飯島滋弥 : ウィキペディア(Wikipedia)

飯島 滋弥(いいじま しげや、1918年10月11日 - 1970年8月9日)は、千葉県香取郡吉田村(現在の匝瑳市吉田)出身のプロ野球選手(内野手、外野手)・コーチ・監督、解説者。

経歴

プロ入り前

旧制千葉中学校時代の1931年と1932年に甲子園へ二度出場『シリーズにっぽんの高校野球 vol.8 関東編Ⅰ』(ベースボール・マガジン社) 73頁。ISBN 978-4-583-61575-2。旧制慶應義塾大学に進学後は一塁を守り「百万ドルの内野陣」と謳われた。東京六大学リーグでは通算38試合に出場し、112打数25安打、打率.223、1本塁打。卒業後は日立航空に務めるが、視力と右膝が悪かったために軍隊に召集されなかった「天才肌の師匠とロマンチストの弟子。もっとも艶やかな打撃開眼の瞬間」。

現役時代

戦後、職業野球が再開されると、28歳で新しく結成されたセネタースへ入団。は新人ながら主将を任され、大下弘と共に中軸を打ち、打率.312(7位)、本塁打12本(2位)の成績をあげる。しかし、翌に球団が東急に売却されると打撃不振に陥り、フロントとの確執もあって、7月に解雇され、金星スターズへ移籍。しかし、この時期の移籍は禁止されていたため、出場できなかった。

同年オフに大映が金星を買収して大映スターズになると、翌は打率.293、本塁打25本を放ち主軸に返り咲く。その後も主軸打者として、は打率.322(リーグ6位)、77打点(リーグ8位)、は打率.294(9位)、63打点(4位)と好成績を残した。1951年10月5日の対阪急戦(大須球場)では1回表に満塁ホームラン、7回表に満塁ホームランと3ランホームランの1イニング2本塁打の計3本の本塁打を放ち、1試合2満塁本塁打、1試合11打点、1イニング7打点の日本プロ野球記録を打ち立てた。この試合のスコアブックは大映のチーム一同が夜行列車で東京に運び、翌朝の東京駅で飯島がリーグの記録員に手渡した室靖治『「記録の神様」山口以九士と野球の青春』道和書院、2022年、pp.159 - 160。飯島にはリーグから表彰状が後日贈られたが、記録員の山内以九士によると、飯島は「三つの記録を作ったのだから三枚の表彰状をくれてもよさそうなものなのに」という反応を示したという。

には打率.336で首位打者のタイトルを獲得年度別成績 1952年 パシフィック・リーグ、当時のパ・リーグ記録となる78四球を選んだ2年前の飯田徳治の記録を破り、2年後に山内和弘に破られた。

も主に四番を打って、打率.261、61打点を記録するが、同年オフに自由契約となって、南海ホークスへ移籍。

は開幕戦から5番・一塁で出場していたが、高橋ユニオンズから加入した深見安博が右翼手で起用され、近鉄から加入した杉山光平が一塁に回ったことからレギュラー争いに敗れ、73試合の出場で打率.180に終わる。同年限りで現役を引退した。

引退後

引退後は、日本短波放送「プロ野球ナイトゲーム中継」( - )、文化放送、フジテレビ、ニッポン放送、ラジオ関東で解説者として活動。に一軍打撃コーチとして古巣・東映に復帰し、「月に向かって打て」という名言で大杉勝男をホームラン打者として大成させたことで知られる。からは二軍監督を務めたが、同年シーズン途中で休養した大下弘監督に代わり、後半からは監督代理を務めた。二軍監督に戻った限りで退団。

8月9日に胃がんのため死去『朝日新聞』1970年8月11日付夕刊 (3版、9面)。。

亡くなる前日の8月8日に、飯島は後楽園球場のスタンドで、グラウンドにいた当時巨人監督の川上哲治と会話をしたという話がある。川上が同球場の監督室で飯島の訃報を聞いた際、近藤唯之をはじめ居合わせた記者にその話をしたところ、誰もが「まさか」と思い、そのうちの一人が「胃癌で亡くなった人がその前日に球場に来ることができますか」と言ったが、川上は「飯島さんに会ったものは会った」と自説を譲らなかったという。これについて近藤は著作の中で、「川上は嘘をつく人ではないし、第一こんなことで嘘をついても仕方ないので、飯島の最後の執念がそうさせたとしか思えない」と綴っている「背番号の運命」をはじめ、近藤の著作で飯島を取り上げたもの多数に記載あり。。

