「弱体化する教会権力、世俗権力の台頭」エドガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命 talismanさんの映画レビュー(感想・評価)
弱体化する教会権力、世俗権力の台頭
すごく面白かった。映像と音楽が素晴らしく美しく、映像のカットがよく練られていた。エドガルドがとても可愛い。ママとの静かな面会後、きょうだい(自分を入れて9人きょうだい!)にもママにもパパにも会いたいと泣き叫びながら連れ去られる様子が可哀想でならなかった。女中を雇っている裕福なお家の子、誘拐後も眠るときはユダヤ教のお祈りをママに言われた通りちゃんとする。修道院ではエドガルド同様に連れて来られたであろう男の子達と生活を共にし、ラテン語、カトリック・キリスト教の教えを学ぶ。7才にまだ満たないが賢いエドガルドは目覚ましく教義を習得していく。
青年になったエドガルド、自分を可愛がってくれた教皇が教会の祭壇に向かう中、いきなり教皇を手で押し倒す。その時、私は驚いたが嬉しかった。でもそれも束の間、エドガルドは教皇に謝罪を求められた。床にキスを、更に床に十字架を3つ、舌で描けと言われその通りにする。教皇の死後、ローマの街では暴動が起き、教皇の遺体をテーヴェレ川に投げこめ!の声が怒涛のように燃え上がる。初めは「もう亡くなった方です!」と教皇を守っていたエドガルドも「こんな教皇は川に投げ捨てればいいんだ!」と叫ぶ。危篤の母のもとに駆けつけたエドガルドがしようとしたこと。青年エドガルドの怒りと従順と信仰と理性の混乱は想像を絶する。
誘拐されてカトリックの教義を学んだ男の子が成人して今更何をして生きていけるのか?教皇に刃向かう思いとどう折り合いをつけたのか?イエスの苦しみと悲しみを自分のものとして引き受けることにしたのか?暖かい家庭を忘れることはなかったのか?
イエスの磔刑像を見ながら、手足を貫く杭はユダヤ人によって打たれたものと修道女に教わった子どものエドガルド。彼は夢を見る;自分が磔刑像によじ登って両手、両足の杭を抜く。するとイエスは生き返り十字架から降りてすたすたと歩いて外へ行った。イエスもユダヤ人であることをエドガルドはその後、学んだはずだ。
ナポレオンは教会で行われた戴冠式でその場に居た教皇を無視して自ら王冠を自分の頭にのせた。それ以前から教皇の力は弱体化に向かっていた。「誘拐」から3年後の1861年、イタリアが統一した。世俗権力がますます強大になる一方、教皇の精神的支柱としてのオーラも権威も財力も低下するばかり。ドイツ統一はイタリアに遅れること10年、1871年。フランス革命後の暴動と保守反動、急進的にことが進む際の暴力性に恐怖を覚える。「むかしむかし、あるところに・・・」で始まるお話でなく、今の問題としてベロッキオ監督は「誘拐」を蘇らせた。
おまけ
1)青年期のエドガルド役は『蟻の王』(アメリオ監督)で主人公と恋に落ちるエットレ!この映画でも美しく素晴らしい演技だった。名前はレオナルド・マルテーゼ、銘記!
2)スピルバーグも映画化したかったが断念した。もし彼が撮っていたら、視点も描き方も全く異なっていただろう
コメントありがとうございます。実はこの映画にはかなりショックを受けてしまいまだ立ち直れないのです。特に最後にエドガルドが母親を洗礼しようとするところ。宗教というものはそんなに人を見境なくさせるものなのでしょうか?
『悪は存在しない』へのコメントありがとうございます。
監督がどういう了見でああいうラストにしたのか、それを想像するだけでも結構楽しめました。
意外と適当な思い付きだったのに、賞をもらっちゃった、どうしよう😅
なんて感じでも面白いなぁ、とか。
この映画、GODZILLAの後に見ようと思ってます。