大岡虎雄 : ウィキペディア(Wikipedia)

大岡 虎雄(おおおか とらお、1912年3月28日 - 1975年8月23日プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、97ページ)は、福岡県出身のプロ野球選手(内野手)。

来歴・人物

豊国中学(現豊国学園高)を経て、社会人野球の強豪・八幡製鐵所で四番打者として、八幡の虎の異名をとる。1931年の日米野球で全米選抜チームと八幡製鐵との対戦が下関長府球場で行われた。この試合で大岡は、投手(ピッツバーグ・パイレーツ)から2本の本塁打を放ったが「日米野球80年史 1934ー2014」ベースボール・マガジン社、大岡自身先発登板し、アル・シモンズやミッキー・カクレーンら4選手に計6本の本塁打を浴び8-17で敗れた。

1935年に東京巨人軍にスカウトされたが、八幡製鐵所に残留した。そのころは、若林忠志、湯浅禎夫、野口明らとともに投手としてリストアップされていたようだった(「巨人軍50年 写真でつづる栄光の記録」読売新聞社 155ページ)。

都市対抗野球大会には11回出場し、通算5本塁打を放つ。この記録は大会記録として、1976年に高梨英夫(大昭和製紙北海道)に更新されるまで、38年間破られなかった「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟・毎日新聞社。

1949年に大映スターズに助監督兼選手として入団。普通の選手なら引退を考えるような年齢である37歳での入団ではあったが、5月7日の阪神タイガース戦では3打席連続本塁打を放っているみやぎ野球史)狭くて本塁打続出、評定河原 - 朝日新聞など、1.2キロのバットで26本の本塁打を放ち111打点を稼いだ。同年に記録した111打点は、新人選手の打点記録としては1位であり、新人選手が3桁の打点を記録したのも大岡のみである。

1950年に松竹ロビンスに助監督兼選手として移籍。岩本義行・小鶴誠とのクリーンナップトリオで水爆打線と呼ばれた強力打線を形成し、34本の本塁打・109打点の好成績でチームのセ・リーグの初代チャンピオンに貢献した。

また腕っぷしも相当のものであったらしく、当時は松竹でもチームメイトであった岩本義行が、"岩本のあんちゃんはケンカが強い"と言われていたが、鈴木龍二は「岩本君より大岡君の方が強い」、大和球士は「大岡が一番じゃないかな、プロ野球三十年史上では」と話している。

1951年途中退団。1975年8月23日死去。享年63。

詳細情報

年度別打撃成績

大映1215194706812826126234111320--47--284--.272.341.498.839
松竹1356075528615518134277109630--53--27819.281.346.502.848
1975666165012410010--9--0141.242.333.364.697
通算:3年2751201108816029949261535230960--109--417620.275.343.492.835
  • 各年度の太字はリーグ最高

背番号

  • 4 (1949年)
  • 11 (1950年 - 1951年)

関連項目

  • 福岡県出身の人物一覧
  • 大映ユニオンズの選手一覧
  • 松竹ロビンスの選手一覧
  • 加藤喜作

外部リンク

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 | 最終更新:2024/05/05 07:36 UTC (変更履歴
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