劇場公開日 2000年6月10日

「芸人魂」マン・オン・ザ・ムーン 踊る猫さんの映画レビュー(感想・評価)

3.5芸人魂

2015年12月13日
PCから投稿

実在したコメディアンであるアンディ・カウフマンの伝記映画。子どもの頃からコメディアンに憧れていたアンディは、それが長じてバーでスカウトマンと出会いテレビに顔が出るようになる。ところが彼の奇抜過ぎる発想と過激過ぎる芸風はテレビの枠組みに収まり切らず、やりたいと思うような芸をなかなかさせて貰えない。客が求める芸と自分がやりたいと思う芸が違う時は平然と自分の思うがままに、例えば退屈過ぎる『グレート・ギャツビー』の朗読を延々とかましたり、女性相手にプロレスを行ったりと散々な(これは仕込みであることが明らかになるのだが)奇行でウケを狙いに行く。そんな彼は、ある日ガンを患っていることが分かる……これがこの映画のプロットである。

この映画を観るのは二度目だった。アンディ・カウフマンという芸人については不勉強にして知らないのだけれど、二度目に観てもやはり面白いと思わせられてしまうのはジム・キャリーの熱演が光っているからだろう。ジム・キャリーが出演している映画は不勉強にして『イエスマン "YES"は人生のパスワード』と『トゥルーマン・ショー』程度しか観ていないのだけれど、なかなかの細かい芸達者ぶりを見せていると思う。コミカルな演技も冴えているし、所々に見せる翳りもまたなかなかだ。それは認めるに吝かではない。

ただ、やはり日本ではイマイチ知られていないアンディ・カウフマンという芸人について知らないということがマイナスに働いてしまったようで、それほど前のめりになって楽しめたわけではなかった。せいぜい彼の「笑い(彼の場合は『炎上』という趣が強いのだが)」を追い求める情熱は凄まじいな、と圧倒させられてそこで終わってしまったのが惜しいところである。とにかく尖った芸風で人を圧倒させたい、という熱意にたじろいでしまったのだ。「コメディアン」という言葉を不用意に使ってしまったが彼の場合は「エンターテイナー」と言った方が良いのかもしれない。客を「笑わせる」というより「楽しませる」ことに命を注いだ男、というとニュアンスが伝わるだろうか。

やりたいことを平然と優先させ、テレビの放送禁止コードや不謹慎とされている暗黙の了解を破ってしまうところは痛快ですらある。仕事も渋々引き受けた仕事は本番であるにも関わらず(まだ「芸」で許される範疇、アンディ・カウフマンならやりかねないと許して貰えるギリギリの部分を超えて)投げ出してしまい、確実に受ける鉄板ネタ(それこそ観客が求めているものなのだが)であってもそれを不本意であると思ってしまえば捨ててしまい、先にも書いたようにボイコットするようにして退屈極まりない『グレート・ギャツビー』の朗読という(最初から最後まで読み通すのだ!)ステージを展開してみせる。アンディ・カウフマンのそういう部分に、さっきから書いていることはブレているのだけれど「芸人魂」を見るべきなのかもしれない。

……書いていることがブレっ放しなのだけれど、こういう曖昧なことしか書けないところが私の限界だと思って貰えれば有難い。ミロス・フォアマンの映画も『カッコーの巣の上で』程度しか観ていないのでこれと言ったことは語れないのだった。やはり普段からもっと映画を観ておくべきであったと後悔しきりなのだけれど、こればかりは仕方がない。とにかく言えることというのは、やっぱりこの映画はジム・キャリーの映画であるな、というこれもまた至極退屈なことでしかないのだった。人を楽しませる芸人/エンターテイナーが、最後の最後に奇蹟を信じてフィリピンに飛んだ先で「技芸」に騙されるのは皮肉が込められているのかな、ということもまた考えてしまった。

アンディ・カウフマン。これもまた繰り返しになるが現代ならこういう芸人/エンターテイナーは「炎上芸人」として扱われることだろう。それも一貫したポリシーを持ち、己の保身を顧みず(もちろんその一方でヒールを演じるプロレスラーと密約した上で身体を張ってプロレスを行うなど、周到な用意は行うわけだが)笑い/エンターテイメントに身を投じる人間として。彼の最後のステージのシーンと葬儀のシーンでは思わず、その芸風にも関わらず(いや、だからこそ、なのか)ここまで愛される人間というのもなかなか居ないな、と思わされて涙が出てしまった。かなり渋い映画なのだけれど、ジム・キャリーの芸人/エンターテイメントぶりを楽しみたい方にはお薦めしたい。

ラストのシークエンス。なかなか重い余韻を残す。突き抜けた芸人/エンターテイメント魂は、虎は死して皮を留め……という諺があるように亡くなってもなおリスペクトされ芸が生き続けるということなのだろうか、と思ってしまった。そして R.E.M, の名曲「マン・オン・ザ・ムーン」で幕を閉じられる。最初はジム・キャリーもミロス・フォアマンも知らずにこの曲が目当てで観たような映画だったのだけれど、二度目に観た今回もしんみりしてしまった。なるほど、こういう背景があってこそのあの名曲なのね、と腑に落ちたのだ。ヨーロッパでの洗練されたシニカルな笑い/エンターテイメントとも違う、型破りとしか言いようのない真正面からぶつかり合う笑い/エンターテイメントがここにあるな、と思わされた。ミロス・フォアマン、彼の映画はもっとチェックする必要があるようだ。

踊る猫