中村武志 : ウィキペディア(Wikipedia)

中村 武志(なかむら たけし、1967年3月17日 - )は、京都府京都市右京区出身の元プロ野球選手(捕手)・コーチ、解説者・評論家。現役時代は主に中日ドラゴンズ(在籍期間: - )でプレーし、1980年代末期から2000年代初期に正捕手として活躍、・にはそれぞれ中日のセントラル・リーグ優勝に貢献した。

愛称は「たけし」。

経歴

元在日韓国人で、韓国名は姜 武志。中日時代の1988年8月24日付で日本に帰化している{{Efn2|1988年8月24日付の『官報』より。同紙に記載されている中村の住所(名古屋市西区堀越2丁目6番18号)は、かつて中日球団の合宿所「昇竜館」が所在していた場所である『東京新聞』1999年3月3日朝刊特集1面18頁「99年プロ野球選手名鑑 セ6球団の新陣容 中日ドラゴンズ 横浜ベイスターズ 読売ジャイアンツ」(中日新聞東京本社)。同所の合宿所は1988年3月に完成し - 通巻:第1694号(1988年4月11日号)。、同年から使用されていたが、2003年オフに中日の二軍本拠地となっていたナゴヤ球場(名古屋市中区露橋)の敷地内へ移転した『中日新聞』2003年12月8日夕刊特集3面3頁「ドラゴンズ屋内練習場と合宿所 新生 職住接近 野球人図」(中日新聞社 写真と文・星野大輔)。}}『官報』本紙 第18452号 昭和63年8月24日 1-2頁「法務省告示第六六九号 左記の者の申請に係る日本国に帰化の件は、これを許可する。昭和六十三年八月二十四日 法務大臣 林田悠紀夫(以下略、続)住所 名古屋市西区堀越2丁目6番18号 姜武志(中村武志)昭和42年3月17日生」。

プロ入り前

花園高校での3年間は新聞配達をしながら過ごし、その際の給与からバットやミットを購入した。1984年の鳳凰大旗全国高等学校野球大会において、在日韓国人チームの正捕手として出場し準優勝を果たした。1984年のドラフトで、竹田光訓(明治大学)の交渉権獲得に失敗した中日ドラゴンズから外れ1位として指名を受け、入団。正捕手・中尾孝義の肩に不安があったことで、遠投120メートルとも言われた強肩を買われての指名であった。

中日時代

当時、高校時代にバイト代で購入したミットがかなり劣化していたため、見かねたコーチが中村に新品のミットを2つ買い与えた。

オフにフロントの整理対象選手に挙げられていた。

、初出場を果たす。同年、中日の監督に就任した星野仙一は中村に猛練習を課し、時には過度に殴りつけ、「これ以上やったら死にます!」とコーチが止めに入ることもあったという。これがのちに「なんかあったら、オレが監督に殴られてやるから大丈夫!」という投手への殺し文句となる。決して言い訳せず、常に責任を負う男気は投手陣から信頼を得た。また、中村の強肩は「あんな送球、見たことない。手が腫れる」と遊撃手の宇野勝が評価するほどであった。

、前年に盗塁阻止率.396でリーグトップの中尾を、怪我の頻発を理由に外野手へコンバートする。これにより、大宮龍男・大石友好らのサポートを受けながらではあったが、中村は6月ごろから正捕手としてレギュラーに定着。広島の機動力を封じるなどしてリーグトップとなる盗塁阻止率.448を記録し、6年ぶりのリーグ優勝に貢献。日本一は逸したが、優勝旅行にて「一緒に写真を撮ろう」と中村に声を掛けた星野は、その場に居合わせたカメラマンに「コイツのおかげで優勝できたんや」と絶賛した。この年以降、10年以上にわたり正捕手として活躍する。

7月19日の対読売ジャイアンツ戦(ナゴヤ球場)では、足を痛めた影響からスタメンを外れていた。8回裏、中日が7点差を猛追し4点差満塁のチャンスで代打出場し、木田優夫から同点となる満塁本塁打を放った。試合は延長戦となり、10回裏に巨人の抑え水野雄仁から再び本塁打を打ちサヨナラ勝ちを収めた。1試合で同点満塁ならびにサヨナラ本塁打を放つ快挙を成し遂げチームを勝利に導いた。

