ブローニュの森の貴婦人たち

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ブローニュの森の貴婦人たち

解説

「抵抗(レジスタンス) 死刑囚の手記より」などで知られる孤高の映画作家ロベール・ブレッソンが1944年に手がけた長編第2作。18世紀フランスの哲学者ドゥニ・ディドロによる小説「運命論者ジャックとその主人」を原作にブレッソンが自ら脚色し、ジャン・コクトーがセリフ監修を手がけた。

上流階級のエレーヌは恋人ジャンの愛を確かめようと別れ話を切り出すが、ジャンはあっさりと別れに同意する。ジャンへの復讐心を募らせたエレーヌは、男を相手に稼いでいるダンサーのアニエスをジャンに仕向けるが……。

「天井棧敷の人々」のマリア・カザレスがエレーヌ、「高原の情熱」のポール・ベルナールがジャン、「エドワールとキャロリーヌ」のエリナ・ラブルデットがアニエスを演じた。

1944年製作/86分/G/フランス
原題:Les Dames du Bois de Boulogne
配給:マーメイドフィルム、コピアポア・フィルム
劇場公開日:2022年12月30日

スタッフ・キャスト

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映画レビュー

2.0悋気は女の慎むところ

2023年2月5日
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梨剥く侍

3.0初期ブレッソンの「ふつうの」演出の冴えを堪能できるが、お話自体はかなり妙ちきりんな気も。

2023年1月17日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

コクトー特集上映4本目。
とはいっても、コクトーは「台詞」のみの参加。ロベール・ブレッソンとの友情から、台詞のリライトを引き受けたという。確かに、かなり文語的で詩的な言い回しが多く、コクトーにはうってつけの仕事だ。ブレッソンからは、原作者ドゥニ・ディドロの乾いた文体を模倣することを求められたという。

ブレッソンは最近なぜか封切りで小屋にかかることが多く、この2年くらいで『バルタザールどこへ行く』『少女ムシェット』『田舎司祭の日記』『湖のランスロ』『たぶん悪魔が』『やさしい女』の6本を観ることができた。これで7本目ということになる。

ブレッソンにとっては、長篇第2作であり、このあと彼は「シネマトグラフ」の理念を推し進め、演出の抑制と素人「モデル」の採用という、きわめてミニマルで禁欲的な作風を突き詰めてゆくことになる。
ある意味、『ブローニュの森の貴婦人たち』は、ブレッソンが「普通の監督のように、プロの俳優を用いて、さまざまな演出技法を駆使して映画を作った最後の映画」と言うわけだ。

まあ、ピカソの若書きを観たら、ふつうに写実絵画でも凄かったっていうのと一緒で、あの独特の全てを削ぎ落したような「シネマトグラフ」を撮っていた監督が、じつは普通に映画を撮っても凄腕だというのは、いかにもありそうな話だ。

実際、冒頭のシーンから、たくらみに満ちたカメラワークにぐっと引き込まれる。
ホールの演し物が終わって退けてきた男女のカップル。
画面左から近づく二人に被さるように、右奥からタクシーが入って来る。
後部座席に、向かって左から乗り込んでくるふたりの男女。
一瞬、アップになった顔に光が当たったあと、左へと車がはけてゆく。
今度はバックミラーの位置から、並ぶふたりをとらえるシンメトリーの構図。
後ろから差すヘッドライトや、前方から入る街灯の明かりが、男と女の顔をなめて、それぞれの無表情な顔を暗闇に浮かび上がらせる。
噛み合うようで噛み合わない、温度の低い会話。
絶望的にすれ違う言葉と、表に見せない無表情の裏で、女がどす黒い怒りと妄執を煮えたぎらせていることを、男は知らない……。

晩年のそっけない演出からは思いも及ばないくらいの、流麗で、知的で、これみよがしなカメラワークと照明のマジック。この「移動する光と影」を心理描写と被らせる試みは、全編でみっちりと反復される。とくに、ドアが開くと顔にハイライトが当たり、閉まるとそれが消えるようなライティングが頻出し、それぞれの登場人物の心のなかでうごめく陰謀や後ろめたさ、葛藤、憎悪、悲嘆が、無表情の上を走る光と影の明滅によって雄弁に表現される。
序盤で登場する、円環を成してダンスを踊りながら煙草の紫煙で男女の性的な営みを暗示するようなトリッキーなショットとか、車のリアウィンドウに差して渡そうとした手紙が舞い戻るショットなど、ひたすら作為的な演出と演技を削ぎ落としていったシネマトグラフの理念からすれば、真逆を行くような「ゴージャスで露悪的」な演出スタイルだが、これはこれで素晴らしい。

とはいえ、後年のロベール・ブレッソンを想起させる演出が散見させるのもまた確かだ。
がっちり各演者の立ち位置をまず固めて、なるべく表情に抑揚をつけさせず、必要最低限の動きで演技をさせるところなど、すでに後のスタイルをじゅうぶん予見させるものだし、「やりすぎ」ていない分、後年の作品より「観ていてふつうに良いシーン」に仕上がっている感も強い。
全体に静謐でねちねちした密室劇・会話劇が続くなかで、一カ所だけ破調のように運動性の高い激しいシーンを挿入してくるのも彼の特徴だが(ちょうど『少女ムシェット』のゴーカートや『バルサダール』の粉挽き、『田舎司祭』のバイク二人乗りのようなシーン)、ここではアニエスの踊りのシーンがそれに当たるだろう。とにかく、40年代の映画なのに、アニエス役のエレナ・ラブールデットが『ダーティーダンシング』か『フットルース』かってくらい、めちゃくちゃ踊れるのだ。
この「生命を謳歌するような運動性」が、やがてその人物に訪れる「死神」と直結しているのも、ブレッソン映画の特徴だろう。
健気で気丈に見えるヒロインが、度重なる打撃のもたらす金属疲労に耐えかねるように、突然ぽっきりと折れてしまう展開というのも、のちの『少女ムシェット』や『やさしい女』に引き継がれたブレッソンらしい「ヒロイン受難」の描き方に思える。

