武器なき斗い(1960)

劇場公開日:

解説

西口克己の「山宣」の映画化で、治安維持法に反対して兇刃に倒れた山宣の生涯を描いたもの。依田義賢と山形雄策が共同で脚色し、「人間の壁」のコンビ山本薩夫が監督し、前田実が撮影した。総評が中心になって「山宣」映画化実行委員会が誕生、勤労者らのカンパで作られた。

1960年製作/141分/日本
原題:The Last Gunfight
劇場公開日:1960年11月8日

ストーリー

大正一二年、関東大震災が日本の経済に大打撃をあたえた直後。時の政府・資本家たちは治安維持法を制定してプロレタリア弾圧にのりだしていた。京都同志社大学で教壇にたって生物学者山本宣治は、その頃新しい考えかたによる性教育の必要を痛感して、教室で講義をしたり労組の集りで産児制限の講演をおこなったりしていた。だが、大学当局や政府筋は彼の行動を妨害した。大正一四年。ソヴェト労組代表が来日し、これを機会に政府は多くの自由主義的な学生や労勧者を検束した。宣治も同志社を追放され、労働党の運動に加わった。佐山村農民組合争議の惨状を目のあたりにして、彼は自分の生物学者としての考えかたを世に徹底させるためには、まず政治を改めねばならぬのを知った。妻千代や三人の息子は彼のよさ理解者であった。生家である料亭花屋敷を経営する父亀松、母多年も、考えかたこそ異れ、息子を信頼していた。佐山村争議で宣治は小作人さき・清母子や共産党員本田、彼に好意をよせる娘のぶなどを知った。やがて金融恐慌がやってきて、支配階級は侵略戦争を起した。昭和三年、普選に労働党から立候補した宣治は、苦しい選挙干渉と弾圧をしりぞけて代議士に当選した。三月一五日の全国的労農階級弾圧一斉検挙を迎えて、宣治は断固支配階級とたたかった。が、彼の身体は激しい日々の連続によって病魔におかされていた。政府は治安維持法をさらに改悪しようとした。宣治は一人、本会議場でこれの反対演説をおこなう決心をした。しかしその日を目前にひかえた夜、彼は神田の光来館で右翼の兇刃に倒れた。日本の暗い時代はますます重くるしく、ひろがっていこうとしていた。--昭和四年のその日から年月が経て、侵略戦争は敗戦によって終止符をうった。はじめて赤旗に囲まれ、おこなわれた山宣の命日に、改めて人々は彼の姿を胸によるがえらせるのだった。

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スタッフ・キャスト

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映画レビュー

5.0普通選挙法と抱き合わせの形で成り立った治安維持法

2019年1月4日
PCから投稿
鑑賞方法:CS/BS/ケーブル

 普通選挙法と抱き合わせの形で成り立った治安維持法。党の演説のみならず性教育の講座などには必ず憲兵が立会い、「中止!」の号令で打ち切られてしまう。戦前の殺伐とした世でありながら、性教育のシーンは和やかでユニーク。wikiを紐解いてみると、オナニーの訳語として“自慰”という言葉を充てた人物でもあるらしい(それ以前は“手淫”と言われ忌み嫌われる行為だったのだ)。そして産児制限運動。夫から毎晩求められる妻たちが興味津津だったエピソードも微笑ましい。コンドームを洗って何回も使用するとか・・・

 共産主義寄りの自由思想のため大学を追われることになった経緯、そして労農党の指導者としての道を決意する山宣。その人物像はなんとも穏やかで優しく病的で、とても政治家には似合わない雰囲気。しかし、無産者に対する思いやりや治安維持法反対の信念には、彼自身からにじみ出る強さが感じられるのだ。

 山宣を慕い、のぶ(谷育子)を取られるのではと嫉妬もする本田(中谷一郎)が最後には「ブルジョア的だ」と批判し離れていくも、戦後墓碑の前に片足を失った復員兵姿で登場するところには思わず涙。山宣が刺されたシーンも痛々しかったが、それ以上に泣けた。結婚していた2人だったのに、投獄され、別れてしまったようであり、他の同志との間に出来た子供たちを見るところも・・・

 刑事役の田中邦衛や共産党員役の宇野重吉など、脇を固める俳優も印象的。

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kossy
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