異人たちのレビュー・感想・評価
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孤独を癒す存在
山田太一原作の「異人たちとの夏」を原作にした本作。原作は読了。その前提での評価。
異人たちとの夏とは別物といってもよいくらい、この映画はこの映画、原作は原作。本作は同性愛であることの苦悩、孤独にフォーカスされていて原作とは訴えたいことが違うと思った。映画のあらすじをほとんど読まずに観に行ったので、あれ?こんな話やったっけ?っと最初は混乱した😅ただ、異人たちとの夏を元にした全くの別物と考えれば、そんなに悪い作品ではないのかなと思う。
両親たちに会うことで、アダムは自分の気持ちを少しでも整理できたのかな。そのために両親は現れたのかもしれない。どこからが現実でどこからが妄想なのかわからないが…。ハリーも幽霊かもしれないが、アダムにとってもハリーにとっても一緒にいることで安心できるならあのラストでもよいのかなと思う。いつまでも幸せが続いてくれればなあと祈るような気持ちで観てしまった。でも、アダムは現実世界では孤独であることは変わりないんやよね。切ない。
原作を知っているかいないかでだいぶ評価がわかれそうな映画かなと思った。上映中寝てる人がいて、いびきが聞こえていた💦なんとなく寝ちゃうのは気持ちわかるかもしれない(上映中にいびきはかかんといて〜!笑)
オリジナルとは全く異なる解釈
大林監督の「異人達との夏」と、どうしても比べてしまい、期待もしてましたが、全く異なる世界とテーマになって居て、切り離して観る必要があります。
都会の寂れたマンション、ゲイの中年男性…例え様の無い孤独の中で、クリスマスに故郷に帰り幼い頃に死に別れた両親と出会い、主人公の心が解れていくという展開は、日本の蒸し暑い夏と旧盆、下町というモチーフの持つ意味とは、かけ離れたニュアンスでの設定となり、両親にカミングアウトして、心の重石を取り除く事がテーマとなる。
ミステリアスな邂逅から始まる展開や、心温まる癒しの様なものが無く、伏線も無い上、主人公が魅力的では無いので物語に入り込めず、全体が暗い作品となっている。
3人のオバケと1人の男の話
皆さんがおっしゃるほど、心を揺さぶられることはなかった。
親もただの1人の人間で、自分がそうなように100点満点なはずはなく、ましてや若い頃の親なんて更に未熟で。
でもそんな親でも、目の前にすると子供に戻って甘えたくなるもんなんだな。
これはSF?
それにしても、なにもハリーまで死ななくてもいいのにねぇ。
つくづく愛に縁がないアダムを気の毒に思いつつ歩いて帰った。
しこりを大きくしないで。
大林版は観てません。
アンドリュー・スコットとポール・メスカルの年齢差はちょうど20歳らしい。10くらいかと思ってた…
アダムと父母の交流を観ながら、何に触発されたのかわからない涙が止まらなかった。強く感情を揺さぶる描写でもないのに、涙が顎まで滴るのはなぜだろうと思って見ていた。
多分、アダムの孤独が自分に重なるからなんだと思う。親が早逝してもないし、クィアでもない。でも、人と関わって感じた孤独に耐えられず、そこから誰かと交流しようとしないわたしがアダムに重なった。
それと、親と人間として“ちゃんと”関われなかった後悔も、あるのだと思う。父はもう死んだし、母は生きているが、どれだけ言葉を選んでも、心を砕いても、正直にぶつかっても、“わたしの望む反応”が返ってこない(返せない)とわかっているから、これ以上向き合いたくない。
けど、数多の物語が描く、親との“ちゃんとした”関わりに遭遇するたびに、自分にはなしえなかった後悔を感じる。物語に生きる誰かの母が、わたしの母にも少しは宿っていないだろうかと。
