田中太一 : ウィキペディア(Wikipedia)

田中 太一(たなか たいち、1993年2月27日 - )は、大分県大分市出身の元プロ野球選手(投手)。

経歴

プロ入り前

大分県大分市出身。小学2年時に桃園スポーツ少年団で野球を始めた。中学時代は大分リトルシニアに所属し、3年時の春と夏に全国大会に出場。また、源田壮亮は中学校の同級生である。

大分工高では1年時から公式戦に登板。3年夏には、エースとして同校17年振りの甲子園出場に貢献。甲子園では、同校の初勝利を狙い延岡学園高と対戦したが、延長戦の末に惜敗。

10月28日、プロ野球ドラフト会議にて読売ジャイアンツから3位指名を受けたYomiuri Giants Official Web Site。背番号は68

巨人時代

育成・強化指定選手に指名され、は体づくりと技術向上に集中。シーズン後半にイースタンリーグで3試合に登板したYoungPower『週刊ベースボール』2012年1月23日号、ベースボール・マガジン社、2012年、雑誌20444-1/23, 94-95頁。 。

の秋季キャンプでは、投げた球が田畑一也コーチの顔面を直撃するアクシデントもあった。

10月25日、球団から自由契約とすることが発表され田中太一選手が自由契約巨人球団公式サイト2014年10月25日配信、11月13日に育成選手契約を締結し、背番号は013へ変わった。

に球速が最速155km/hを計測。7月末には1軍の全体練習に呼ばれシート打撃に登板した。支配下登録の候補にも名前が挙がったが昇格は見送られ、最終的にイースタンリーグで29試合に登板し、2勝4敗、防御率は4・36の成績を残した。同年10月2日、球団より戦力外通告を受けた。これに対し、「これからも野球をしたい。野球を続けていきたいです」と発言し、現役続行を希望した。

巨人退団後

当初は、11月12日に阪神甲子園球場で開催される12球団合同トライアウトを受験し、NPB他球団への移籍を目指す予定だったが、初芝清が監督を務める社会人野球のセガサミーからオファーを受け、トライアウトの予定をキャンセル。「目指すところが都市対抗野球になった。個人のことよりも、チームが勝って都市対抗に出て恩返ししたい」と決意を示した。その後背番号は14に決まった。

の第88回都市対抗野球大会では中継ぎとして活躍したが、2回戦のJR西日本戦で、5-5の同点で迎えた8回から登板すると、9回に3失点を喫し敗戦投手となった。第43回社会人野球日本選手権大会は、関東代表選手権代表決定戦のJX-ENEOS戦で先発したが、3回1/3を投げて被安打9、自責点5と打ち込まれ敗戦投手となり、チームは予選敗退となった。その後もセガサミーの主力投手となっていたが、12月24日にセガサミーを退部することが発表された。

その後夫人の故郷である秋田県能代市に移住し、2月10日に同市を本拠地とする社会人野球クラブチームである能代松陵クラブに加入することが発表された。現在は建設会社で働く傍らプレーを続けている元巨人の田中さん、妻の古里・能代へ移住 松陵クラブでプレー秋田魁新報 2021年4月21日。

第92回都市対抗野球大会に出場するTDK(秋田県にかほ市)の補強選手に選出された。

選手としての特徴

スリークォーターから投げられる最速157km/hの速球に高速カーブ、スライダーを織り交ぜ高い奪三振率を誇る。ただし本人によると、「太一カーブ」とも称される縦に大きく曲がる変化球は実際には縦のスライダーだという。2016年からはツーシームも新たな武器として実戦に取り入れている。

直球、ツーシームの速球系の球は全て打者の手元でわずかに動き、外国人投手のように「動くボール」でバットの芯を外す。

詳細情報

年度別投手成績

一軍公式戦出場なし

背番号

  • 68 (2011年 - 2014年)
  • 013 (2015年 - 2016年)

関連項目

  • 大分県出身の人物一覧
  • 読売ジャイアンツの選手一覧

外部リンク

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 | 最終更新:2024/02/03 11:14 UTC (変更履歴
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