フョードル・オツェプ : ウィキペディア(Wikipedia)

フョードル・アレクサンドロヴィチ・オツェプ(ロシア語 , 1895年2月9日 - 1949年6月20日)は、ソビエト連邦の映画監督、脚本家である。革命前のロシア帝国でキャリアを始め、ソ連時代に監督となり、ヴァイマル共和国/ドイツ帝国、フランス、アメリカ合衆国、カナダへと移住し、映画をつくりつづけた。フランス時代以降は、フェドール・オゼップFedor Ozep)と綴られた。

人物・来歴

1895年(明治28年)2月9日、ロシア帝国(現在のロシア)のモスクワに生まれる。

帝政時代のロシアで、ヤーコフ・プロタザノフ監督の助手として出発している。プロタザノフのもとで名作『スペードの女王』(1916年)、ロシア革命後のソビエト連邦時代に同監督の『アエリータ』(1924年)を手がけ、脚本を書いた。

1926年(大正15年)に、ボリス・バルネットとの共同監督作品『ミス・メンド』(日本未公開)で、映画監督としてデビューした。

ゴーリキー名称映画撮影所での同僚フセヴォロド・プドフキンから影響を受けた。

1929年(昭和4年)、レフ・トルストイの小説『生ける屍』に基づく同題の脚本を、ヴァイマル共和国(現在のドイツ)で執筆、オツェプが監督し、ソビエト・ヴァイマル合作で完成した。その後二度とソビエト連邦に戻らなかった。

1931年(昭和6年)、ドストエフスキーの小説『カラマーゾフの兄弟』を映画化、エリーヒ・エンゲルスと共同で監督した。

同年、フランスに移住。1934年(昭和9年)フランスで製作された監督作『熱風』が、第2回ヴェネツィア国際映画祭で後の金獅子賞にあたるムッソリーニ杯の正式出品作品となった。

1942年(昭和17年)、第二次世界大戦の勃発に伴い、アメリカ合衆国に移り、同地でヘンリー・S・ケスラーとの共同監督作『三人のロシア娘』(日本未公開)を発表。

さらにカナダに亡命した。同国のケベック州でフランス語、英語の映画をそれぞれ監督した。

1949年(昭和24年)6月20日、カナダの首都、オンタリオ州のオタワ[[:de:Fjodor Alexandrowitsch Ozep]]、あるいは米国カリフォルニア州ロサンゼルス#外部リンク欄、Internet Movie Databaseの本項リンク先の記述を参照。二重リンクを省く。[[:fr:Fedor Ozep]](ロサンゼルス郡ビバリーヒルズ[[:ru:Оцеп, Фёдор Александрович|]] - ru.wikipedia)のいずれかで死去したとされる。満54歳没。

フィルモグラフィ (主な監督作品)

  • Miss Mend () : 共同監督ボリス・バルネット、1927年
  • Земля в плену () : 1928年
  • 『生ける屍』 : 1929年 /
  • 『カラマゾフの兄弟』 Der Mörder Dimitri Karamasoff : 共同監督エーリヒ・エンゲルス、1931年
  • Mirages de Paris : 1932年 /
  • Großstadtnacht : 1933年 / (Mirages de Parisの独語版)
  • 『熱風』 Amok : 1934年 (別題La peur)
  • La Dame de pique : 1937年  原作:プーシキン著『スペードの女王』
  • La principessa Tarakanova : 共同監督マリオ・ソルダーティ、1938年 /
  • 『裏切者』 Gibraltar : 1938年
  • Three Russian Girls : 共同監督ヘンリー・S・ケスラー、1943年
  • Le Père Chopin : 1945年
  • Cero en conducta : 共同監督ホセ・マリア・テジェス、1945年 /
  • La Forteresse : 1947年
  • Whispering City : 1947年 - 遺作

外部リンク

  • - goo 映画

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