母も父も、彼らなりの愛のようなものをくれたし、必死で働いた金でわたしたちを育てたことを理解している。でも…
本当は自分の親に掛けてもらいたかった言葉や振る舞いを、わたしは虚構から間接的に摂取して、なんとか完全に自暴自棄にならないようにしてるのだろうな。
親以外にも、恋人や友達やきょうだいや街ゆく人に、してほしかったことを、虚構から得て、なんとか生きてる。そんな気がした。
自分が誰かに生きる糧のようなものをあげられたかもわからない。自分だけが欲しがってる気もする。
忘れてしまうのでオチを雑にメモしておくと、
ハリー(ポール・メスカル)は、アダムの部屋を訪ねたあと直ぐに飲みすぎたか薬のオーバードーズかで死んでいた。前へ進むための動機が欲しくて作り出した父と母との邂逅を経て、拒絶してしまったハリーに会いに行くと、もう死んでた。
その後がわからんけど、ハリーの親兄弟に連絡してあげたりするのかな?そして、アダムは人と関わろうとし始めるのかな。胸にはまったしこりを大きくしないように。
とはいえね、めちゃ感動しといてなんやけど、突然自宅に訪ねてくる知らん人を部屋に招き入れないのは、身を守るためには極々一般的やと思うねん。あれでハリーを招き入れるのは無理やって!絶対無理!私なら居留守一択よ。名前すら教えません!!
中堅俳優4人の競演
急に亡くした肉親、逝った方も遺された方も、伝えきれなかった気持ち、後悔している行動、もう一度会えたなら…
12歳の時に自動車事故で両親を突然喪った主人公は、既に当時の親の年代になっている。しかし家庭を持たず、ロンドンの高層マンション27階の部屋で一人、シナリオライターをしている孤独な生活。ある夜マンションの警報が鳴り、誤報と思いながらも建物の外に出ると、6階の部屋にだけ人がいるのに気づく。
部屋に戻った後、その6階の青年が、日本のウイスキーを飲もうと押しかけてくるが警戒し、丁重に断る。
彼との会話から昔を思い出し、懐かしい写真を見返しているうち、両親と暮らした家に行ってみることにし、電車で郊外に向かう。家は昔のままの姿だったのを確認し、帰ろうとするとすると、昔の姿の両親が現れる。そんな筈はないと戸惑いつつも、今はライターをしているという息子を歓待してくれる。久しぶりの再会に温かい気持ちになり、母親には「2人のうちどちらかは家にいるからまたおいで」と言われる。電車でロンドンへ戻ると、6階の青年に再び出会う。前回とは違う印象の青年に気持ちを許し、受け入れる。
何度か電車で両親宅を訪ねるうち、青年に会ったことで、ゲイであることを両親に打ち明ける。当時、同性愛はエイズ=不治の病と結びつけられていたため、母親は息子の告白に、頭ごなしな否定や拒否はしなかったが心配はされた。父親とは、自分が女々しかったため昔からいじめられていた話をする。父親はいじめに気づいていたが、息子を救おうとはしなかった。それは、自分自身がいじめる側に近かったためで、主人公もそれを分かっていた。そして「あの時、部屋に入っていかなくてごめんな。」と息子に謝罪する。
そして、二度目の別れがやってくる。
子育て中の親は年齢的にも完璧な人間ではないし、間違えもする。
ロンドンから田舎への電車での移動が、この世とあの世の移動手段になっている。幽霊ビルのような都会のマンションといい、現実と向き合っているのかわからないような生き方の中年の主人公。それでも、自分と自分の過去に目を背けず前を向くことを、不思議な人たちとの交流の中で学ぶのだった。
泣けた。
どう捉えるかは観る人の人生次第
シャーロックに出演していたアンドリュー・スコットさんが出演とのことで観てみました。
予告では恋人も出来て両親とも会えてハッピーエンドかと思っていましたが、実際は両方とも失う(物理的に、恋人も恐らく刑務所に行くだろうし)結末で悲しいと思いましたが、両親とは分かり合って本当の家族になれて別れ、また恋人とも支え合っている様子だったので、気持ちの面ではハッピーエンドだったのかなぁと思いました。
