルタイムで見て、ドップリはまった者としてはモノ足りない。
【破】
「普通」の秀作アニメ。
世の中ではとても面白いと絶賛する意見も多かった。
でもリアルタイムでどっぷりはまった人間からすると、「なんか違う感」、「心に刺さらない感」が非常に大きい。
ロボットと怪獣を舞台装置とした、ほぼ普通の秀作青春ドラマ。
「登場人物の心の深い部分に沈んでいく」ような、「自分の心を凝視する」ような、そういう成分が少なかった。
テレビ版が、【破】のようなストーリー展開だったら、おそらく出来の良い普通のアニメ止まりで、社会現象にはならなかっただろう。
【Q】
「難解さ」は戻ってきた(笑)。観客おいてけぼり感が大きい。
ストーリー上の細かい設定や難解かつ意味深な独自用語は、物語世界に重厚さを与えていた。また物語世界の全体を見渡すことを難しくし、ミステリアスさが生まれ、観る者の好奇心を煽った。
これらはすごく重要な要素だった。
が、それが本質かというと、違うと思う。
それほど優れた作品とは言えなかったと思う。
【シン】
とても良かった・・・。
おそらく、私のようなリアルタイム世代にとって、大きなカタルシスとなるものだと思う。
当時14歳だった主人公とその周辺人物の(そして、当時これに深くはまった人たちの約25年間の)「成長と回復の物語」と言っていい。
だって例えば、旧劇場版のクライマックスで挿入される曲「Komm, süsser Tod ~甘き死よ、来たれ~」の歌詞と、シンの終盤を比べてみてよ。。。(感涙)
拒絶から受容へ、対立から共感へ、依存から自立へ
ラストシーン
マリ『さぁ、行こう!シンジ君』
シンジ『うん、行こう!』
とシンジが「自発的に」マリの手をとり、マリがそれに驚くシーンに、
そして二人が階段を登って、実写の街に溶け込んでいくシーンに、深い感慨を覚えた古いファンは多いと思う。
25年かかって、やっとここまでこれた。。。
そして、これでエヴァンゲリオンの物語がすべて終わりなのだなと感じた。
見終わった後の気持ちは、劇中のこの台詞がぴったりだと思う。
『さようなら、すべてのエヴァンゲリオン』
終わった
TVアニメをシンジ君と同じ14歳で見てきた僕も40歳になりました。今作を観終わった時、僕の青春がやっと終わったんだな…と思い涙が止まりませんでした。高校生の頃、旧劇場版を観た帰りに友達と「ほぼ総集編じゃん!」と怒った事。社会人になって、新劇場版を観た帰りに「これが観たかったんだよ♪」と興奮した事。中年になり、新劇場版Qを観た帰りに「何でだよ庵野さん!」と怒った事。今までの全ての想いが無駄じゃなかった。全部拾って昇華させてくれた庵野さんや製作陣に感謝しかありません。生きてこの作品の終わりを見届けられた僕は本当に幸運でした。
屁理屈、ご都合主義、楽屋落ち、トラウマ。
何度か観るうちに、段々と違和感を感じてきた。
●「何とかの槍」と繰り返されても、「家は仏教だから」と新興宗教の勧誘を断る感覚。
今どきのエヴァファンには、糞みそに叩かれるだろうが、TV版から観てきた者には、
こんな屁理屈はいらない。「分かってないな」と言われて結構。
ひたすらユイに会いたかった、という感情には共感できるが・・・。
●ヴンダーの各種スイッチは、予め想定されていたの?
そうでなければ短期間に、よく準備できたと感心。都合良すぎない?
そもそも「ヴンダー」は「ブッタ(仏陀」」だと思っていたよ。
キリスト教に対抗する、精神世界の象徴だとね・・・。
●撮影現場、コンテ・・・。各種の楽屋落ちは情けない。
「銀魂」のビデオを思い出した。庵野君、こういうのは止めてくれよ。
(最後の最後は、良かったのに残念。)
●不勉強で、良く知らないのだが、庵野君には、「首無し」のトラウマがあるの?