ただ、面白かったかと言われると、なかなか難しいなあ。
表面上はメロドラマ風の体裁を装っているのだが、やっていることがあまりに奇抜というか、キテレツな話すぎて、僕にはちょっと付いて行けなかったというのが正直なところ。

まずは、エレインの計画があまりに「迂遠」すぎる。
自分を裏切った男への復讐をたくらむにしても、さすがに手が込み過ぎてて、非現実的な感じがする。
異様に手間と暇と金がかかっているわりに、ホントにふたりは恋に落ちるのかとか、そのあと計画どおり破滅させられるのかとか、実現(成功)可能性に関してはかなり怪しい感じがする。
それに、たとえうまくいったところで、こんなことをやってもただ虚しいだけじゃないのかな、と。

それから、肝心のヒーローであるジャン(ポール・ベルナール)が、ちっともカッコよくない。
カッコよくないどころか、なんか大して話してもいない女にいきなり付きまといまくり、まったく相手女性の苦しみや恐怖心に忖度する気配もなく、ただひたすら押しに押しに押しまくる。
しょうじき、たんなる悪質なストーカーか、薄気味悪い性犯罪者にしか見えない。
顔も、生理的に受け入れがたい類の両生類的な気持ち悪さを漂わせてるし(日本人だと、石橋保とか保阪尚希とかがやりそうな感じ)、裏切り体質のうえ、冷淡で多情で押し付けがましい。およそこんな男と一緒になって、ヒロインは幸せになれるはずがないと思う。

それと、踊り子のアニエスに関して、終盤に母親によってとってつけたように追加される「スリー・ノックダウン・ルール」みたいな「あと一回気絶したら死にます」みたいなのも、さすがに無理筋というか、意味がよくわからない感じ。気絶ってそんなものなの? ヒロインに与えられた胸の苦しみと打撃の深さを、「気絶」で表現しようとする象徴的なナラティヴが採用されているのか?
今と違って昔はしょっちゅう女性は気絶したものだからか、目の前でアニエスが倒れても、ジャンも母親も比較的平然としてて、それもなんかふつうに怖いんだけど。
てか、踊りすぎてスポーツ心臓みたいになってるんだったら、「踊りを辞める」って話のときに、心臓の話は出てしかるべきなのに。あのタイミングで急に言い始めると、単純に「作り手が終わらせ方がわからないので、ヒロインを死病に再設定してみました」ってふうにしか見えないんだよね。

「踊り子である」ことが、ここまでタブー扱いされているのも、微妙にひっかかる。
いや、わかるんだよ。時代的なことも。
「アフター」での売春があからさまに示唆されていることも。
でも、映画内で、彼女がストリップをやるわけではないし、はっきりと春をひさぐシーンがあるわけでもない。踊る彼女は、それはそれは愉しそうで、体中から喜びと生命の息吹を噴出させている。こんなに素晴らしく踊れること自体は、ショーパブで踊っていたからってだけの理由で否定することは絶対できないはずだ。少なくとも俺が旦那だったら、これだけ奥さんが踊れるなんて、ただただ純粋に誇らしいけどね。
それに、映画内で出てくる彼女は、つねに清純な魅力を漂わせていて、売春で生活費を稼いでいるようにはどうしても見えないってのもある。彼女がうぶで清らかな乙女として描写されればされるほど、ほんとはただ踊っていただけなんじゃないの?って気になってきて、それならやっぱりここまで「商売女」呼ばわりされる筋合いはないだろって気持ちになる。
要するに、観客を魅了する「踊り」の「本物」のパワーと、踊りが生きがいというアニエスの想いと、「踊り子」が貴族社会の絶対的な禁忌として扱われるのと、そのアニエスが四六時中卒倒するのとが、どうも僕のなかでうまくかみ合ってくれないのだ。

ラスト近く、いきなり超盛大な結婚式に場面が切り替わって、その終わりにエレインがジャンに呪いの言葉をかけ、また画面が切り替わったら今度はジャンが全てを知っているという一連の流れも、かなり無理やりというか、力ずくの組み立てで、観ていてかなり違和感があった。
話のスキップの仕方が、なんか重要なシーンがいくつか飛んじゃったみたいな感じがして。

結局、演出面では見どころの多い充実した映画ではあったが、プロットと設定自体にそもそもかなり大きな無理と齟齬があって、それが終盤の語り口の拙さにも悪い影響を与えている、というのが僕の率直な印象。
ただ、エレイン役のマリア・カザレスはさすがの名演技で、復讐の女神としてのファム・ファタルぶりを、しっかりフィルムに焼き付けていた。
この、無表情で泣き、無表情で怒り、無表情で愛にすがり、相反する感情を常に同時に表現する複雑な演技法は、現代でいうとちょっとパトリシア・アークウェットのそれによく似ていると思う。

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じゃい
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