私は親とは仲が良くなく子供の頃にされたことや、して貰えなかったことを未だに根に持って生きてしまっているので、アダムのように子供の頃の話を腹を割って話し謝り合っていたのは少し羨ましくもありました。
また、私がもしLGBTQだったらまた映画の見え方も変わってくるんだろうなーとも思ったり。
この映画は賛否両論あり、昔の邦画バージョンを観た人にとっては不満があるようですか、私は原作も知らずに観たので特に違和感は覚えませんでした。
強いて言えば、両親と会えていたことや恋人にも両親の姿が見えたこと、時々ジャンプする意識、ただ単に薬でなのかあまりの孤独感からの妄想なのかが気になりました。
初めは脚本家だから書いている作品の中の妄想の話かと思いましたが、あまり脚本家としての描写も出てこないので関係なさそうでしたし...。
最後に恋人の部屋に遺体があった理由やいきさつなども気になったままエンドロールだったのが心残りでした。
追記:他の方のレビューを見ると、どうやら最後の遺体はハリーのだったみたいですが、何故か私はハリーが浮気した相手orハリーの不仲な両親と勘違いしてました。みなさんは何でハリーだと分かったんですかね?
私の読解力が低いだけ?実際にハリーの顔って映りました??
アンドリュー・ヘイ監督の世界観ですかね
うーん、ちょっと難解であったか。(特に最後)
しかし、原作主人公の浅草の両親。英国だとあんな感じで表現されるのか。興味深かったです。
また、同性愛に関する偏見、一世代前は、国を問わず同じだったのだなと感じました。
アンドリュー・ヘイ監督の山田太一に対するリスペクトが感じられ、同時に彼の世界観を楽しめました。
ファミリー・スペシャルよりすき焼きだなぁ‼️
やはりどうしても大林宣彦監督作品と比べてしまう‼️この「異人たち」自体はいい映画だと思うんですけれども‼️「異人たちとの夏」には我々日本人の琴線というか、郷愁に触れるモノがあったと思う‼️ここでは深く触れませんが、果たしてこの「異人たち」を観てイギリスの方は同じような想いを抱くのだろうか⁉️ひと夏の不思議な体験、忘れられない出逢いを描いた映画として優れた映画です‼️主人公や両親、恋人に至るまで役者陣もオリジナルには遠く及ばない‼️そしていくら多様性の世の中とはいえ、主人公をゲイに設定する必要があったのか⁉️ゲイの性描写も含め、主人公たちの愛の情念があまり感じられない‼️そしてこの作品には残酷さというか、非情さを感じる‼️両親もいなくなり、いずれ恋人もいなくなる‼️オリジナルにおける永島敏行さんのような役回りが欲しい‼️ある批評で、孤独と誰かを必要とする気持ちが、この作品のテーマのように言われていましたが、結局、主人公は一人ぼっちになることを示唆した結末だったのでチョット切ないですよね‼️両親もいなくなり、恋人もいなくなったけど、かけがえのない親友ができた、というオリジナルの結末の方が好きです‼️ところで、イギリスにユーレイという概念はあるのでしょうか⁉️やっぱり、ゴースト⁉️
「異人たち」と「異人たちとの夏」
山田太一原作が、イギリスを舞台にしてどんな作品になってるのか、楽しみにしていましたが、期待外れでした😢
亡くなった両親と再会するという設定だけが同じで、あとは別モノでした💦日本版では、浅草の寄席で父親に出会う場面、すき焼きを食べながら両親が消えていくシーンが印象的で、鶴太郎さんのお父さんがいい味出してましたよね~😊
イギリス版では、両親がゲイである息子に当惑したり、自分たちは即死だったのかと問い詰めたりして、興ざめでした😔鶴太郎さんなら、そんな野暮な質問しないでしょう💦
両親に会うたびに主人公がやつれていく、という牡丹灯籠のような展開も期待してたのですが... 😩
