劇場公開日 1969年9月9日

「「持つ者」の虚しさ」泳ぐひと 因果さんの映画レビュー(感想・評価)

3.5「持つ者」の虚しさ

2022年12月22日
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アメリカン・ニューシネマは、当時のアメリカ社会に対する不信感を通奏低音としており、ゆえに貧者や若者といった社会的弱者の痛みや不条理に焦点があてられる作品が多かった。『真夜中のカーボーイ』や『スケアクロウ』、『ひとりぼっちの青春』あたりがその好例だ。しかしこうした「持たざる者」への同情的連帯とは逆のアプローチ、すなわち「持つ者」の虚構性を暴き立てる作品も少数ながら存在する。

たとえばホラーの巨匠ウィリアム・フリードキンによる『フレンチ・コネクション』では、粗暴で卑怯な警察官=体制側=「持つ者」を主人公に据えられ、ことさら彼の内面の欠落性と理由なき暴力性が強調された。

あるいはボブ・ラファエルソン『ファイブ・イージー・ピーセズ』。ジャック・ニコルソン演じる主人公は行き場のない鬱憤を抱えた若者という点においてアメリカン・ニューシネマの常道をなぞっているが、その出自は有産階級だ。彼はブルジョワジーのつまらないくだらない嘘臭い生活に飽き飽きし、一人で家を飛び出す。

さて、本作もまた「持つ者」批判の文脈に位置づけられるアメリカン・ニューシネマの一作だ。しかしまあこんな変わり種がまだ残っていたとは。「上裸のバート・ランカスターがブルジョワの邸宅に備え付けられたプールを泳ぎ伝いながら自宅に帰る」などという荒唐無稽なあらすじが一切の誇張も省略もない映像的事実であるとは誰も信じまい。上裸の彼がプールを泳いでいるだけならまだしも帰路の途中で馬と戯れたり高速道路を渡ったりするシーンは寓話の域を超えて不毛なシュールレアリスムの様相を呈している。

こうした過激な誇張表現を通じて語られているのは、ブルジョワジー=「持つ者」の華やかだが中身のない生活だ。ランカスターは持ち前の肉体を誇示しながら豪邸のプールを回り、悠然とした態度で友人の長話をやり過ごしたりビキニ姿の女を口説いたりする。彼のブルジョワらしからぬ生き生きとした振る舞いに、受け手ははじめこそ『ファイブ・イージー・ピーセズ』的な、ブルジョワ内部から自己批判的に湧き上がる反権力の物語を想起するが、その読みは見事に外れる。

山あいに並ぶ豪邸のプールを周回し、そこに住まう人々との交流を深めるごとに、ランカスターの後ろ暗い過去が徐々に明かされ、それに伴い彼本人も残酷なブルジョワ的本性を露わにしていく。金にものを言わせて他人の家のビール用カートを奪おうとしたり、過去の女を抱こうとしたり、なかなか酷い。

そんな彼の栄華も遂に終わりを迎える。剛健さの表象としての上裸はいつしか彼が何も持っていないことの暗示へと転倒し、彼は雨の寒さに凍えながら丘の上の自宅に辿り着く。しかし彼の家には無数の蔦が絡まり、窓は割れ、白い壁は真っ黒に汚れている。彼は家に入る術もなく玄関の前で泣き崩れる。カメラは割れた窓から家の中へと侵入していくが、そこには何もない。内面の欠落を外面の華美で埋めていた男が、外面すら奪われた成れの果てがこれだ、と言わんばかりに映画は幕を閉じていく。

ただまあ「持つ者」に比して「持たざる者」には強固な内面なるものがあるのかというとそれも疑わしい。そもそも貧・富とか抑圧・自由とか老人・若者とかいった二項対立そのものが失効しかけていたのが60年代後半から70年代前半にかけてのアメリカが陥っていた窮状の実態だったのではないかと思う。そう考えるとやはり主人公があらゆる二項対立を往還した果てに全てが等しく価値を持たない虚無の地平へと辿り着いてしまうさまを描いた『暴力脱獄』がアメリカン・ニューシネマとしては一番リアルだったな、と思ってしまう。

因果