選手としての特徴

調子に波があったが、選球眼が良く、打ちだしたら止まらなかった。失策の少ない三塁守備も安定感があった「【プロ野球世代別ベストナイン】「1919年」“花の13年組”を中心とする“打撃の神様世代”」が、守備連携に難があり、守備位置は一塁、右翼と移った。

人物

性格は天才肌の一言居士で気難しく、わがままと評された。また、シーズンオフの契約更改でよく揉めていたため、ゴネ島の異名があった『プロ野球を創った名選手・異色選手400人』315頁。

詳細情報

年度別打撃成績

セネタース東急急映1034553786811823512187571142--72--332--.312.426.495.921
1124693864590203613434742--75--641--.233.366.347.713
4718015514326134914410--24--117--.206.317.316.633
大映122494423701242922523284431--67--346--.293.394.548.942
1114844237813620227241771220--52--94419.322.407.570.977
8536031356921401816063101--44--2406.294.384.511.896
119495411681381951320659211--78--53115.336.447.501.949
6019215612386004420302--29--51711.244.379.282.661
121491418441091801015761463558--74612.261.360.376.736
南海73168133624311321501012806325.180.347.241.588
通算:10年95337883196461901158191151442484482212652704734668.282.391.451.842
  • 各年度の太字はリーグ最高
  • セネタースは、1947年に東急(東急フライヤーズ)に、1948年急映(急映フライヤーズ)に球団名を変更

年度別監督成績

年度球団順位試合勝利敗戦引分勝率
|style="text-align:center;"|東映6位5521331.389
通算:1年5521331.389
  • 1968年は8月4日から閉幕まで大下弘の休養による監督代理

タイトル

  • 首位打者:1回 (1952年)
  • 最高出塁率:1回(1952年)※当時は連盟表彰無し

表彰

  • ベストナイン:3回 (外野手部門:1950年 - 1952年)
  • オールスターゲームMVP:1回 (1952年第2戦)

記録

  • 1イニング最多本塁打:2、1951年10月5日、対阪急戦、7回に3ランと満塁本塁打 ※NPB史上3人目『日本プロ野球記録大鑑』410頁
  • 1試合最多満塁本塁打:2、1951年10月5日、対阪急戦 ※NPB記録『日本プロ野球記録大鑑』451頁
  • 1イニング最多打点:7、1951年10月5日、対阪急戦 ※NPB記録
  • 1試合最多打点:11、1951年10月5日、対阪急戦 ※NPB記録『日本プロ野球記録大鑑』532頁
  • 新人三割打者:1946年 ※NPB史上2人目『日本プロ野球記録大鑑』252頁
  • オールスターゲーム出場:3回 (1951年、1952年、1954年)

背番号

  • 4 (1946年 - 1948年)
  • 5 (1949年 - 1954年)
  • 1 (1955年)
  • 40 (1967年)
  • 50 (1968年 - 1969年)

関連情報

出演番組

  • BASEBALL SPECIAL〜野球道〜 - 同局プロ野球中継の現行タイトル。
  • プロ野球ニュース - 第1期
  • ニッポン放送ショウアップナイター - 同局プロ野球中継の現行タイトル。
  • ラジオ日本ジャイアンツナイター - 同局プロ野球中継(ナイター)の現行タイトル。

参考文献

  • 週刊ベースボール 2011年9月19日号連載「ツーシームみたいに~心揺さぶる名言~」

参考文献

関連項目

  • 千葉県出身の人物一覧
  • 慶應義塾大学の人物一覧
  • 北海道日本ハムファイターズの選手一覧
  • 大映ユニオンズの選手一覧
  • 福岡ソフトバンクホークスの選手一覧

外部リンク

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 | 最終更新:2024/04/28 23:22 UTC (変更履歴
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