Moist
原作が日本であることと同性愛を扱った作品ということ以外はそこまで情報を入れずに鑑賞。木曜日の夕方からの上映って人少なくていいな〜ってなってました。
序盤からホラー的に詰めてる隣人が誘惑してるシーンがあったので、ゲイ=異人たちと捉えて、そういう話なんだなと頭をスイッチしようと思ったら、父と母と主人公の年齢が変わらなさすぎて、ん?ってなって情報量過多で初っ端から混乱させられましたが、その後の展開も正直ハマらずで相性があんまし良くないなーと思ってしまいました。
自分は異性が好きなので、やはりこういう作品は一歩引いて見てしまいがちで、性行為のシーンなんかも息が詰まってしまいましたし、エロティック全開で役者陣凄いなぁが先行してしまいました。
登場人物との関係性もなんだか希薄に感じてしまい、両親が亡くなってるのは早々に気づきましたが、彼氏まで亡くなっていて、最後は彼の元に添い遂げるというあまり好きでは無い余韻の残し方でした。最後の星空の演出もはよ終われ!と思ってしまったくらいです笑
妄想と現実が行ったり来たりするのに加えて、薬も服用してるもんですから、それが頭の中で生まれたイマジナリーなのか、禁断症状から来るものなのかというのもややこしさに拍車をかけていたなと思いました。
妄想での両親との会話は興味深くて、ゲイであることを打ち明けたら、父親は「君をいじめていたかもしれない」というセリフはなるほどなぁと頷いてしまいました。
現代では街中でもオープンになってきたんですが、どうしてそれを見るとまだウッとなる自分がいるので、父親のセリフは正直だなぁと共感してしまいました。
背景込みの映像はとても美しかったです。作品のテーマの繊細さと同居していてそのシーンは特に見入ってしまいました。
登場人物を映すショットもかなり印象的なものになっており、自然光を当ててその人物に視点をグッと持って行ったり、逆に暗闇で悲哀な感じを強めたりと映像へのこだわりがヒシヒシと感じられました。
自分は両親もまだまだ元気ですし、恋人もいたりいなかったり(要約するといなかったり)で、身近で大切な人を亡くしたというのが無いからあまり刺さらなかったのかなぁと思いました。
こういう作品は歳を重ねて面白くなっていくんだろうと勝手に思っていましたが、今の生き方だと多分分からず終いで歳をとっていくんだろうなぁ笑
鑑賞日 4/25
鑑賞時間 18:50〜20:50
座席 K-5
大林宣彦作品はノスタルジーでも本作は喪失感と孤独感の人間愛作品
ベースとなる設定は大林作品と同じで、両親を幼くして亡くした主人公アダム。現在はタワーマンションに一人暮らしをしている。幼少期を過ごした郊外の家に訪れたところ亡くなった両親と再会します。そしてタワーマンションには自分以外の住人ハリーがいることを知ります。ここから微妙に設定が異なっています。孤独に生きてきたアダム。それは同性愛者であることが原因で他人とのコミュニケーションをうまくとれないことがベースにあります。同性愛であることは両親に告知する事、それにより虐めにあっていたことも言えないままだった後悔も彼にはありました。両親との再会により告知する機会を得たのでした。この展開から明らかに大林作品との方向性の違いが明確になります。大林作品は両親は幽霊や亡霊ではないのかそれとも主人公の想い出が回想されているかというファンタジーでした。しかし本作は幽霊、亡霊という意味合いはありません。過去の想い出回想ではなくできなかった思いを伝えており、それにより反応する両親の姿を描いています。これはアダムの妄想、心のイメージではないかと考えられます。ハリーとの関係についても衝撃的な結末を向えます。ラストは小さな光となっていきます。希望の光ではなくせつないラストです。鑑賞者に考えさせるような深い物がありました。