中日の本拠地が、ナゴヤ球場からナゴヤドームへと移転したは、打撃・守備ともに不振に陥る。特に盗塁阻止率は自身唯一となる1割台で、矢野輝弘にスタメンを譲る機会が増した。同年オフ、阪神タイガースがトレードによる中村の獲得を打診したが、結果的に矢野が移籍することとなった。

、4月6日の対横浜ベイスターズ戦では、6回一死満塁の打席で川村丈夫から「先制2ラン ダメ押し満塁弾 中村 援護の連発」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1999年(平成11年)4月7日付朝刊、27面(スポーツ面)。、6月12日の対横浜戦では2回一死満塁の打席で福盛和男からそれぞれ満塁本塁打「中村、逆転満塁アーチ 中日首位死守」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1999年(平成11年)6月13日付朝刊、15面(スポーツ面)。を放った。同年5月25日の対阪神タイガース戦では1-1で同点の9回一死満塁の打席で福原忍からサヨナラ安打「中日首位死守 中村サヨナラ打 ヒーローになって来い 監督が一言、ベテラン燃えた」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1999年(平成11年)5月26日付朝刊、22面(スポーツ面)。、8月29日の対横浜戦では1点を追う9回二死二・三塁の打席で島田直也から逆転サヨナラ2点適時打「竜 逆転サヨナラ」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1999年(平成11年)8月30日付朝刊、19面(スポーツ面)。の2度サヨナラ安打を放つなど、11年ぶりのリーグ優勝に貢献。

、安打数は自己最高を記録したが盗塁阻止率.218と守備面で精彩を欠く。同年オフに山田久志が新監督に就任した中日はドラフト1・2位に捕手を指名。さらに横浜の正捕手・谷繁元信をFAで獲得したことから、中村は出場機会を求めてトレードを志願し、金銭トレードで横浜へ移籍。中村は中日残留を悩んだが、同僚の立浪和義から「まだ野球が出来るなら出来るところに行ったほうがいい」とアドバイスを受け、横浜への移籍を決意した。

横浜時代

は開幕から相川亮二との併用を前提とし、中村の肩の調子が思わしくなかったため球団は急遽光山英和を獲得。相川が怪我で長期離脱している間に当時2年目の吉見祐治とバッテリーを組み、石川雅規(ヤクルトスワローズ)との新人王争いをサポート。新人王こそ逃したものの、吉見はこの年11勝を記録。一方でチーム防御率は4.09に低迷し、チーム自体も開幕から不調が続き8年ぶりのリーグ最下位に終わった。

、西武ライオンズから中嶋聡が加入。右肩痛のためキャンプから出遅れ、開幕スタメンは中嶋に譲ることとなった。5月23日の対巨人戦(横浜スタジアム)ではゲーリー・ラス、河本育之、岡島秀樹から1試合3本塁打(自身初)を放つなど、打率.268・11本塁打という成績を収めた。しかし、チーム防御率は4.80と最下位になり、守備の衰えは隠しきれなくなった。

、シーズン前(3月)に愛車のベンツを盗まれる被害に遭う。その後、車体は発見されたが野球道具一式(ミット・バット・スパイクなど)はみつからなかった。シーズン前半は相川を中心に併用されていたが、相川のアテネ五輪日本代表選出による離脱に伴い正捕手となる。だが、チームは失速し、自身が故障した間に台頭した鶴岡一成の存在もあり、最終的には47試合の出場にとどまった。11月25日、無償トレードで新規参入した東北楽天ゴールデンイーグルスへ移籍。

楽天時代

、藤井彰人に次ぐ2番手捕手として64試合に出場。7月31日の西武戦(インボイスドーム)では、有銘兼久とのバッテリーで楽天球団創立初の完封・完投勝利を果たした。同年シーズンオフに戦力外通告を受け、その後現役引退を表明した。

通算2000試合出場まであと45試合を残しての引退であった。21年間の現役は同期入団の中では最長である。

引退後

、横浜二軍「湘南シーレックス」バッテリーコーチに就任。には一軍バッテリーコーチに昇格。正捕手である相川の怪我の影響もあり、シーレックス時代の教え子である若手の斉藤俊雄・武山真吾に一軍の経験を積ませ指導したが、成績低迷の責任を取る形で退団。

