槙坪夛鶴子 : ウィキペディア(Wikipedia)

槙坪 夛鶴子(まきつぼ たづこ、新字体:多鶴子、本名:光永 夛鶴子、1940年(昭和15年)5月28日『現代物故者事典2009~2011』(日外アソシエーツ、2012年)p.558 - 2011年(平成23年)9月24日)は、日本の映画監督、スクリプター。

略歴

日野夛鶴子として、広島県呉市に生まれる。1945年の広島市への原子爆弾投下の際には、爆心地から25キロ離れた、当時の安佐郡久地村(現在の広島市安佐北区)の父親の実家で被爆する。1950年に大阪へ転居し、後に大阪府立北野高等学校に進む。この間、両親が離婚し、高校の頃から母の槙坪姓を名乗るようになる。

早稲田大学第一文学部演劇科卒業。在学中に最初の結婚をし、出産する(後に離婚)。24歳ころに関節リウマチを発症するが、27歳ころに俳優の米倉斉加年に紹介され、スクリプター(記録係)として民芸映画社で働くことになり、映画界に入る。スクリプターとしては、テレビドラマ『黒部の太陽』(1969年)などに関わる。

1986年(昭和61年)、長野県の養護教諭による性教育の取り組みをテーマに取り上げた『子どもたちへ いのちと愛のメッセージ』で監督デビュー。以降、高校生の妊娠をテーマとした『若人よ いのちと愛のメッセージ』(1987年)、後天性免疫不全症候群(エイズ)を取り上げた『地球っ子 いのちと愛のメッセージ』(1993年)、『わたしがSuki』(1998年)、老人介護を取り上げた『老親 ろうしん』(2000年)、『母のいる場所』(2003年)、自閉症をテーマとした『星の国から孫ふたり』(2009年)と、身近な問題を劇映画として発表し続けた。

2011年9月24日、リウマチに伴う合併症のため死去。

関連項目

  • 日本の映画監督一覧

外部リンク

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