何処までが
幻想か現実かわからない展開が続きますね。親が自分と同じくらいの年齢であったり、でかいタワーマンションに恋人と二人きりだったり、通常の状況で無い違和感のある世界でストーリーが展開されます。ゲイの世界が苦手だと少し長いかもしれないですね。
彼と共に向かう先にあるものは、きっと心温かい春の日差しなのだと思います
2024.4.25 字幕 MOVIX京都
2023年のイギリス映画(105分、R15+)
原作は山田太一の小説『異人たちとの夏』
舞台をロンドンに変えて、主人公の性的属性を変更した脚色がなされている作品
幼少期に両親を亡くした青年と同じマンションに住む孤独な青年との邂逅を描くヒューマンドラマ
監督&脚本はアンドリュー・ヘイ
原題は『All of Us Strangers』で、直訳すると「私たちは皆、見知らぬ人たち」という意味
物語の舞台はイギリスのロンドン
タワーマンションに住む脚本家のアダム(アンドリュー・スコット、幼少期:Carter John Grout)は、12歳の時に両親を交通事故で亡くしていた
今はタワーマンションの高層階にて一人暮らしをしていて、煮詰まった脚本に手を焼いていた
ある日、マンションの火災報知器が鳴り響き、外に出たアダムは、階上から自分を見る視線に気づく
その後、誤作動がわかって部屋に戻ったアダムの元に、その視線の男・ハリー(ポール・メルカル)がやってきた
ほろ酔いのハリーは日本のウィスキーを片手に「一杯飲らないか」というものの、見知らぬ人を部屋に入れるのに抵抗を感じ、その場はやんわりと断ることになった
アダムは、時折夢の中で両親との日々を夢見ていて、ある日何気なしに育った家へと向かってしまう
そこには12年前のそのままの姿の父(ジェイミー・ベル)と母(クレア・フォイ)がいて、優しく彼を包み込んでくれた
懐かしい話で心を躍らせながら童心に帰っていくアダムは、偶然再会したハリーとも交流をはじめ、ただならぬ関係へと進展していく
そして、ある時、アダムはハリーを家族の元へ連れて行こうと考えるのである
映画は、山田太一の原作小説を原案として、舞台を日本の夏からロンドンへと変えている
また、主人公の性的志向なども変わっていて、より監督の私小説的な立ち位置になっていた
主人公がある日を境に、亡くなったはずの両親と出会い、その背景で関係を持つ人物が現れるという設定を準えているものの、全く別の作品と考えても良いのではないだろうか
物語は、両親が視えるようになってからハリーとの親交が深まっていくのだが、ハリーもまた両親が視え、両親もハリーが視えているという流れを汲む
察しの良い人にはわかるハリーの顛末であるが、どの時点で事が起こったのかは示されない
一番最初の拒絶の後なのか、実はその時すでにという感じだったのかはわからない
だが、拒絶が引き金となっているとしたら、これほど心を抉る展開もないと思うので、夢見心地だった日々があったと思いたくもなる
それでも、実はアダムも「そっちの人」という可能性もあるので、あの日の火事は本当にあって、それによって取り残された二人の残留思念があの場所に残った、というふうにも見えなくはない
このあたりは、ご想像にお任せしますという作風になっているので、それぞれが思い描くものが最適解に近いのではないだろうか
いずれにせよ、前作および日本語版を観ずに鑑賞したが、却って先入観がなくてよかったかもしれない
LGBTQ+のシーンは結構激しく、ゲイとクィアの関係などが会話に出てくるので、このあたりの最低限の知識は必要だと思う
個人的には火事が本当に起こっていて、その残留思念が見せたものだと思っているが、あの日ハリーを見つけたことで、アダムが救われる物語にもなっているし、ハリー自身をも見つけるきっかけになっているのはよかったのだと思う
