劇場公開日 2011年1月15日

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「洪水のような台詞、能面のような主人公の描写で全然感情移入できませんでした。」ソーシャル・ネットワーク 流山の小地蔵さんの映画レビュー(感想・評価)

4.0洪水のような台詞、能面のような主人公の描写で全然感情移入できませんでした。

2011年1月18日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

 本作のレビューが遅れたのも、評価に対して小地蔵の心の中に迷いがあったからです。演出は優れたモノとは思いますが、何しろけたたましく、洪水のようにしゃべりまくる登場人物の台詞の量に圧倒されました。人物の心情を風景が代弁するような情緒的なカットがほとんどありません。映画のいい悪いとは別に、個性的な演出に好みが分かれてしまう作品なのです。

 もう一つ気になった点は、マーク・ザッカーバーグの心情がほとんど描かれていません。ドラマは、マークを取り巻く群像劇として展開します。そのため、誰に感情移入したらいいか分からなくなってしまいました。
 それというのも、脚本を担当したソーキンは実際にマーク・ザッカーバーグに取材を申し込んだが断られたため、マークの心情については裏取りができていないからなのです。 また原作からして、著者であるベン・メズリックも、ザッカーバーグだけでなく当時を最もよく知る人物としてエドゥアルド・サヴェリンに取材を申し込んだが、双方ともに拒絶されたそうなのです。
 こののような経緯により、完成した映画・書籍は、フェイスブック側の協力は得ずに作られており、マークを訴えたエドゥアルドの視点に偏っている部分が多く見受けられました。
 だから、マークは「ぼくの人生はドラマチックじゃないよ」と自身を否定的に描いた映画を、事実に反するとして無視。試写にも姿を見せなかったそうです。(さすがに、全米公開後に映画館を借しきり、facebook社員全員と共に見たそうだが)

 但し実在の人物だけに、観客の感情移入をあえて避けたとの評価もできます。周囲へ証言を積み上げていき、そこからまるでミステリーの犯人像に迫るかのようなシャーナリスティックな手法。それは、フェイスブック誕生という歴史的出来事を、ドキュメンタリー的に浮かび上がらせている側面も否定できません。
 フィンチャー監督は客観性にこだわり、マークを演じた主演のアイゼンバーグに対し、一切感情を出すなと指示を出したそうです。いつも冷静沈着で、能面のような演技に徹していたのは、このためでした。(だからマークに感情移入するのは難しいですね。)

 元々は、自らの失恋の腹いせとして、ハッキングし得た女子学生の身分証明写真をインターネット上に公開し、公開した女子学生の顔を比べて勝ち抜き投票させるゲームとして作ったことが、冒頭に描かれます。自らを世界最年少の億万長者に導くアイディアは、ナンパの発想から出てきたなんて、ユニークですね。
 ただその後のフェイスブックを立ち上げ、爆発的に広がるさまは、台詞で語られるだけで、なんで広がったのかよく分かりませんでした。

 また本作を分かりにくくしているのは、二つの時間軸で語られているからです。一つはフェイスブックのヒントを提供したウィンクルボス兄弟が、知的財産の盗用で訴えた裁判シーンと、もう一つは、裁判で係争される当該事項の当時のシーンが、交互に交叉していく構成なので、しばらく立って全体像を掴まないと分かりづらい展開となっています。

 ドラマは、マークの成功を決して美談にしないところがポイントでしょう。人と付き合うのが苦手なマークは、ネットで手軽に友人が得られるシステムを開発し、5億人もの「友」手に入れることができました。しかし、巨万の富を手に入れたことが徒となって、フェイスブックの立ち上げに協力してくれた親友たちを、敵に回さざるを得なくなったとは何とも皮肉です。あの内容では、確かにマーク本人が異議ありと思うのは、仕方ないでしょう。マークを訴えたウィンクルボス兄弟にも、エドゥアルドにも問題はあったからです。但し、ラストのテロップで、彼らのその後も紹介され、少々救われた思いで見終わることができました。本作を批判する評論家は、マークのことを守銭奴のようにこき下ろします。しかしそれはヒジネス上の避けては通れない毀誉褒貶であって、戦い終わればマークにだって、闘った相手を尊ぶ騎士道精神はちゃんとあったのですね。

 ところで双子のウィンクルボス兄弟は、ひとり二役で演じていたことをあとで知りびっくりしました。あまりに自然で、いわれてみないと絶対に気づけないでしょう。

追伸
 実名登録が前提のフェイスブック。小地蔵は、バーチャルな存在だけど、わがリアルな分身のほうは、そろそろフェイスブックに実名を登録して、懐かしい旧友を捜してみようかと思います。

流山の小地蔵