、古巣・中日の二軍捕手コーチに就任。谷繁とはコーチと選手という立場の違いはあれど、トレード劇から8年越しで同チーム所属となった。からは一軍バッテリーコーチとなり、2年連続リーグ優勝に貢献する。退団。

、千葉ロッテマリーンズ一軍バッテリーコーチに就任中村武志氏 一軍バッテリーコーチ就任のお知らせ - 千葉ロッテマリーンズ・オフィシャルサイト 2012年10月31日。江村直也・田村龍弘・吉田裕太ら若手捕手の育成に尽力した。

10月5日、翌年の契約を結ばないと球団から発表。同年11月、韓国プロ野球・起亜タイガース一軍バッテリーコーチに就任。、8年ぶりのレギュラーシーズン優勝と韓国シリーズ制覇に貢献。より二軍バッテリーコーチに配置転換されたのち退団。

から古巣・中日に一軍バッテリーコーチとして復帰することが発表された。には木下拓哉が成長し、長らく課題だった正捕手不在が解消された週刊ベースボール2021年度プロ野球保存版カラー12球団選手写真名鑑号 2021年2月23日増刊、107頁。8年ぶりのAクラス(3位)に貢献する。

2月21日、胃の手術のためチームから離脱することを球団が発表。療養を経た3月18日に現場復帰を果たした。のちに胃癌であったことを明かしている。シーズンを終えた10月29日、同年限りでの退団が発表された。

からは中京テレビ・J SPORTS・DAZNの野球解説者、スポーツニッポンの野球評論家として活動する。3月23日には自身のYouTubeチャンネル『中村武志の39ちゃんねる』を開設した。

12月20日、起亜タイガースのバッテリーコーチに就任し、5年振りに同チームに復帰した。

人物

  • 若手時代の応援歌は『コンバット!』のオープニングテーマ。主力となった以降の応援歌は楽天移籍後にも使用された。横浜移籍後は若菜嘉晴の応援歌を引き継いだ。
  • 真面目で温厚な性格。制球が乱れがちな野口茂樹や吉見祐治などが投げる時は、ど真ん中にミットを構えたり、際どくストライクゾーンから外れても「うんうん」と頷くなど、現役時代を通じて投手に対し配慮していた。特に野口は、ヒーローインタビューで常に「中村さんのミットめがけて投げました」「中村さんのおかげです」とコメントしている。横浜・楽天の投手陣らもヒーローインタビューではバッテリーを組んだ中村の名を頻繁に挙げるなど、所属した全球団で投手から慕われている。特に山本昌とは非常に深く通じ合っており、山本が中村からの返球を受けてサインを覗くときには、すでに予想した球種で握りやすい向きにボールをセットしていた。技術的には変化球で追い込んでストレートで勝負するタイプであったベースボール・マガジン社『133キロ怪速球』(山本昌、2009年) ISBN 978-4583101699 p40-41。また投手陣からの信頼も厚く、中村が餞別としてビデオメッセージを贈った、ポーカーフェイスで知られる今中慎二が涙を流す一面も見られた。
  • 誰からも愛されるキャラクターである。デーブ大久保や中根仁(中村と同学年)からは、同学年のプロ野球選手の中で一番ぶっ飛んでいてネタの宝庫だと言われている。
  • 中日から移籍後も、シーズンオフにはCBCラジオ「久野誠のドラゴンズワールド」へ毎年ゲスト出演していた。
  • 星野が亡くなる2ヶ月前(2017年11月)、体調を労わり一助を担おうとしたが「お前の世話には死んでもならん」と拒否されたという。先述のように、星野とは「(あくまでも表面的な態度は)厳しい師匠」「そんな師匠でも心から慕っていた弟子」という関係を最後まで貫いた。