母は「ハリーのこともよろしくね」と言っていたが、それは「一緒に天国に導いてあげてね」という意味だと思うので、この解釈の方がしっくりくるのかな、と感じた
わたしにはちょっと難しいかも
原作も読まず、日本版映画も見ず、特に予習なしで観に行きました。
それがあんまり良くなかったのかも。
何故ビルに人が全然いないのか、所々なんでだろ~っと思いながらストーリーが進んでいき置いていかれました。
どっかで説明があったのかも知れないけど、序盤でちょっと集中切れちゃって分からず。
家族と過ごす時間や別れの瞬間は涙が出たけど、なぜ亡くなった両親が実家にいるのか、なぜ別れなければならないのか、説明があるのかなーっと思ったけどそう言うのはなくさよならの瞬間へ。
恋人も異人だったというのは知らなかったから驚いたし、これは原作読んでなくてよかったかも。
でも全体的によく分からなかったから、観賞後、本屋に駆け込んで原作本買いました。
イギリスにお盆の概念がないのかもしれないけど、大筋は一緒でかなり雰囲気変えてるんだなと思いました。
それはそれで全然ありなんだけど、私の頭では説明が少なくて映画全体を楽しむにはちょっと難しかった。
今度は日本版を観てみたいな。
切ない物語、映像美
ネタバレあります
話はとても切なく、アダムの切ない笑顔に胸が締め付けられました。寂しかった、怖かったという気持ちが私にも伝わってきました。
ゲイであることで感じる寂しさと孤独なことの寂しさは違うと言うセリフが刺さりました。寂しいことには違いないと思いますが。
性的マイノリティの話によくある、生きやすい世の中をといったことは全くなく人間的な寂しさの話で共感できました。
抱きしめてやれなくてすまないのシーン、アメリカンダイナーのシーンで号泣。自分の中に寂しい記憶がある人は特にしっかり伝わると思います。アダムの虚しさ。
そして、映像が美しい
色味が美しく、色彩ははっきり鮮やかめでいい映像体験でした。なんといってもピントの浅さ。この要素だけで映画が構成されて没入感につながるという不思議な体験でした。普通ならカットを割るところをピントを移すという方法は新鮮でした。背景がボケていることで見える世界は演出的に最高でした。
とても好きな映画です。あくまで『異人たち』を見ました。
思ったより上品
ゲイ作品ですが激しい性描写はなく、1人の人間のストーリーなので、女性1人でも安心して見れます
進行はゆったりですが、静かさがあり、内なる悲しさが秘めているのが伝わります。
実家に行くたびに自分がもらいたかった言葉をもらいに行く。子供に帰る。
会えた嬉しさとカミングアウトした後の絶望感の差
窓に映る顔やエレベーターなど所々にフランシス・ベーコンやクイーンのミュージックビデオっぽい映像
最後は絶望のような安心のような。
しかし相手がどうであれ、自分が愛され、自分が愛する人がいるので良かったのではと思います
「異人たち」のお話
あの世の人たちも、ゲイの人達も、私には「異人たち」でした。
ゲイの人達を許すとか許さないとか、認めるとか認めないとか、その昔同性愛は犯罪だったり、元々はキリスト教で禁じられていた名残ですかね。
たとえ親であっても他人が言うことじゃないと思う。人としての性質なんだから、神でもない同じ立場のヒトが許すも許さないもないでしょうに。
他人が言えるなら、自分が受容できるできない、共感持てるか持てないか好きか嫌いか、あくまでも自分の個人的な感覚としてどうなんだということだけだと思う。
どうしてもだめなら個人的にそっと距離を保てば良いでしょう。
積極的に危害を加える言動はもっての外ですが、個人として感覚的に受け付けない人に、受容や積極的に共感を持つこと、好きになることを強制するのも違うと思うので。