気持ち悪い。
皮肉ではないが、庵野君。好きなように最後の二作を作れてよかったね。
私としては、序、破の世界を継承した最後が観たかった。
アスカが戦艦(?)を踏みつけたり、戦車部隊が砲撃するようなワクワク感。
哲学アニメが観たかったのじゃない。(初期の頃の後半もカウンセリングアニメだったな。)
子供の感想?O.K.!読みが甘いのなら、いくらでも謝る。
結局、「いままでのエヴァンゲリオン」と冒頭部分が、一番良かった。
次は、「第三村」の描写。
最初に観た時は、感動したが、複数回観たら、ぬるいビールを飲んでいる感覚。
多分、庵野君が描きたかっただろう後半部分にはついていけない。
庵野君。結局、君自身がゲンゾーなんじゃないかな。
それ自体の偉大さ
テレビシリーズをほぼリアルタイムに見てきて、エヴァが終わるというので重い腰を上げて観てました。
内容うんぬんよりも、碇シンジや綾波、アスカが多くの人の心の中に20年以上も生き続けてきたという奇跡を思いました。こんな不思議な奇跡を起こした庵野さんは凄いと内容うんぬんは別として思いました。
「内容うんぬん」については正直、もはやどうでも良いように思いました。
このキャラクターたちが多くの人達の心の中に在り続けた事。心にひっかかり続けた事。
それ自体が偉大すぎて、何をやってもそれ程の意味はないとすら思いました。
結末はハッピーエンドです。
必然性があろうとなかろうと、私たちが顔を上げて生きていくためにハッピーエンドでなくてはならないし、庵野さんはそれに応えてくれました。
世の中はままならないものですから、正直あまいと思いましたが、最後はハッピーエンドである必要がある、そんな映画だと思います。
庵野さん私たちに魅力的なキャラクター達を植え付けてくれてありがとうございます。あなたが作り出した彼ら彼女らは私たちの心に生き続けていきます。おそらく墓場に入るその日まで(!)それは本当に奇跡です。
公開終了間際、観てきました。
良かった。
構造的には旧作の造り替えなんだけど、
下手に旧作との物語としての直接的な関連はなくて新劇場版の世界としてちゃんと独立したストーリーになってたのが良かったです。
だから今作でのアスカはこういう設定なのね、と素直に納得できたし。旧作からのファンに強烈に時間の経過を感じさせていて、そこら辺が感慨深かった。
旧劇場版は最終的には自分と向き合いつつの母親との邂逅なんだけど、今回はそこのリフレインにならないように徹底的にシンジとゲンドウを向き合わせていました。結局今まではっきりとはやってこなかった部分だから長年の心のつっかえが取れました。
旧劇場版でのシンジの心理を開始40分で乗り越えさせて、同じハマり方をしているゲンドウとぶつけるのは良い変化。
実際エヴァに乗る乗らないみたいな部分に関して言えば破で終わらせているので、立ち直りが早かったのもある程度納得できます。
尺の都合で今回も一気に覚悟決まりすぎてる感はあるけど笑
14歳が一気に28歳に成長してましたね。
旧作だとTVも映画もゲンドウの思惑は最終的に一個も達成されていないのですが、今回は多大な温情がかかけられていました。
庵野さんも歳をとったんだな、と思います。もちろんいい意味でね。
むしろ丁寧すぎるぐらい一個一個の物事を説明と消化をしてて、庵野さんにしてはかなり商業的に作ってると感じました。思えば新劇4作は最初から明確にエンターテイメント性を強くしてましたね。
ちょっと残念だったのはエヴァの戦闘シーンが新劇場版で回を重ねるごとに3DCG感が出過ぎてて、ふと冷めちゃう瞬間があるところ。
終盤の背景をわざと特撮セットにしてエヴァ本体の動きのアニメ感の無さを薄めようとしてるんだけど、若干ゲームとかMMD作品見てるようなチープさを感じて笑ってしまいました。
裏宇宙で13号機が待機してる姿がカヲルくん初登場ポーズで、ゲンドウ≒カヲルを印象付ける遊びなんだろうけど、ゲンドウさんそんなポーズします?な部分も地味にツボ。
終盤の連続で槍にブッ刺さるシーンは多分わざと笑わせに来てる。
あと全編通して冬月先生が超人すぎますw
L結界の中で生身でギリギリまで耐えてたのもだし。
Qの時からずっとヴィレの人達が100人単位でなんとかやってる作業を全部一人でやってるよね。
振り返ってみると4作品通して綺麗にまとまってるいい作品でした。と同時に、旧劇場版があれで完璧に完成された作品だったと再認識。
新劇場版はなんとか同じにはしないように頑張った結果、清涼感のある作風になったのかも。
所々に散りばめた旧作っぽい構図は物語上の意味はそんなに無くて、単純にファンサービスなのかな。
なので最後の駅のシーンも漫画版のオマージュでありオマケなんだと思ってます。
マリのモデルは多分やっぱり庵野さんの奥さんなので、そこは自分にサービスしたのかな笑
100億突破おめでとうございます
興行成績が100億を突破したという事で、戦略的に取りにいったのでしょうが、作品としても、事業としても大成功ですね。これで、また素晴らしい庵野作品を見る機会が増えたかと思うと、ワクワクします。
テレビシリーズを再構成し、分かりやすくした事で、あのラストで正解だったんだ、と改めて感じました。
色々な作品のオマージュを感じますが、差し詰め、第3村はジブリのオマージュですかね。宮崎さんが好きそうな原始共産社会は一旦、この文明がリセットされた後なら出来そうです、という事かも知れません。第3村では誰もが仕事を持っていて、シンジ君は最初からエヴァに乗れてしまった天才なのですが、ここでは釣りをやらされます。「大きなカブ」を見ていたせいか、あー、これって、風立ちぬの声優の件かな、なんて想像していました。
他にも色々考えましたが、以下略。素晴らしい作品でした。
良かったです。
TVシリーズから見ていました。
旧劇場版で当時映画館で絶望もしました。
旧劇のトラウマを抱えたエヴァファンとしては良い終わりだと思います。
薄い本のせいで2回観せられましたが2回ともラストの
One Last Kissのイントロがかかったところで鳥肌が立ちました。
もう1回観ても良いかなと思うほど良い作品です。
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