詳細情報

年度別打撃成績

中日43119113122430336112010302195.212.246.319.565
9830626730631805962120812971632.236.312.360.672
1254203522395120712841229255192947.270.370.364.734
972822562264907942111611861434.250.301.367.668
1043703334290130201636254942410745.270.316.489.805
113391351258616461283111313452577.245.314.365.679
12746140438881101815346008148801168.218.300.379.679
12545639837102160914550108046844814.256.339.364.703
943353012677100811132232031115711.256.327.369.696
115422376451021111215137202240925117.271.343.402.745
1023142802765150810436002326534211.232.301.371.672
12846840727961845137422072491236510.236.321.337.658
1274393953179120610942311332860659.200.275.276.551
12641735626871004109342216143916812.244.302.306.608
134455412291091602131271010131515917.265.317.318.635
横浜1073022832257805801900121541725.201.243.283.526
7923020923568011973730811250356.268.306.464.770
471111016204012780050520195.198.236.267.503
楽天641211118204002470030700253.180.229.216.445
通算:19年195564195705499138021491372023604291412125544112241072158.242.309.355.664
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別守備成績

年度球団捕手
試合刺殺捕殺失策併殺捕逸守備率企図数許盗塁盗塁刺阻止率
1987中日4219013121.99517134.235
198898513548125.986583226.448
1989121624764128.994643133.516
19909544056365.994533419.358
1991101596623106.995755322.295
199211263555376.997684721.309
1993127884823169.997522725.481
1994125803553156.997513615.294
19959457356384.995542628.519
1996114784728117.991825032.390
1997965604551111.992776215.195
1998128868741103.999814338.407
1999127769733117.996785028.359
2000125810733134.9971046935.337
2001134964775125.9951017922.218
2002横浜107643525115.993826121.256
20037943838171.998564214.250
20044324618261.99230219.300
2005楽天64233200|321.000413110.244
通算19321157310516418396.9951224807417.341
  • 各年度の太字はリーグ最高

表彰

  • 月間MVP:1回(野手部門:1991年7月)
  • 最優秀バッテリー賞:2回(1993年 投手:山本昌広、1999年 投手:野口茂樹)

記録

初記録
  • 初出場:1987年4月14日、対広島東洋カープ1回戦(ナゴヤ球場)、6回裏に石井昭男の代走として出場
  • 初先発出場:1987年5月29日、対広島東洋カープ7回戦(ナゴヤ球場)、8番・捕手として先発出場
  • 初三振:1987年5月30日、対広島東洋カープ8回戦(ナゴヤ球場)、3回裏に北別府学から
  • 初安打:同上、7回裏に北別府学から二塁打
  • 初本塁打・初打点:1987年5月31日、対広島東洋カープ9回戦(ナゴヤ球場)、5回裏に白武佳久から
  • 初盗塁:1987年7月7日、対阪神タイガース13回戦(石川県立野球場)、8回裏に二盗(投手:浜田知明、捕手:木戸克彦)
節目の記録
  • 1000試合出場:1996年7月17日、対読売ジャイアンツ12回戦(東京ドーム)、8番・捕手として先発出場 ※史上331人目
  • 100本塁打:1997年5月7日、対阪神タイガース4回戦(ナゴヤドーム)、3回裏に川尻哲郎から逆転決勝2ラン ※史上189人目
  • 1000本安打:1999年7月18日、対横浜ベイスターズ18回戦(ナゴヤドーム)、2回裏に矢野英司から左前安打 ※史上197人目
  • 1500試合出場:2000年9月2日、対読売ジャイアンツ24回戦(ナゴヤドーム)、8番・捕手として先発出場 ※史上130人目
  • 1000三振:2003年4月29日、対ヤクルトスワローズ4回戦(明治神宮野球場)、8回表に石川雅規から ※史上30人目
その他の記録
  • オールスターゲーム出場:8回(1988年 - 1991年、1993年、1996年、1998年、2001年)

背番号

  • 39(1985年 - 2005年)
  • 86(2006年 - 2008年)
  • 83(2009年 - 2011年、2024年 - )
  • 80(2012年、2019年 - 2021年)
  • 82(2013年 - 2018年)

注釈

出典

関連項目

  • 京都府出身の人物一覧
  • 中日ドラゴンズの選手一覧
  • 横浜DeNAベイスターズの選手一覧
  • 東北楽天ゴールデンイーグルスの選手一覧

外部リンク

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 | 最終更新:2024/04/13 07:51 UTC (変更履歴
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