アダム自身がもしかするとすでにあちらの世界に片足突っ込んでいるのかもしれません。
あの世とこの世の間の踊り場にいる状況。
アダムが生きている人と会話など交流しているシーンがない。
あのマンション・ビルにハリーと二人しか住んでいないのも、現し世だと不自然だし。
自分の家庭の話を書いていて行き詰まったにしても、唐突に実家に行こうと思い立つ大きなきっかけがあっても良さそうだし(死にかけている状況に陥った)、亡くなった両親が実際に出てきてもさほど驚かないのも、なにか自分で悟るところがあるからじゃないでしょうか。
両親に会うたびにHPが削られるというのをもっとはっきり示したほうが良かったと思う。
息子を思うがゆえにもうこれきりにしよう、という両親の気持ちが伝わりにくいです。
アンドリュー・スコットは、私には「モリアーティ」なんですよ、シャーロック!の怪演で演技派なのは良く知っており、本作も好演でした。彼自身ゲイをカミングアウトしてますね。
ハリーが実は… というのは日本版とちがってるけど、こちらのほうが断然良いと思います。誰かに見つけて欲しかったんだよね、とうるっときました。
アダムの父のジェイミー・ベル、なんかもったいない使い方だと思いました。
おじさんふたりの赤裸々な行為は、あまり見たくなかった
「エゴイスト」が大丈夫だったのはふたりが若くて美しかったからでしょう
日本版と違って親子の情愛割とドライ、郷愁要素なし、で、ホラー映画としてそこそこおもしろかったです。
追記)
種々の現象の元をたどると、アダムの孤独がある気がします
私の勝手な解釈ですが、死にかけている状況になって、リアルではできなかった願望を叶える「幻想」を見たのかもしれないと思いました。
自分を理解してくれて心身ともに寄り添ってくれるパートナーができ、すでに亡くなっている両親にゲイをカミングアウトし、自身のわだかまりも話し合って解いて理解し合う、孤独な男の切なる願望だったのかも。
映画「異人たち」のネタバレ考察・映画感想文
・物語
とある男がいる。名前はアダム。
彼に対してある日、別の男が部屋まで来て誘いをかける。名前はハリー。
ハリーは「一緒に君の部屋で過ごさないか」とアダムを誘うがアダムはそれを断る。
だがまた再会の機会があり、アダムとハリーはだんだんと近づき恋人同士になるのだった。
これはまた別の話だが、アダムはとある夫妻を訪ねる。アダムと同年齢ぐらいの夫婦だ。
アダムを見て夫妻は「あの子だ!」と言う。一体どういうことだろうか。
アダムとハリーの件があった後だけに、もしかしてこの夫妻の夫もしくは妻の方がアダムとロマンス的な関係を持つのではないかと思わせるのだが、そうなりそうな雰囲気だけを漂わせて、実際にはそうはならない。
話を聞くうちに段々とアダムはこの夫妻の子供であるということが明らかになる。見かけ的には夫妻はアダムと同じ年齢ぐらきに見えたのですぐには分からなかった。最初は昔近くに住んでいた近所の人かと思った。だが親と子だった。
アダムは自分が芸であることを母と父に打ち明ける。母はそれに戸惑いを隠せずに偏見の言葉を投げつける。父は最後にはアダムを受け入れて、子に対しての過去のおこないも懺悔する。
アダムは自分がゲイであることによってか、子供の頃から周りにいじめを受け、まだその激しい痛みがトラウマとして残っているのだった。それに対してアダムの父は見てみぬふりを決め込んでしまった。その昔からのわだかまりについて父子で話し合い、ある部分、融解する。
こうしてアダムと父母は久しぶりに再会した。なぜ離れ離れになってしまったかの真相は明らかでない。何らかの事情があったようだ。
そしてアダムはその日、父と母と同じベットで眠る。だが同時に悲しい夢を見る。いつの間にか隣には恋人のハリーがおり、だが逆側を振り向くと隣にいたはずの母はいない。そしてまた振り向くとハリーがいない。
