劇場公開日 2022年1月21日

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「昼は娼婦で、夜は貞淑な妻……フロイト的解釈でブニュエルが描く「性」と「道徳」の悲喜劇。」昼顔(1967) じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)

3.0昼は娼婦で、夜は貞淑な妻……フロイト的解釈でブニュエルが描く「性」と「道徳」の悲喜劇。

2022年1月28日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

角川シネマ有楽町のブニュエル特集、鑑賞二本目。
『昼顔』は大学時代に一度VHSレンタルで観ているはずだが、内容は全く覚えていなかった。
あのときは、カトリーヌ・ドヌーヴの裸が観たい一心で借りたのに、肝心のバストトップがどこにも出てこないので、大いに落胆して早送りしながら観ていたのを何となく覚えている。
(僕は当時、スクリーン特別編集の『裸のトップアイドル』に大いに影響を受けて、自前の「女優ヌードシーン集ヴィデオ」を少女編・大人編に分けて独自に編集していたのだw)

今回改めて観ると、ブニュエル作品のなかでは比較的筋を追いやすいし、とにかくドヌーヴの扱いがセンセーショナルなので、彼のフィルモグラフィのなかでも最もよく知られた一本であることはよく理解できる。ただ、あまりにじとっとしているし、けっして後味の良い話ではないので、個人的にはもっとからっとした笑いに富んだブニュエルのほうが好きかも。

性的に抑圧された不感症の美しき若妻が、高級売春宿で「昼顔」として春をひさぐことで女としての自我を解放し、亭主とベッドをともにできるまでになるが、売春宿の客のひとりが暴走してせいで悲劇が引き起こされる……。
もともとはプロデューサーから持ち込まれた頼まれ仕事で、ブニュエルにとっては「くだらない原作を自分好みの映画に作り替える」ある種の実験のようなものだったようだ。
大筋自体はメロドラマチックともいえるし、当時世間を席捲していたフロイト精神分析的な側面も強い。女性の「性癖」に分け入っていったり、フックとして女優の裸を売りにする感覚は、若干同時期の「性科学映画」とも軌を一にする部分もあるかもしれない。

幼少時の性的いたずらのせいで潔癖症、不感症になった美女が、内面で性的妄想を膨らませ、白昼夢のなかで被虐の歓びに耽る。性的妄想が始まる合図は、四輪馬車の鳴らす鈴の音だ。この鈴は、売春宿で彼女が相手をする東洋人が手に持つ鈴とも呼応し、彼女の性的な興奮のシグナルともいえる。
出だしがいきなり、馬車から引きずり降ろされて、森で亭主と馬丁に犯されるシーンでのけぞるが、これがまるまる夢落ち。その後も随所で、彼女の性的妄想は現実とシームレスな形で挿入される。どうやら、内なる彼女は狂暴で支配的なオスに乱暴に扱われ、サディスティックに蹂躙されることを望んでいるらしいが、現実の旦那は聖人君子のような善良なるイケメン医師。彼女が拒めば手すら出さず、やさしくお休みのキスをしてくれるような善き夫だ。性におびえる貞淑な乙女として夫から優しく扱われるほどに、女の内奥で抑えがたい性衝動が渦巻いてゆく。

今でこそ、性的白昼夢を観るヒロインなど、日活ロマンポルノやその後継としてのAVではちっとも珍しいネタではないし、そういやラウラ・アントネッリの『禁断のインモラル』も似たような話だった(大八車に縛り付けられて羽根でくすぐられてたような……あれは別の映画だっけ?w)。
でも1968年当時の観客にとっては、これって結構新鮮な内容だったのではないか。主演のカトリーヌ・ドヌーヴは、すでに『シェルブールの雨傘』(64)の前後で『悪徳の栄え』(63)と『反撥』(65)に出ているので、この役をやること自体に周囲の違和感はなかっただろうが、それでも露出度は今まで以上だ。まあ、ブニュエルが他の映画では女優を脱がせまくってるのに、この映画でバストトップがないのは時代のせいなのか、ドヌーヴのNGラインのせいなのか(しつこい)。

中盤に高級売春宿の客として登場する、公爵夫人に鞭打たれるプレイを所望する教授(段取りどおりにいかないときだけ、高圧的な態度に戻るのが笑える)や、虫の羽音のような音のする奇妙な箱(プレイに使うのか??)をもって謎言語をまくしたてるガタイのいい東洋人などは、まさにブニュエルの好きそうな変人・変態大集合のたぐいで、観ていて純粋に楽しい。実際の客とも白昼夢ともとれる、喪服を着た娘の死体にドヌーヴをコスプレさせて棺の下にもぐって自家発電する貴族も最高にイカしている(このへん、ちょっと『悪徳の栄え』っぽくもあるよね)。
いっぽう、終幕の悲劇の立役者となる差し歯の犯罪者マルセルは、突発的な暴力とサディズムを内包した「テロリズム」の体現者であり、これまたブニュエル映画には欠かせないキャラクターだといえる。

個人的には、ドヌーヴ演じるヒロイン、セヴリーヌがどうしても単に感じの悪い勝手な女にしか思えず、彼女のせいであんなことになる亭主が可哀想で、ラストはただ心が痛い。
お話の作りとしては、夫婦生活を可能なものとした「売春セラピー」の「つけ」が、なんの罪もない亭主に回って生まれた悲劇で終わるともいえるし、いっぽうで夫は本当の意味で妻の愛を得て、妻は結果として本当の自由を手に入れたのだから、シニカルなハッピーエンドともいえるのかもしれない(ラストのアレは、アレのほうが白昼夢、という解釈を採りたい)。

総じて、あまり魅力的に描かれているようには思えない主人公夫婦に比して、ミシェル・ピコリ演じるエミル・ユッソンは、妙に忘れがたい印象を残す強烈なキャラクターだ。
セヴリーヌに性的な誘いを露骨にかけたかと思えば、高級売春宿の場所を彼女に教え、娼婦のナンバーワンになった時期を見計らうかのように客として訪問して彼女の心をかき乱し、ラストではわざわざ●●状態の夫のもとを訪ねて妻の不貞を告げ口する。下卑ているのに、どこか超然としていて、適当なようでいて計算ずくにも見える。おそらくなら、彼は本作における「メフィストフェレス」の役割を果たす存在なのだろう。
あと、セヴリーヌと旦那とユッソンとの四人組で登場する女友達のルネって、どこかで見たような顔だと思ってたら、『サスペリアPART2』の冒頭で殺された女霊媒のウルガ・ヘルマン役の人だったんだな。……ダリオ・アルジェント教徒なのに、気づいてあげられなくてごめん(笑)!

じゃい