唐突に大事なものが失われ、この世界でひとりぼっちになるような悪夢から目覚める。一体何が現実で何が夢なのだろう。アダムが訪ねた父母の記憶はどこまでが現実だったのだろうか。
アダムは現実の世界でハリーと一緒に父母の家を訪ねる。だがそこには誰もいない。ドアを激しく打ち付ける。だがそれもまたアダムの見た夢であり、アダムは何度も現実に目覚めて行く。
そしてアダムは気づく。彼の父母は彼が幼い頃に既に交通事故で亡くなっていることを。アダムは自分の幻覚の中で父母と再会し、打ち解けあったのだった。彼と彼の両親が同じぐらいの年齢に見えたのも納得が行く。彼は彼が幼い頃の、若い頃の両親と幻覚の中で再会していたのだ。
さらにだ。彼が恋人であるハリーの部屋を訪ねると、彼はおそらく薬物の過剰摂取で死んでいた。いたたまれない。打撃の後に打撃。なんて救われない物語だろうか。
実は彼はハリーと恋人にさえなっていない。ハリーが孤独感に耐えきれずアダムの部屋の前を訪れた後、ハリーは自ら命を絶ったのだった。それもアダムが彼の誘いを断ったがために。
唯一の救いの綱であるはずのハリーとの関係でさえ壊れた。というよりも本当は始まってさえいなかった。
彼ら二人はまた夢の中で抱き合い、そのまま光の中に吸い込まれ、夜空の星と同化するのだった。
・感想
このように非常に悲しい物語だった。
誰でもいちどは夜に目が覚めて、本当に愛すべきものを失ってしまったような、そんな孤独でたまらない気持ちを味わったことがあるんじゃないだろうか。これはそんな感覚を描いた映画だと思う。
「ボーはおそれている」のようにせん妄が起き続け、どこまでが夢で現実が分からない。
エンドクレジットを観ると原作が日本の小説で驚いた。しかも調べたところかなり古そうな小説だ。これはぜひ読んでみたい。
・久しぶりの映画館
しばらく毎日のように映画館に通っていたが、ここ1週間ほどは行けていなかった。1週間ぶりでも自分にとっては久しぶりだ。
こうして久々に映画館に来るとやっぱり良い。毎日通い詰めだと良さが見えなくなりがちだけれど、映画館というものの良さを再確認した。
映画そのものの内容も大事だけれど、それ以上に「映画館で過ごす」という体験自体が好きだ。仕事が終わってただ家に帰るのではなく、映画館に寄れば、もうひとつ人生を生きることができる。
アマプラとか配信で映画を観るのも決して悪くはないのだが、あの映画館の大きなスクリーンが恋しくなる。あとは部屋で完全に一人でいるのは孤独だ。それよりも公共の場所であるシアターの方が良い。「文化的な営みをしている」という感じがする。
たぶん映画鑑賞によって情緒だって育まれる気がする。映画鑑賞をしないと情緒が育まれない。つまり僕から映画館を取り去ったらもう非人間である。
人間性よ。
失われたものに耽溺することは罪?それとも救い?
人は本質的に孤独なのだけど、ただ子ども時代だけはその事実と向き合わずに済んでいたということを思い出してしまう。微笑みかけ、はげまし、心配してくれる両親との時間、その時間と大事に守られただ無邪気でいられた時の記憶は人のベースになるものだろうし、その失われ方が苛烈であればあるほど、引きずってしまうことになるのだろう。だからアダムはどこか呆然として生きているように見える。愛することが怖いのは失うことが怖いのと同義。アダムの選択は、途方もなく孤独に見えるけれど、優しくて思いやりのある大人に育っているからこそなのかもしれない。
アダムと両親との時間は愛に満ちていて、切なすぎた。
そして、これからのアダムも。
アンドリュー・スコットは素晴らしかったと思う。彼の孤独と、それを癒やす奇跡に飲み込まれそうになる作品だった。
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